夢幻戦士ヴァリスCOLLECTION II 通常版 Nintendo Switch HAC-P-A8Y4A
【発売】:日本テレネット
【対応パソコン】:PC-88VA
【発売日】:1987年
【ジャンル】:シューティングゲーム
■ 概要
● PC-88VAという“過渡期の高性能機”に投げ込まれた、野心作としての立ち位置
『神羅万象』は、1987年に日本テレネットから発売されたPC-88VA専用ソフトで、サブタイトルは「超能力者たちの塔」。価格は7,800円、5インチ2HDディスク2枚組という当時らしいパッケージ構成を持つ作品である。内容面では単純なアクション一辺倒ではなく、奥行き方向に進む疑似3Dシューティングと、横視点の2Dアクションを交互に組み合わせた構成が最大の特徴になっている。しかも主人公はひとり固定ではなく、5人の勇者から選ぶ方式を採用しており、選んだ人物ごとに性能差や結末の違いが用意されていた。PC-88VA自体が、従来のPC-8800シリーズから性能を大きく押し上げた新世代機として登場した一方、普及面では苦戦した機種だったため、本作は単なる1タイトルというより“新ハードの実力を見せるための見本”としての意味合いも強かったと言える。
● 舞台は3009年――科学文明が崩れた後に残った、神話と超能力の混交世界
本作の物語は、いわゆる中世風ファンタジーでもなければ、純粋なSFでもない。荒廃した未来世界を背景にしながら、その支配構造や価値観は神話的で、世界を守る存在として女神ソラリスが君臨している。時代設定としては3009年という数字が打ち出されており、文明が進みすぎた果てに神秘へ回帰したような、独特の終末観が漂う。そこへソラリスの力を奪おうとする魔王が現れ、世界は再び崩壊寸前の局面に追い込まれる。ここだけを抜き出せば王道の救済譚に見えるが、『神羅万象』が面白いのは、和風・仏教・超能力・近未来兵器のモチーフが一つの作品の中で無造作に、しかし妙な説得力を持って同居している点にある。たとえば登場する勇者の顔ぶれだけ見ても、機関銃を持つ戦争英雄、修験者めいた男、仏法守護神を思わせる存在、新選組風の剣士、黒魔術師と、普通なら別作品に分かれていそうな要素が一堂に会している。この雑食性こそが、1980年代の国産パソコンゲームらしい濃さであり、本作の第一印象を非常に強くしている。
● 物語の導入はシンプル、だが奥には“見えている敵が本当に敵なのか”という含みがある
導入だけを見れば、筋立てはわかりやすい。力を失いかけた女神ソラリスが、世界を救える者を求め、各時代から勇者・賢者級の人物を呼び寄せる。そして選ばれたひとりが“光の塔”へ向かい、迫り来る魔王を打ち倒す――という流れでゲームは始まる。だが、本作は単なる勧善懲悪で終わらない。表向きは魔王を倒せばすべて解決という構図に見えながら、実際には見えていた構図の裏側に別の真相が潜んでおり、さらに魔王テンカイが特定の主人公と深い因縁を持つことが語られる。つまり『神羅万象』のストーリーは、表面上は派手なアクションゲームでありながら、内部には“正義の看板そのものを疑わせる仕掛け”を抱えている。この二重構造があるからこそ、クリア後の印象がただの爽快シューティングで終わらず、妙に記憶に残るのである。
● 5人の主人公選択は、難易度設定を物語と一体化した仕組みでもあった
本作を語るうえで外せないのが、5人の勇者から主人公を選ぶシステムである。ガルシア、アマクサ、毘沙門、斬九丸、マーラーという個性の強い顔ぶれが並び、単に見た目が違うだけでなく、使える能力や戦い方に差がある。斬九丸を除く4人はESPと呼ばれる特殊能力を使える一方、斬九丸だけは飛行能力のみという設定で、3Dパートの連射性能でも不利とされる。そのため、選ぶキャラクターがそのまま実質的な難易度選択になっており、もっとも苦しいのが斬九丸、比較的取っつきやすいのが他の主人公たち、という構図ができている。しかもエンディングは主人公ごとに異なり、斬九丸だけが唯一の“グッドエンディング”に到達できるとされるため、ゲーム側は最難関キャラに物語上のご褒美を集中させている。ここが実に80年代らしい。現代的な設計なら全キャラで同等の達成感を配るところを、本作はあえて“いちばん苦しい道を通った者にだけ真相を見せる”という作りにしている。だからこのゲームは、ただ好きなキャラを選んで終わりではなく、「本当の結末を見るには誰を選ぶべきか」という攻略以前の選択そのものが、プレイ体験の中心になっているのである。
● 3Dシューティングと2Dアクションの反復が、一本のゲームに複数ジャンルの手触りを持ち込んだ
ゲーム進行は、いわゆるスペースハリアー型の奥スクロール3Dシューティングと、横スクロールの2Dアクション/ボス戦が交互に現れるスタイルで構成される。見た瞬間の印象はたしかにそれに近いが、中身は単純な模倣ではない。ライフメーターや必殺技、主人公ごとの差別化、そしてサイドビューの大型ボス戦が盛り込まれており、当時の家庭用・パソコン用アクションとしてはかなり欲張った設計だ。3Dステージはスピード感と視覚的迫力を担当し、2Dステージは地形処理やジャンプ、ボスの弱点攻撃といった“詰める面白さ”を担う。つまり本作は、爽快感と攻略感を別々の局面に振り分けることで、単調化を防いでいる。特にPC-88VAはスプライト機能や高い色表現などで当時としては豪華な仕様を備えており、そうした新ハードの能力をユーザーに実感させるには、2Dと擬似3Dの両方を見せる本作のようなタイトルは理にかなっていた。ハードの性能アピールとゲーム内容が噛み合っている、という意味でも『神羅万象』は象徴的な1本だった。
● 画面の派手さだけでなく、“見せる演出”を重視したテレネットらしさが濃い
日本テレネットの作品には、単に操作して遊ぶだけでなく、ビジュアルシーンや音楽、語りの断片で世界観を強く印象づける傾向があった。『神羅万象』にもその流儀ははっきり出ている。広告文の時点で「VAを極めたリアルアクション」「常識を越えた高速3Dアクション」といった言葉が並び、ゲーム内容を単なるスペック比較ではなく、ひとつの“映像体験”として売ろうとしていたことがうかがえる。しかも本作は、和風とも終末SFとも超能力バトルとも取れる独特のイメージを前面に押し出しており、そこに漢字主体のステージ名や異形の敵、神々と妖異が混じるようなビジュアルが重なることで、説明しにくいのに強く記憶へ残る空気を作っている。テレネット作品はしばしば、理屈より先に“雰囲気で惹き込む力”を持つが、本作もまさにその系譜にある。プレイヤーはまず、世界設定を完全に理解する前に、この異様で仰々しい空気に掴まれる。そして遊んでいくうちに、その大仰さが単なるハッタリではなく、作品全体のアイデンティティであることに気づく。『神羅万象』の概要を一言で言うなら、ジャンル混成型アクションである以上に、“演出主導で記憶に爪痕を残すテレネット作品”という表現のほうがしっくりくる。
● サウンド面でも存在感があり、ゲーム本編の外でも名前が残った
本作は内容だけでなく、音楽面でも印象を残したタイトルとして扱われることがある。作曲は小川史生、恋瀬信人の名が挙げられており、FM音源対応の充実したBGMが評価点のひとつとされる。さらにタイトル画面でF5キーを押すことでミュージックモードに入れるという、当時のテレネット作品でおなじみのサービスも語られている。興味深いのは、ゲーム本体を超えて音楽商品側にも本作の曲が収録されている点で、ゲームプレイだけでなく“聴くためのテレネット作品”としても一定の存在感を持っていたことがわかる。1980年代の国産PCゲームでは、まだ音楽が付加価値から主役へ移り始める時期だったが、その流れの中で『神羅万象』は、ビジュアルとサウンドを併せて押し出す作品として位置づけられる。つまりこのゲームは、単に難しい・派手だというだけではなく、「起動して眺め、聴いて、世界に浸る」ことまで含めて商品価値を持っていたのである。そう考えると、本作が後年になっても話題に上る理由は、ゲーム部分の技巧だけではなく、総合的な演出パッケージとしての完成度にあると言ってよい。
● 総じて『神羅万象』は、“PC-88VA時代の夢”を濃縮したような作品だった
総合すると『神羅万象』は、未来崩壊後の神話世界を舞台に、5人の異能戦士からひとりを選び、擬似3Dと2Dアクションを行き来しながら女神と魔王をめぐる戦いへ挑む、非常に濃い作風のアクション作品である。その本質は、単なる「昔の変わったシューティング」にとどまらない。PC-88VAという意欲的だが難しい立場に置かれたハードの性能を見せる役割、テレネットが得意としたビジュアルと音楽による演出性、そしてキャラクター選択によって難易度と物語を一体化する設計思想が、一作の中で強く結び付いている。だから本作は、普及台数の多かった大ヒット作のように広く共有された記憶ではなくても、触れた人には強い輪郭をもって残る。華やかな宣伝文句、濃すぎる世界設定、荒削りだが尖ったゲームデザイン、そして最後に待つ“誰でクリアしたか”まで含めた物語性。その全部を抱えた『神羅万象』は、1987年という時代の国産PCゲームが持っていた背伸び、実験精神、浪漫をまとめて封じ込めた一本だったと表現できる。
■■■■ ゲームの魅力とは?
● 一目で忘れにくい、和風・終末SF・超能力が混ざり合った独特の世界観
『神羅万象』の魅力を語るうえで、まず最初に挙げたいのは、他の作品と簡単に入れ替えのきかない世界観の濃さである。本作は未来世界を舞台にしながら、いわゆる金属的なSF一色では進まない。女神ソラリス、魔王、勇者、塔、超能力といった言葉が並ぶだけでもすでに独特だが、さらに登場人物の顔ぶれが実に強烈で、機関銃を抱えた戦争の英雄、風神の化身を思わせる異能者、仏教的な意匠をまとった戦士、新選組のリーダーを未来風に再解釈したような剣士、そして暗黒魔術を操る者まで同じ物語の中に並ぶ。この雑多さは、普通なら設定の統一感を失わせそうなものだが、『神羅万象』では逆にその統一されきらない危うさが魅力へ転化している。プレイヤーはゲームを始めた瞬間から、「これはいったいどんな世界なのか」と気になり、細部を理解する前にまず雰囲気へ引き込まれる。整いすぎた現代の作品にはない、“説明しきらないまま勢いで押し切る力”があるからこそ、本作の第一印象は非常に強い。理屈で噛み砕く前に世界そのものへ呑み込まれてしまう感覚、それが『神羅万象』の大きな魅力の入り口になっている。
● 3Dシューティングと2Dアクションを往復する、欲張りで贅沢なゲーム構成
本作の面白さは、単に設定やビジュアルだけでは終わらない。実際に遊び始めると、奥へ進む3Dシューティングのパートと、横視点で進む2Dアクションパートが交互に現れ、プレイ感覚が目まぐるしく変わっていく。この構成が実にユニークで、一本のゲームでありながら二種類以上の遊びを味わえるような充実感がある。3Dパートでは前方から押し寄せる敵や障害物を高速で処理していくため、反射神経と先読みの感覚が試される。一方で2Dパートに移ると、ジャンプの間合い、敵との接触距離、ボスの攻撃パターンの把握といった、もう少し足場を意識した攻略が求められる。この切り替えによって、ゲーム全体が単調になりにくい。もし最初から最後まで奥スクロールだけなら、見た目の派手さはあっても疲れや飽きが来やすかったはずだし、逆に横アクションだけなら、世界観のスケール感やスピード感はやや薄れただろう。『神羅万象』はその両方を一作の中へ抱え込むことで、一本の冒険をより立体的に感じさせている。この“何でも盛り込みたい”という野心が、そのままゲームの個性として成立している点に、本作ならではの価値がある。
● 5人の主人公が単なる色違いではなく、遊び方そのものを変える
『神羅万象』のもうひとつの大きな魅力は、主人公選択の意味が非常に大きいことだ。ゲーム開始時に5人の勇者からひとりを選ぶ方式は、数字上の難易度設定を直接いじるよりも、ずっと作品世界に入り込みやすい。なぜなら、このゲームでは「EASY」「NORMAL」「HARD」のような味気ない区分ではなく、“どの英雄がこの戦いに挑むのか”という物語的な選択が、そのまま手触りの違いにつながっているからだ。使える能力、戦いやすさ、攻略のしやすさ、そして見られる結末の内容までが変化するため、主人公の選択は見た目の好みだけで終わらない。特に斬九丸の存在は象徴的で、飛び道具や超能力の面で不利を抱えながらも、唯一特別な結末へ届く可能性を持つ。この設計によって、プレイヤーの中には自然と「次は別の主人公で試したい」「本当の終わりを見たい」という気持ちが芽生える。つまり本作の主人公選択は、最初の一度だけで完結する要素ではなく、繰り返し遊ぶ理由そのものになっている。これはリプレイ性の高さという言葉でも説明できるが、より正確には“物語と攻略を再挑戦の動機として結びつける仕組み”と言ったほうがいい。80年代のゲームらしい荒さを残しながらも、この部分はかなり印象的で、いま振り返ってもよくできた発想だと感じられる。
● ハードの性能を見せつけようとする意欲が、作品の迫力に直結している
『神羅万象』はPC-88VA専用タイトルであることもあり、当時のプレイヤーに対して「新しい機械で、ここまでできる」という印象を与える役目を背負っていた。そのため本作の魅力には、純粋なゲームの面白さに加えて、技術的な見せ場の強さも含まれている。奥へ吸い込まれるような3D表現、派手な敵キャラクター、独特な背景演出、そして画面全体に漂う“豪華に見せよう”という執念は、まさにハードの力を誇示するためのものだった。もちろん現在の目で見れば、3D表現は素朴で、滑らかさや処理の豪快さは現代ゲームと比べるべくもない。しかし重要なのは比較ではなく、当時その画面を見たときに感じられた“未来感”である。プレイヤーにとっては、ただ敵を倒すだけでなく、「今までのPCゲームより一歩先へ進んだものを見ている」という感覚が楽しさそのものの一部になっていた。特に1980年代後半は、ハードの進歩がそのまま夢や憧れにつながっていた時代であり、新機種向けソフトには作品そのものの魅力と同時に、“新世代の空気”を味わわせる価値があった。『神羅万象』は、その時代の期待感を濃く映したソフトであり、だからこそ単なる一作以上の存在感を放っている。
● 派手なだけではなく、主人公ごとの性能差が緊張感を生み出している
アクションゲームやシューティングゲームでは、派手な見た目があっても、実際のプレイが単調なら長く記憶には残りにくい。その点、『神羅万象』は主人公ごとの差別化がしっかり効いているため、見た目のインパクトだけで終わらない。ESPを扱えるキャラクターたちは比較的わかりやすい強みを持っているが、それでもプレイヤーの選択によって進めやすさはかなり変わる。特に斬九丸は、近接武器を持つことで2D場面では独特の戦いやすさを見せる一方、3Dパートでは連射面で苦しさが出る。そのため、どの局面が得意でどの局面が難しいかを意識しながら進める必要があり、これがゲーム全体に緊張感を生み出している。単純な上位互換・下位互換ではなく、各キャラクターに“向いている場面”“苦しい場面”があるからこそ、攻略の味わいが深い。また、キャラが変われば世界の見え方まで少し変わるのも面白い。プレイヤーは単に難しいゲームへ挑戦しているのではなく、選んだ英雄の資質を背負って戦っている感覚を得られる。この“性能差がロールプレイ感へつながる設計”は、システムとして見ても魅力的であり、本作をただの古いアクションゲームではなく、キャラクター性の強い体験に引き上げている。
● ストーリーが単純な勧善懲悪に見えて、どこか不穏さを残す
『神羅万象』の物語は、表面的には世界を救うために魔王へ挑むという王道型の構図を取っている。しかし実際に内容を見ていくと、単なる“悪を倒してめでたしめでたし”では言い切れない含みがある。この余韻のある作りが、本作の魅力を一段深くしている。プレイヤーは当初、女神ソラリスを守るために勇者が戦うという図式を疑わずに進めていくが、終盤へ向かうにつれ、敵味方の見え方や因縁の重さが単純ではないことを意識させられる。特に主人公ごとに結末が異なるため、“この世界における真実は何か”“誰の視点がもっとも核心に近いのか”という感覚が自然に生まれる。ここが実に興味深い。多くのアクションゲームでは、ストーリーは進行の口実に留まりがちだが、本作ではストーリーの不穏さがプレイ後の印象を支配する。つまり、遊んでいる最中の楽しさと、遊び終えた後に残る謎や余韻が分離していない。アクションとしての緊張、演出としての派手さ、そして物語の後味がひとつに結びついているからこそ、『神羅万象』は単に“当時として珍しいゲーム”ではなく、“妙に忘れられないゲーム”になっているのである。
● 音楽と演出が、ゲームの空気を必要以上に濃くしている
日本テレネット作品の魅力としてしばしば語られるのが、音楽や演出への力の入れ方だが、『神羅万象』にもその個性は色濃く出ている。タイトル画面から受ける印象、戦闘中の楽曲、ステージごとの空気、そしていかにも大きな物語が始まりそうな演出の重ね方には、当時のテレネットらしい“ドラマ性の強調”が感じられる。ゲームとして見ればシンプルな構造の部分もあるのに、音と画の見せ方によって、体感上はそれ以上に大きな冒険をしている気持ちになるのだ。この“実際の規模以上に壮大に感じさせる力”は、古いゲームにおいてとても重要である。処理能力や容量の制約が大きい時代では、単純なボリュームの多さよりも、いかに印象を膨らませるかが作品価値に直結していた。『神羅万象』はまさにその典型で、プレイヤーはわずかな演出から世界の広がりを想像し、音楽から英雄譚の熱量を受け取る。BGMがただの背景音ではなく、“このゲームの世界は特別だ”と納得させるための役割を担っているのである。結果として、本作は内容を細部まで覚えていなくても、雰囲気だけは強烈に記憶に残る。これは見落とされがちだが、非常に大きな魅力だ。
● 荒削りだからこそ、遊び手の記憶に濃く残る“尖り”がある
いまの視点で『神羅万象』を見ると、決して完璧に整いきった作品とは言えない。バランスの極端さ、主人公ごとの難度差、当時のハード制約の中で無理をしたような設計、宣伝で示されたイメージと実際の内容のズレなど、粗として語られやすい部分もある。だが、その粗さは同時に本作の魅力でもある。なぜなら本作は、最初からきれいにまとまることを目指した作品ではなく、“やりたいことを詰め込んだ結果として強い個性を獲得した作品”だからだ。整えられすぎた現代のゲームは、快適で洗練されている一方で、作品ごとの差異が感覚的に薄くなることもある。それに対して『神羅万象』は、一度触れれば「ああ、あの妙に濃くて独特なゲームだ」とすぐ思い出せる輪郭を持っている。これは偶然ではなく、作品の尖りがきちんと個性になっているからである。プレイヤーによってはその粗さを欠点と見るかもしれないが、別のプレイヤーにとってはそこが忘れがたい魅力になる。万人向けではないが、刺さる人には深く刺さる。この“選ばれた人の記憶に濃密に残るタイプの作品”であることこそ、『神羅万象』がいまなお語られる理由のひとつだろう。
● 総合すると、魅力は“完成度”より“存在感”にある
『神羅万象』の魅力をひとことでまとめるなら、それは完成度の高さというより、作品としての存在感の強さにある。終末的な未来世界に神話や宗教や超能力を混ぜ込んだ設定、3Dシューティングと2Dアクションを切り替える構成、5人の主人公によって変化する難易度と結末、そして日本テレネットらしい音楽と演出の濃さ。こうした要素が一つひとつ独立しているのではなく、相互に絡み合いながら『神羅万象』だけの空気を作り上げている。だからこのゲームは、数値化しやすい項目だけでは魅力を語りきれない。遊びやすさ、親切さ、普遍的なバランスといった尺度だけで測れば、もっと整った作品はいくらでもある。しかし本作には、“こういうゲームは他にない”と言えるだけの迫力がある。未来と神話、英雄と異能、派手さと不穏さ、荒削りさと熱量。その全部を抱えたまま成立しているからこそ、『神羅万象』は単なる懐古の対象ではなく、いま見ても強い印象を残すタイトルなのである。古いゲームの魅力は、必ずしも洗練に宿るとは限らない。むしろ、本作のように欠点ごと個性へ変えてしまう作品にこそ、時代を越えて語られる力がある。
■■■■ ゲームの攻略など
● まず大前提として、このゲームは“反射神経だけ”で押し切る作品ではない
『神羅万象』の攻略を考えるとき、最初に意識しておきたいのは、本作が見た目ほど単純な高速シューティングではないという点である。画面写真だけを見ると、いかにも勢いで敵を撃ち落としながら突っ込んでいくタイプに見えるが、実際には主人公ごとの差、ESPの使いどころ、2Dパートでの立ち回り、そして当たり判定の癖まで含めて覚えていかないと安定しない。特に本作は、3Dパートと2Dパートで要求される感覚がかなり違う。3Dパートでは前方の敵や障害物を素早く見分ける判断力が問われる一方、2Dパートではジャンプの軌道、接近のタイミング、ボスの弱点への攻撃といった“詰める感覚”のほうが重要になる。そのため、苦戦したときに「反応が遅いから勝てない」と思い込むと、かえって攻略の糸口を見失いやすい。むしろ必要なのは、敵が現れる位置を覚えること、危険な場面で無理をしないこと、主人公ごとの長所を押し出すことの三つである。見切りよりも“経験を蓄積して自分の正解を作っていく”比重が大きいゲームなので、最初は多少泥くさい進め方でも構わない。派手な見た目に引っ張られず、一面ずつ確実に癖を覚えていく姿勢が、結果的にはいちばん近道になる。主人公選択が実質的な難易度設定になっており、斬九丸は最難関だが唯一のグッドエンディングを見られる、という前提もここで重要になる。最初から真エンディング狙いで無理をするより、まずは他の主人公で全体の感触を掴んでから再挑戦するほうが、攻略としては理にかなっている。
● 初回プレイは“好きなキャラ”より“進めやすいキャラ”を選ぶほうが安定する
本作では5人の主人公が用意されているが、攻略を最優先に考えるなら、最初の一人は見た目や設定の好みだけで決めないほうがよい。というのも、『神羅万象』のキャラクター差は単なる演出上の違いではなく、難易度や進行感覚に直結しているからだ。斬九丸は唯一のグッドエンディングを担う特別な立場にいる反面、3Dパートでの連射性能に難があり、結果として総合難度が高い。2D場面では刀の存在が活きるものの、ゲーム全体で見ると初心者向けとは言いにくい。反対に、ESPを扱える他のキャラクターは、それぞれに特殊能力を持っており、状況を立て直しやすいぶん、最初の攻略キャラとして扱いやすい。ここで大切なのは、“誰が最強か”を決めることではなく、自分がミスしやすい場面をどう減らせるかを考えることだ。3Dパートで押し負けやすい人は、遠距離感覚を補いやすいキャラのほうがよいし、2Dボス戦で接近戦に自信がないなら、無理に斬九丸へこだわらないほうが良い場合もある。最初の目標は、まずどこで何が起きるかを覚えることに置くべきであり、その意味では“最初の一周は練習走行”と割り切るくらいでちょうどいい。真の結末を見たい気持ちは理解できるが、本作はそのご褒美を簡単には渡さない構造で作られている。だからこそ、最初は攻略用、次に本命、という順番で進めると気持ちよく遊びやすい。
● 3Dパートは“敵を倒す”より“危険を減らす”意識で進めると崩れにくい
奥スクロールの3Dパートでは、つい目の前の敵を片っ端から処理したくなるが、本作で安定感を出すには、撃破数よりも被弾を減らす意識が大切になる。なぜなら、見た目の速度感に対して位置関係がやや掴みにくく、障害物や敵弾への反応が遅れると、あっという間に流れを崩しやすいからである。こういう場面では、画面中央に張り付いて強気に押すより、少し余裕を持った位置取りで進み、危ない敵だけを優先して処理するほうが結果的に長く生き残れる。とくに初見では、どの敵が素早く間合いを詰めてくるのか、どの地形が事故の原因になるのかが見えていないため、“全部取る・全部倒す”の発想は捨てたほうがよい。本作はボス戦や後半ステージで精度を要求してくるので、序盤から無駄な被弾を重ねると苦しくなりやすい。見方を変えれば、3Dパートはスコアアタックではなく“生存管理”の場として扱うほうが攻略に向いている。強引に中央突破せず、危険そうな敵の出現位置を一つひとつ覚えて、次の挑戦で早めに潰せるようにする。この積み重ねがもっとも効く。見た目は『スペースハリアー』系に近くても、プレイ感覚は完全な同一ではなく、ジャンプや地形対応まで含めた独自の癖があるため、他作品の感覚をそのまま持ち込まないことも大事だ。
● 2Dボス戦は力押しよりも“頭部をどう当てるか”が勝負になる
『神羅万象』で多くのプレイヤーが詰まりやすいのは、むしろ3Dよりも2Dのボス戦かもしれない。見た目には横アクションの大型ボス対決で、派手でわかりやすい見せ場なのだが、実際には当たり判定が独特で、距離感を誤ると理不尽に感じやすい。だからこそ、このパートでは“闇雲に接近して連打する”戦い方はおすすめしにくい。重要なのは、ボスの身体全体に向かってなんとなく攻撃するのではなく、どこを狙うと通りやすいかを意識することだ。巨大ボスは迫力があるぶん、足元近くで張り付くと被弾の原因が増えやすい。そこで、思い切って“上を叩く”意識に切り替えると、見た目ほど混乱せずに戦える場面が出てくる。もちろん、すべてのボスに同じ感覚で通じるわけではないが、少なくとも近距離で焦って接触ダメージを受け続けるよりは、ジャンプの軌道を利用して安全にダメージを重ねるほうが安定しやすい。2Dボス戦は毎面ではないぶん、一度感覚を掴めるとそこが大きな節目になる。逆に言えば、ここで焦って雑になると、それまでの進行が一気に無駄になりやすい。派手な演出に飲まれず、頭部狙いと間合い管理を徹底することが、このパートの基本攻略になる。
● ESPは“派手な必殺技”ではなく、“事故を減らすための保険”として使う発想が強い
本作におけるESPは、設定上もゲーム上も大きな個性だが、攻略面で本当に重要なのは、これを単なる見栄えの良い特殊技として扱わないことだ。姿を消したり変身したりといった表現が語られているように、ESPはキャラクターの個性を演出する要素であると同時に、局面打開や立て直しに使うための安全装置として考えたほうがいい。アクションゲームで特殊能力を持っていると、つい強敵にだけ使いたくなるものだが、『神羅万象』のように場面ごとの癖が強いゲームでは、“危なくなる前に使う”発想のほうがはるかに重要になる。たとえば、出現位置を覚えきれていない場面、ジャンプのタイミングがまだ安定していない場面、2Dパートへ入る直前で不用意に削られたくない場面では、ESPを惜しまず使ったほうがよい。特に初回クリアを狙う段階では、格好良く勝つことより、危険な局面をいかに雑にでも抜けるかが重要になる。ここで出し惜しみして被弾を重ねると、後半で立て直せなくなる。逆に、強敵の前に少し余裕を残すことができれば、プレイ全体の流れが安定しやすい。本作はキャラクター選びそのものが難易度に直結するため、ESPを扱える主人公を使うなら、その利点を遠慮なく活かすべきである。無駄撃ちを避けるのはもちろん大切だが、最後まで抱え込んで終わるくらいなら、危険地帯を抜けるために使ったほうが攻略としては正しい。
● 真エンディング狙いの斬九丸攻略は、“最初から完璧”を目指さないほうがいい
本作を語ると必ず話題に上がるのが、斬九丸でしか見られないグッドエンディングの存在である。これは確かに本作最大級の魅力だが、同時にもっとも多くのプレイヤーを苦しめる要素でもある。斬九丸は2Dパートでは刀が活きるため一見扱いやすそうに思えるものの、3Dパートの連射面で不利を抱えており、総合的にはもっとも難しい主人公として知られている。ここで大切なのは、“真相を見たいから最初から斬九丸一本で行く”という情熱を、いったん攻略思考で整え直すことである。理想的なのは、まず別キャラクターで全体の流れ、敵配置、2Dボスの感覚、危険な地点を把握してから、二周目以降で斬九丸へ挑む流れだ。そうすれば、斬九丸で苦しいのが純粋な性能差によるものなのか、まだ場面理解が不足しているだけなのかを切り分けやすくなる。斬九丸攻略で意識したいのは、3Dパートで無理に殲滅しようとしないこと、2Dで有利な局面を確実に活かすこと、そして“斬九丸だからこそ取るべき慎重さ”を受け入れることである。強いキャラのように振る舞おうとすると、かえって持ち味を殺しやすい。最難関キャラは、最難関らしく丁寧に使うしかないのである。だが、その面倒さこそが本作の攻略欲を刺激する部分でもある。苦労の先にだけ真の結末が用意されているという構造は、いま見ても強烈で、プレイヤーの挑戦心を非常に上手く煽っている。
● 小ネタとしては、タイトル画面のF5でミュージックモードに入れる
攻略そのものとは少し離れるが、本作には知っておくと嬉しい小ネタもある。代表的なのが、タイトル画面でF5キーを押すとミュージックモードに入れるというものだ。これはゲームを有利に進める直接的な裏技ではないものの、『神羅万象』の魅力の一端である音楽をじっくり味わえるため、気分転換としても非常に有効である。難しいゲームほど、失敗を重ねるうちに集中力が切れたり、苛立ってプレイが雑になったりしやすい。そういうときに一度ゲームの手を止め、音楽を聴いて世界観へ戻るというのは、意外なほど効果がある。とくにテレネット作品は音楽や演出に惹かれて遊ぶ人も多く、ゲーム部分だけに集中しすぎると本来の楽しみを狭めてしまうことがある。だからこのF5の小ネタは、単なるサービス機能以上に、“このゲームは音と雰囲気ごと味わうものだ”と教えてくれる装置でもある。攻略に煮詰まったときほど、いったん作品の空気を吸い直す意味で使ってみる価値があるだろう。
● 総合的な攻略の結論は、“一周目で理解し、二周目で取りに行く”が最も現実的
『神羅万象』を気持ちよく攻略したいなら、最終的な考え方はかなりはっきりしている。つまり、一周目は世界と仕組みを理解する周回、二周目以降は狙った結末を取りに行く周回、と割り切るのがもっとも現実的である。3Dパートでは被弾を減らすことを重視し、2Dボス戦では頭部狙いと間合い管理を徹底する。初回はESPを使えるキャラクターで全体像を把握し、真エンディングを見たいなら、その知識を持ったうえで斬九丸へ挑む。この順番なら、本作特有の理不尽さや粗さも“覚えるべき個性”として受け止めやすい。逆に、最初からすべてを一度で解こうとすると、本作の癖の強さに押し切られてしまいがちだ。『神羅万象』は、親切設計で自然に上達させてくれるタイプのゲームではない。プレイヤー側が作品の癖を読み取り、どこで慎重になり、どこで攻めるかを自分で学ばなければならない。そのぶん、突破できたときの手応えは大きい。だから攻略の核心は、テクニックの細部以上に、“このゲームはそういうものだ”と受け入れて付き合う姿勢にある。荒削りだが、だからこそ攻略した実感が強い。そういう時代の難しさを正面から味わうことこそ、本作を遊ぶ醍醐味のひとつだと言える。
■■■■ 感想や評判
● 第一印象では「とにかく派手で濃い」、しかし遊び始めると評価が割れていく作品
『神羅万象』に対する感想や評判をたどっていくと、まず共通して見えてくるのは「一目見たときのインパクトの強さ」である。未来世界、女神、魔王、超能力者、そして和風の英雄たちが入り混じる設定は、それだけで非常に濃い。しかもゲーム画面は、当時の国産パソコンゲームの中でもかなり派手さを意識した作りで、奥へ進む3Dシューティングと横スクロールの2Dアクションが切り替わる構成まで備えている。そのため、最初に見た人の多くは「なんだかすごそうだ」「普通のアクションではなさそうだ」と感じやすかった。言い換えれば、本作は最初の数分で強く印象を残す力が非常に強いゲームだったのである。だが、実際に遊び込み始めると、その評価は一気に単純ではなくなっていく。見た目の派手さや題材の豪華さを高く買う人もいれば、操作感や難易度の癖を厳しく見る人もいる。つまり『神羅万象』は、誰が見ても無難に高評価となるタイプの作品ではなく、「強く好きになる人」と「惜しいと感じる人」がはっきり分かれやすいタイトルだった。これは当時のパソコンゲームらしい現象でもある。万人向けに角を削った作品より、強い個性を持つ作品のほうが記憶に残りやすい反面、欠点もはっきり目立つからだ。本作の感想や評判も、まさにその典型と言ってよく、第一印象の鮮烈さと、実プレイ後の好き嫌いの分かれ方が、セットで語られやすい作品だったのである。
● 好意的な意見では「世界観が唯一無二」「雰囲気だけでも遊ぶ価値がある」と見られやすい
肯定的な感想の中で特に多く見られるのは、やはり世界観と空気感への評価である。『神羅万象』は、設定を丁寧に整理して理解させるタイプの作品ではない。むしろ、未来崩壊後の世界に神話的な存在や超能力者たちが現れ、どこか仏教や和風伝奇の匂いまで漂わせるという、説明しきれない濃密さでプレイヤーを押し切る作品である。この“説明しきれないのに妙に魅力的”というところが好意的に受け止められ、「細部を理屈で考えるより、まずこの空気に浸るゲームだ」と感じる人が少なくなかった。1980年代のパソコンゲームには、物語設定やビジュアル、音楽によって独特の世界へ連れ込む作品が多かったが、『神羅万象』もまさにそうした系統に属している。そのため、ゲームバランスの整い具合以上に、「このゲームにしかない雰囲気がある」という理由で高く評価する声が出やすいのである。また、主人公が5人いて、それぞれに設定や立場の違いがある点も好評につながりやすい。単なる見た目違いではなく、誰を選ぶかで手応えも印象も変わるため、一本のゲームで複数の顔を持っているように感じられる。好意的な見方をするプレイヤーほど、この作品を“完成度だけで測るものではない”と受け止める傾向がある。つまり、整った優等生ではないが、唯一無二の雰囲気と熱量を持つ野心作として記憶されやすいのである。
● アクション面の評判は「面白い要素は多いが、素直に遊びやすいとは言えない」が中心になりやすい
一方で、ゲームとしての純粋な遊びやすさに注目すると、感想はかなり慎重になる。『神羅万象』は3Dシューティングと2Dアクションを組み合わせた構成が大きな売りだが、そこを「贅沢で面白い」と感じる人がいる反面、「両方の癖が強くて慣れるまでしんどい」と感じる人も多い。特に3Dパートは、見た目のスピード感や迫力は魅力だが、敵や障害物への対応には独特の慣れが必要で、初見では被弾しやすい。また2Dパートも、単なる息抜きではなく、ボス戦を含めてしっかり攻略を要求してくるため、気楽に進める作りではない。ここで評判が割れるのである。好意的な人は「一作で二つのジャンルを味わえる」と受け取るが、厳しめの人は「どちらも癖があり、快適さよりも我慢が必要」と見る。特に1980年代のパソコンゲームに慣れていない感覚で触れると、理不尽さに近いものを感じる場面もあるだろう。だから当時の感想を想像しても、本作は誰にでも勧めやすい軽快なアクションというより、「刺さる人には強く刺さるが、人を選ぶ」という評価になりやすい。言い換えれば、システムの発想は面白いが、プレイ感は万人向けに磨き切られてはいない。そうした“野心と粗さが同居した印象”こそが、アクション面の評判としてもっとも本質に近い。
● キャラクター選択と結末の違いは、当時としてはかなり印象的な仕掛けとして受け止められた
感想や評判の中で、比較的好意的に語られやすいのが、主人公選択とエンディング分岐の存在である。5人の勇者からひとりを選び、その選択が難易度やプレイ感、そして最後の結末にまで関わるという構造は、当時としても印象に残りやすい要素だった。特に斬九丸だけが特別な結末へ辿り着けるという話は、ゲーム好きの間では非常に“燃える”仕掛けとして受け止められやすい。難しいキャラクターを乗りこなした者だけが本当の終わりを見られる、という発想は、今の感覚ではかなり厳しいが、当時のゲーム文化の中ではむしろ挑戦意欲を刺激するものだった。もちろん否定的な見方もある。つまり、「せっかく5人から選べるのに、本当に良い結末が一人に偏っているのは不公平ではないか」という感想である。これはもっともな意見で、好きなキャラクターで最後まで進めても十分な達成感が得られないと感じる人がいても不思議ではない。しかし、それでもなおこの仕掛けが記憶に残るのは、ただのマルチキャラ制で終わらず、作品そのものに“もう一度挑ませる理由”を与えていたからだ。プレイヤーにとっては、誰で遊ぶかが単なる趣味の選択ではなく、攻略と物語の両方に影響する重い決断になる。そうした構造は、感想としても「不親切だが面白い」「厳しいが印象深い」という二面性を帯びやすく、本作の個性として強く語られる部分になっている。
● 音楽や演出への評価は比較的安定して高く、“テレネットらしさ”を感じるという声につながりやすい
『神羅万象』の評判を全体として眺めたとき、比較的安定して好意的に受け止められやすいのが、音楽や演出の濃さである。日本テレネットの作品には、ゲームとしての手触りだけでなく、ビジュアルとサウンドによって作品全体の空気を押し出す傾向があり、本作もその色が濃い。タイトルから受ける大仰さ、ステージごとの雰囲気、そして壮大さや妖しさを感じさせる楽曲は、ゲームバランスへの好き嫌いとは別のところで印象に残りやすい。そのため、アクションとしては厳しい評価をする人であっても、「音楽はよかった」「演出の勢いは魅力だった」と語ることが少なくない。これは本作に限らず、テレネット作品全体に通じる傾向でもある。つまり、ゲームとしての完成度に不満があっても、作品世界へ引き込む力は認めざるを得ない、という受け止め方である。特に1980年代のパソコンゲームは、容量や性能の制約が大きい中で、いかに“壮大に見せるか”が重要だった。『神羅万象』はその点で成功しており、実際のゲーム規模以上に大きな物語を遊んでいる気分にさせる力がある。感想としても、「完璧ではないけれど、雰囲気の強さで押し切られる」という形で評価されやすく、その意味でサウンドと演出は本作の評判を下支えする重要な柱になっている。
● 否定的な感想では「広告や期待値に対して、少し惜しい」と受け止められやすい
本作に対する厳しめの感想をまとめると、“すごそうに見えたぶん、実際に遊ぶと惜しさが目立つ”という方向へ集まりやすい。『神羅万象』は題材、構成、主人公選択、演出、ハード性能の見せ方など、売り文句としては非常に華やかで、当時のユーザーに大きな期待を抱かせる要素が多かった。だからこそ、実際に触れた際に、操作感の癖や難易度の偏り、説明不足に感じる部分、宣伝から想像したほど自由度が高くない点などが気になると、「もっとすごい作品になれたはずなのに」と思われやすい。これは単純な低評価とは少し違う。つまらないから批判されるのではなく、素材が魅力的だからこそ、完成度の粗さが惜しまれるのである。特にマルチエンディングへの期待や、主人公ごとの違いに対する想像が大きかったプレイヤーほど、実際の内容とのズレに敏感になりやすい。広告や紹介文の段階では、どうしても“可能性が最大限に見える”ため、製品版がその理想像に届いていないと感じたときの反動も大きいのである。したがって、本作の否定的な評判は、「発想そのものを否定する」というより、「詰めが甘い」「もう一歩磨いてほしかった」という惜別型の不満になりやすい。この点もまた、本作が単純な駄作扱いでは済まない理由であり、良くも悪くも印象の強いタイトルだったことを示している。
● 時代を経てからの見られ方は、“名作かどうか”より“忘れがたい異色作かどうか”に移っている
後年の視点から『神羅万象』を振り返ると、その評価軸は当時とは少し変わってくる。発売直後であれば、まずは「新作としてどれだけ遊べるか」「新ハードの実力をどれだけ感じられるか」が評判の中心になったはずだが、時間が経ってからは、むしろ“どれほど記憶に残るか”が大きな基準になる。その意味で本作はかなり強い。今なお名前を挙げられると、「あの独特なゲーム」「妙に濃い世界観のやつ」「PC-88VAらしい尖った作品」といった形で思い出されやすいからだ。これは、当時の基準だけで見れば欠点だった部分――荒削りさや癖の強さ――が、年月を経て逆に作品の個性として再評価されていることを意味する。もちろん、万人が絶賛する普遍的な傑作という位置づけではない。だが、“よくできているから忘れられない”のではなく、“いろいろな意味で普通ではなかったから忘れられない”というタイプの評価を獲得しているのである。こうした作品は、流行の最前線に立ち続けるわけではなくても、好きな人の記憶の中で非常に強く生き残る。『神羅万象』もまさにその系統であり、時代が進むほど「完成度の整った作品」よりも「濃くて異様な作品」として価値を持ちやすくなっている。評判が歴史の中で少しずつ変質しながらも、存在感だけは薄れていないところが、このゲームのおもしろい部分である。
● 総合すると、評判は“万人向けの高評価”ではなく、“熱量の高い賛否両論”に近い
『神羅万象』の感想や評判を総合的にまとめるなら、それは“きれいに整った満場一致の高評価”ではなく、“熱量の高い賛否両論”に近いと言える。世界観の濃さ、主人公選択の面白さ、3Dと2Dを組み合わせた野心的な構成、音楽と演出の強さに魅了される人がいる一方で、ゲームとしての癖の強さ、バランスの荒さ、宣伝や期待値とのズレを惜しむ声も確実にある。だが、この賛否の分かれ方自体が、本作の強い個性を物語っている。もし本当に印象の薄い作品であれば、ここまで語りようがない。人によって評価点も不満点もはっきり違うということは、それだけ作品に輪郭があるということでもある。『神羅万象』は、単に遊びやすいゲームを求める人には厳しく映るかもしれない。しかし、1980年代の国産パソコンゲーム特有の尖りや、過剰なまでの世界観、そして一筋縄ではいかない野心作を味わいたい人にとっては、非常に魅力的な一本として残る。感想も評判も、一色に塗りつぶせない。だからこそ面白いのであり、だからこそ今もなお“あの時代ならではの異色作”として語られる価値がある。『神羅万象』の評価とは、点数で割り切るものではなく、触れた人の中にどれだけ濃い痕跡を残したかで測るべき作品なのかもしれない。
■■■■ 良かったところ
● 世界観の“濃さ”が最初から最後までぶれず、作品全体の印象を強くしているところ
『神羅万象』の良かったところとして、まず真っ先に挙げたいのは、作品全体を包み込む世界観の濃密さである。未来の荒廃した時代を舞台にしながら、そこへ女神、魔王、超能力者、仏教的なイメージ、和風の英雄譚まで混ぜ込んでしまう発想は、普通ならまとまりを失いやすい。しかし本作では、その雑多な要素が妙な熱量で結び付いており、むしろ“こんなゲームは他にない”という個性へ昇華されている。この独特の空気は、ストーリーを細かく把握していなくても、ゲームを起動して少し触れただけで伝わってくる。画面を見た瞬間、音を聞いた瞬間、タイトルを眺めた瞬間に「ああ、これは相当濃い作品だな」と感じさせる力があるのである。近未来なのに神話的、英雄譚なのにどこか怪しげ、派手なのに不穏という多層的な雰囲気が一体になっており、それが本作をただのアクションゲームで終わらせていない。今の基準で言えば説明不足に見える部分もあるが、逆にそれが想像の余地になり、プレイヤーの頭の中で世界を大きく膨らませてくれる。ゲームの面白さは、必ずしも親切さや分かりやすさだけでは決まらない。本作のように、一度見たら忘れにくい世界の匂いを持っていること自体が、すでに大きな長所なのである。特に1980年代の国産パソコンゲームらしい“理屈より先に雰囲気で掴みにくる強さ”がここにはあり、その濃さが最後まで途切れない点は、間違いなく本作の良かったところだと言える。
● 5人の主人公それぞれに役割があり、選ぶ楽しさがきちんと成立しているところ
アクションゲームに複数主人公が登場する場合、実際には見た目だけの違いで終わってしまうことも少なくない。しかし『神羅万象』では、5人の勇者が単なる色違いに留まっておらず、選択そのものがゲーム体験を変える要素になっているところが非常に良い。ガルシア、アマクサ、毘沙門、斬九丸、マーラーという顔ぶれは、名前の時点ですでに印象が強く、しかもそれぞれの能力や立場に違いがあるため、「誰で遊ぶか」が単なる趣味の選択で終わらない。とくに斬九丸だけが最難関でありながら、唯一特別な結末へ辿り着けるという構造は、本作に独特の緊張感と再挑戦の理由を与えている。これは今の目線では少し極端に見えるかもしれないが、ゲームとしては非常に記憶に残る設計である。プレイヤーは単に好きなキャラを選ぶだけではなく、「誰で挑むか」によって作品の見え方まで変わる。そのため、一度クリアして終わりではなく、別の主人公でも試してみたくなる。この“繰り返し遊びたくなる仕掛け”が、シンプルなようでいて実はよくできている。しかも、キャラクターたちの見た目や設定がどれも濃いため、選択画面の時点で気分が盛り上がるのも大きい。機関銃を持つ英雄、修験者めいた男、守護神的な戦士、新世紀の新選組リーダー、黒魔術師という顔ぶれは、それだけで一つの作品世界の縮図になっている。誰を選んでも印象が薄くならない、むしろ誰を選ぶかで作品への入り方が変わる。この点は本作のとても良い部分であり、ゲームデザイン上の魅力として高く評価できる。
● 3Dシューティングと2Dアクションを行き来する構成が、単調さを防いでいるところ
『神羅万象』の良さとして大きいのは、プレイ内容が一種類に固定されていない点である。奥へ進む3Dシューティングのパートと、横視点の2Dアクションパートが交互に現れる構成は、当時としてもかなり欲張りで、実際に遊ぶと一本の中に複数の手触りが詰め込まれているような贅沢さがある。もしこのゲームが最初から最後まで3Dだけだったなら、派手さはあっても似たような展開の連続になりやすかっただろうし、逆に2Dだけだったなら、世界観のスケールやスピード感は少し縮んで見えたかもしれない。だが本作では、その両方があることで、前半でスピード感を味わい、次の場面では足場やボス攻略に集中するといった形で、遊びのリズムが常に変化する。この変化があるからこそ、プレイヤーは次に何が来るかを自然に気にしながら進むことになる。これは単純に“要素が多い”というだけでなく、ゲーム全体のテンポを良くしている点が重要である。また、3Dでの前進感と2Dでの対峙感が交互にやってくることで、プレイ中の印象にもメリハリが生まれる。ただ突っ走るだけではないし、ただ地道に足元を見るだけでもない。その中間にある構成だからこそ、本作は荒削りながらも“次の画面を見たくなるゲーム”になっているのである。新鮮さを保ちながら進ませる力は、アクションゲームとしてかなり大切な要素であり、その意味でこの構成は本作の良かったところとして素直に評価できる。
● 日本テレネットらしい、音楽と演出で押し切る力がしっかりあるところ
本作の良かったところを語るなら、音楽と演出の存在感は外せない。日本テレネットの作品には、単純な操作感以上に、画面とサウンドでプレイヤーの気分を高める魅力があるが、『神羅万象』もまさにその系譜にある。タイトル画面に漂う大仰さ、ステージ中の独特な楽曲、いかにも大きな戦いへ踏み込んでいくような空気感は、ただルールを理解して遊ぶだけでは味わえない“作品の熱”を作っている。これは非常に大きい。アクションゲームは、どれだけシステムが面白くても、見た目や音に魅力がなければ遊ぶモチベーションが長続きしにくい。その点で『神羅万象』は、たとえ難しくて何度もやり直す場面があっても、「もう一回やってみよう」と思わせるだけの雰囲気を持っている。特に当時のパソコンゲームにおいて、音楽は作品世界を拡張する重要な役割を担っていた。本作も、単なるBGMではなく、“このゲームはただのアクションではなく、大きな物語を背負った作品なのだ”と感じさせる役目をきちんと果たしている。派手な演出や濃い音楽は、好みが分かれる場合もあるが、本作に関してはその過剰さこそが魅力になっている。地味にまとまらず、むしろ必要以上に壮大に見せようとするからこそ、プレイヤーの記憶に強く残る。ここは本作の良い意味での大げささであり、他のゲームにはなかなか真似しにくい長所だと言える。
● 主人公ごとの差が“疑似的な難易度選択”として機能しているところ
『神羅万象』は、明示的に難易度を選ばせる方式ではなく、主人公選択そのものが難易度の違いとして働く構造になっている。この設計はかなり面白い。普通のゲームなら、最初にイージーやハードを選ぶだけで終わる話だが、本作ではそれが世界観の中へ溶け込んでいる。つまり、「どの勇者が戦いへ赴くのか」という物語的な選択が、そのまま“どれだけ厳しい冒険になるか”へ直結しているのである。このやり方には大きな良さがある。なぜならプレイヤーが機械的に難度を選ぶのではなく、キャラクターに感情移入しながら挑戦内容を決められるからだ。斬九丸のような難しい主人公に惹かれるのも、単にハードモードを選ぶのとは違う。そこには「このキャラで最後まで行きたい」「この人物の物語を見届けたい」という動機が加わる。そのため、攻略の苦しさが数値的な難しさではなく、キャラクターにまつわるドラマの一部として感じられるのである。もちろん不公平さもあるが、それを含めて印象に残る仕組みになっているのは確かだ。ゲームデザインとして見ると少々尖っているものの、“難しさを世界観の中へ取り込んでいる”という点では非常に個性的であり、ただ乱暴な調整とは言い切れない。このように、ゲームシステムそのものが作品の空気と結び付いている点は、『神羅万象』のかなり良い部分である。
● “一度クリアして終わり”にさせない再挑戦性があるところ
本作の長所として見逃せないのが、プレイヤーに再挑戦を促す力を持っていることだ。主人公が5人いて、それぞれに難しさや印象の差があるうえ、結末も同じではない。この時点で、すでに一回のプレイですべてを味わい切れない構造になっている。しかも、単に分岐数が多いから繰り返すのではなく、「本当に見たい結末へ辿り着くには難しい主人公で戦わなければならない」という挑戦目標が設定されているため、再プレイの意味がはっきりしている。これは本作の大きな良さである。古いアクションゲームの中には、一度クリアすると二度目のモチベーションが弱い作品も少なくないが、『神羅万象』はそうではない。むしろ一周目は様子見、二周目以降で本気という流れが自然に生まれる。さらに3Dパートと2Dパートの感触が異なるため、最初は見えていなかった攻略法が後からわかってくる面白さもある。この“後から見えてくる”感覚は、ただ難しいだけのゲームにはなかなか出せない魅力だ。最初は手に負えないように見えた場面が、次に遊んだときには落ち着いて処理できる。主人公を変えるとまた別の感触があり、その都度違った課題が出てくる。こうした再挑戦性は、一本の作品としての寿命を確実に伸ばしている。しかもそれが単なる作業にならず、キャラクターと物語の興味へ結び付いている点が、とてもよくできている。
● 荒削りでありながら、“やりたいことを詰め込んだ熱”がしっかり伝わるところ
『神羅万象』の良い部分は、整い切っていないところにこそ宿っている面もある。本作には確かに粗い部分があるし、今の感覚で見れば不親切に映る点もある。しかし、その一方で「このゲームは何を見せたかったのか」「どんな作品にしたかったのか」が非常に伝わりやすい。未来世界と神話の混交、5人の勇者、ESP、3Dと2Dの融合、マルチエンディング的な発想、音楽と演出の強化――これらはどれも、小さく無難にまとめるための要素ではない。むしろ、あれもこれも盛り込みたい、プレイヤーに強い印象を残したい、という熱の表れである。こうした作品は、完成度の一点だけを見ると不利になることも多いが、遊んだときの熱量は非常に高い。つまり本作は、“無難に面白いゲーム”ではなく、“多少荒くても強い記憶を残すゲーム”として成功しているのである。これは大きな長所だ。なぜなら、ゲームというものは快適さだけでなく、どれだけその作品らしい輪郭を持っているかでも価値が決まるからである。『神羅万象』には、明らかにそれがある。遊び終えたあと、細かなステージ構成を忘れても、「あの変に濃い世界のゲーム」「あの不思議に力のある作品」という印象は残りやすい。その存在感は、作り手の野心と熱がしっかり画面に出ているからこそ生まれるものであり、まさに本作の良かったところとして挙げるにふさわしい。
● 総合すると、良さは“整いすぎていないからこその強烈さ”にある
『神羅万象』の良かったところを総合すると、そこには単なる完成度の高さとは違う魅力があることがわかる。独特すぎる世界観、個性の強い主人公たち、3Dと2Dを切り替える豪華な構成、音楽と演出の濃さ、そして再挑戦したくなる設計。これらが一つひとつ丁寧に磨き上げられたというより、熱量を保ったまま一気に押し出されているところが本作の長所なのである。言い換えれば、本作は“きれいな優等生”ではない。しかし、そのぶん他では代わりがきかない。すべてが少し過剰で、少し荒くて、少し不親切なのに、その全部が合わさることで、唯一無二の魅力に変わっている。プレイヤーによっては欠点に見える要素も、別のプレイヤーにとっては「だからこそ好きだ」と感じられる。そういう意味で、本作の良さは万人が同じ言葉で褒めるタイプではなく、遊んだ人それぞれの心に違う形で刺さるタイプだと言えるだろう。だが少なくとも、印象の薄いゲームでは決してない。遊び終えたあとに、世界観、キャラクター、音楽、難しさ、そして独特の熱量がまとめて記憶に残る。その“忘れがたさ”こそが、本作の最大級の良かったところであり、今なお語られる理由でもあるのである。
■■■■ 悪かったところ
● 見た目の派手さに対して、操作感が必ずしも素直ではないところ
『神羅万象』の悪かったところとして、まず最初に触れておきたいのは、画面の華やかさや企画の大きさに比べて、実際に手を動かしたときの感触が必ずしも気持ちよく整っていない点である。本作は3Dシューティングと2Dアクションを組み合わせた非常に野心的な構成を持っているが、その一方で「遊んでいて自然に馴染むか」という部分では、かなり癖が強い。見た瞬間には未来的で派手なアクションゲームに見えるのに、いざ始めると動きや間合い、敵との距離感、被弾の仕方に独特のクセがあり、思った通りに操作できない感覚を持ちやすい。これはプレイヤーにとってかなり大きなストレスになりうる。とくにゲームが派手であればあるほど、こちらは反応よく動かせることを期待するが、本作ではその期待に対して微妙なズレが生じる場面がある。その結果、失敗したときに「自分の判断が悪かった」と納得できるより先に、「いまのはちょっと不自然ではないか」と感じてしまう瞬間が出てくる。難しいゲームであること自体は悪くないが、難しさの理由が操作の癖や把握しにくさに寄ってしまうと、達成感よりも疲労が先に立つことがある。『神羅万象』はまさにそこが惜しい。大作感のある見た目に対して、手触りの気持ちよさがもう一歩届いていれば、もっと幅広い人に評価された可能性があっただけに、この点は明確な弱点と言える。
● 3Dパートと2Dパートの両方に慣れが必要で、気軽には入りにくいところ
本作の特徴である3Dシューティングと2Dアクションの併用は、魅力にもなっている反面、悪い面としては“慣れるべきことが多すぎる”という問題を抱えている。普通なら一本のゲームは、ある程度進めるうちにプレイヤーが操作の感覚に慣れ、失敗の理由も理解しやすくなる。しかし『神羅万象』では、3Dパートで求められる感覚と2Dパートで求められる感覚がかなり異なるため、片方に慣れてきた頃にもう片方で別種の戸惑いが生じやすい。奥へ向かう場面では前方の敵や障害物への即応が必要になり、横スクロールに移ると今度はジャンプや接近戦、ボスの弱点への攻撃タイミングなど、まったく違う要素に意識を切り替えなければならない。この切り替えはゲームとしての変化を生む一方で、プレイヤーの集中を寸断しやすい。つまり、“一種類のルールを身につければ自然に上達する”タイプではなく、二つの別系統の感覚を並行して覚えなければならないのである。これは慣れた人には濃い体験として映るが、初見の人や短時間で楽しみたい人にはかなり厳しい。気軽に遊び始めて、すぐに楽しさを掴める構造ではないため、入り口の時点で振り落とされやすいのが難点である。構成の豪華さがそのまま敷居の高さへつながってしまっているところは、長所の裏返しでありながら、やはり悪かった点として見逃せない。
● 主人公ごとの差が大きすぎて、実質的に“公平ではない選択”になっているところ
5人の主人公から選べるという仕組みは印象的だが、悪い面から見ると、その差が大きすぎることが問題になる。キャラクターごとに性能や使い勝手が違うのは個性として面白いが、『神羅万象』の場合はそれが“味の違い”の範囲に収まらず、かなり露骨に難易度へ直結している。特に斬九丸は最難関でありながら唯一のグッドエンディングへ到達できる主人公とされているため、好きなキャラクターで自由に楽しむという感覚が薄れやすい。言い換えれば、最も報われる結末を見たければ、一番苦しい選択をしなければならない。この設計は挑戦心を刺激する面もあるが、同時にプレイヤーへかなり強い不公平感を与える。せっかく5人も用意されているのに、物語的な満足度が一部のキャラクターへ偏ってしまうと、他の主人公でクリアした達成感がどうしても薄くなりやすい。しかも、プレイヤーが最初に選ぶキャラクターは見た目や雰囲気の好みで決めることが多いため、その選択が後になって「本当に良い結末に届かない道だった」とわかると、損をしたような気分にもなりうる。難易度差をドラマへ結び付ける発想自体は面白いが、もう少しどの主人公にも等しく報いがあれば、印象はかなり違っただろう。キャラ選択の自由を謳いながら、実際には一部の道だけが特別視される構造は、本作の大きな不満点のひとつである。
● 宣伝や設定の壮大さに対して、実際の内容が少し追いついていないところ
『神羅万象』は題材そのものが非常に大きい。未来世界の崩壊、女神ソラリスの危機、魔王との対決、5人の勇者、ESP、塔を巡る戦いと、言葉だけ並べれば超大作のような響きを持っている。しかも日本テレネットらしい派手な売り出し方もあり、当時のユーザーにかなり高い期待を抱かせたはずである。しかし悪かったところとしては、その“壮大なイメージ”に対して、実際のプレイ内容や物語の掘り下げがやや物足りなく感じられる点がある。これはつまらないという意味ではなく、むしろ素材が魅力的すぎるぶん、もっと広げられたのではないか、もっと深く描けたのではないか、という惜しさである。主人公たちの背景も、世界そのものの仕組みも、魔王との因縁も、断片的には強く印象づけられているのに、それを十分に味わい尽くす前にゲームが進んでしまうような感触がある。つまり設定の密度は濃いのに、体験としては少し駆け足なのである。宣伝段階で想像した“もっと複雑で大きな物語”と、実際に遊んだときの“アクション主体のゲーム進行”との間に、わずかな温度差がある。このギャップは、期待値が高いほど残念に感じやすい。野心が伝わるだけに、なおさら「もう少し内容が追いついてくれれば」と思わせるところが、本作の惜しい点である。
● マルチエンディングへの期待を膨らませたぶん、実態とのズレが残るところ
本作は発売前の情報などを通じて、行動や進め方によってエンディングが変わるような印象を持たれやすかった。しかし実際には、プレイ内容そのものの細かな積み重ねで複数の結末へ分岐していくというより、誰を選んだかによって大きく結果が左右される部分が中心であり、思い描いていたほど自由度の高いマルチエンディング作品ではなかった。この点は期待していた人ほど残念に感じやすい。プレイヤーとしては、自分の判断や行動が物語を変えていくことを想像すると、それだけで冒険の密度が高く感じられる。だが実際には、そこまで柔軟な分岐が用意されていないとなると、どうしても肩透かしを受けたような気持ちになる。もちろん、主人公ごとに異なる結末を見る仕組み自体が悪いわけではない。しかし宣伝や紹介で感じた“自由度の高いドラマの変化”に対して、実際の体験がそこまでではなかった場合、その差は不満として残りやすい。本作は世界観や設定の段階で想像力を強く刺激するだけに、そこから期待されるドラマの広がりも自然と大きくなる。だからこそ、実態がそこまで自由ではないとわかったときに、「面白いけれど、思ったほどではなかった」という感想へつながりやすいのである。この期待と実態のズレは、当時のユーザーにとっても少なからず惜しい点だったはずであり、本作を語るうえで避けて通れない弱点と言える。
● 難しさが“練習で上達する快感”より、“癖に耐える我慢”へ寄りやすいところ
高難度のゲームが悪いわけではない。むしろ難しいからこそ印象に残り、突破の喜びが大きくなる作品も多い。しかし『神羅万象』の難しさには、純粋な技術向上の手応えだけでは割り切れない部分がある。敵の配置や攻撃への対応を覚えていく面白さは確かにあるものの、それ以上に“このゲーム特有の癖へ慣れる”ことが求められる場面が多く、挑戦の気持ちよさがやや削がれやすい。たとえば3Dパートでは見た目のスピード感に対して位置関係が掴みにくいと感じることがあり、2Dパートではジャンプや接触の感触に不自然さを覚えることがある。こうした難しさは、学習によってある程度乗り越えられるが、その過程が必ずしも爽快ではない。プレイヤーによっては、「自分がうまくなっている」という実感より、「このゲームの都合にようやく慣れてきた」という印象のほうが強くなりやすい。すると攻略が達成感よりも忍耐に近づいてしまう。これは作品の熱量や独自性を考えれば惜しいところで、本来ならその難しさをもっと気持ちよい方向へ転換できた可能性があるだけに、残念さが強い。難しいゲームには難しいゲームなりの“納得できる厳しさ”があるが、本作はその納得感が時々揺らぐ。そこが、好きな人でさえ認めざるを得ない悪かったところである。
● 一部の魅力が“わかる人にはわかる”方向へ寄りすぎているところ
『神羅万象』は間違いなく個性的で、強烈な存在感を持った作品である。しかしその個性は、裏を返せば“通好み”へ寄りすぎている面もある。世界観の濃さ、キャラクターの癖、ゲーム進行の荒々しさ、独特の演出、難易度の偏りなど、どれも理解できる人には強く刺さるが、そうでない人にとっては単に近寄りにくい要素になってしまう。つまり本作は、最初からかなり見る人を選ぶ。気軽に楽しめるアクションを求める人、わかりやすい成長感を味わいたい人、整った物語展開を好む人からすると、その魅力に辿り着く前に疲れてしまう可能性が高い。もっと言えば、このゲームの良さは、ある程度1980年代パソコンゲーム特有の荒さや、テレネット作品の過剰な演出を楽しめる感性を持っていないと、十分には伝わりにくい。これは作品の個性であると同時に、間口の狭さでもある。独特であることは長所だが、それが入口の段階から“わかる人だけ来てほしい”という空気を生んでしまうと、作品としての広がりはどうしても限定される。もう少し遊びやすさや親切さがあれば、この独特さを残したままでも多くの人に届いたかもしれない。濃いこと自体は魅力だが、その濃さが壁にもなってしまっているところは、本作の欠点として正直に認めるべき部分である。
● 総合すると、悪かったところは“野心に対して仕上げが追いつききらなかった”点に集約される
『神羅万象』の悪かったところを総合的にまとめると、それは結局のところ、“やりたいことが大きすぎて、最後の仕上げが少し足りなかった”という一点に集約される。世界観は濃い。設定も魅力的で、主人公選択の発想も面白い。3Dと2Dを併用する構成も野心的で、音楽や演出にも強い個性がある。だが、そのどれもがあと一歩ずつ磨かれていれば、もっと幅広い層から高く評価される作品になれたはずだった。操作感の癖、難易度差の極端さ、期待値とのズレ、入り口の厳しさ、マルチエンディングへの惜しさ――これらはすべて、素材が魅力的だからこそ目立ってしまう欠点である。つまり本作の悪いところは、根本的につまらないことではない。むしろ逆で、魅力が多すぎるからこそ、仕上がりの粗さがより強く惜しまれるのである。その意味で『神羅万象』は、失敗作というより“尖りすぎた意欲作”に近い。好きな人ほど、そして面白いと感じた人ほど、「もう少しだけ整っていてくれれば」と思わずにはいられない。この“惜しい”という感情をここまで強く呼び起こすこと自体、ある意味では作品の力でもあるが、純粋に悪かったところとして見るなら、やはり野心と完成度の差が最後まで埋まりきらなかった点が最大の弱点だったと言えるだろう。
[game-6]
■ 好きなキャラクター
● まず前提として、この作品のキャラクターは“強いから好き”だけでは語りきれない
『神羅万象』に登場するキャラクターたちの魅力は、単に性能の良し悪しや、攻略しやすいかどうかだけでは測りにくいところにある。本作はもともと、未来世界、神話的存在、超能力、和風の伝奇色、そして終末的な空気がひとつに混ざり合った、非常に濃い世界観を持つ作品である。そのため、登場人物たちもまた、ただの記号的な役割では終わっていない。機関銃を抱えた英雄、嵐を呼ぶ異能者、仏法守護神めいた戦士、新世紀の新選組リーダー、暗黒の力を手にした黒魔術師、そして世界を統べる女神に、敵対する魔王――この顔ぶれだけを見ても、普通のファンタジーや普通のSFでは出てこない、癖の強い存在感が並んでいる。だから本作の“好きなキャラクター”を語るときには、単純に「使いやすいから」「見た目が格好いいから」というだけでは終わらない。どこか運命めいたものを背負っているか、世界観の濃さを象徴しているか、あるいは物語の余韻を残す立場にいるか、といった複数の要素が重なって、プレイヤーの印象に残りやすいのである。しかも『神羅万象』は、主人公選択そのものがゲーム体験を左右するため、誰を選んだかによって思い入れの深さまで変わりやすい。プレイヤーごとに最初に触れた勇者が違い、そのときの苦労や達成感がそのまま“推し”の感情へつながっていく。つまりこのゲームのキャラクター人気は、単なる設定資料上の魅力だけではなく、実際に操作して苦楽をともにした記憶まで含めて形成されるのである。だからこそ、本作のキャラクターたちは登場人数こそ多くなくても、一本一本の印象がとても濃い。
● 斬九丸――“最も苦しく、最も報われる”という立場が強烈に記憶へ残る主人公
好きなキャラクターを挙げる声の中で、もっとも印象的な存在として語られやすいのは、やはり斬九丸だろう。新世紀最強の新選組リーダーという肩書きからしてすでに只者ではないが、本作において彼が特別なのは、見た目や設定以上に、その立場そのものが物語と攻略の両面で強い意味を持っているからである。彼は5人の主人公の中でもっとも難しい存在であり、3Dパートでは連射面で不利を抱え、簡単には進めさせてくれない。その一方で、唯一のグッドエンディングに到達できる特別な主人公でもある。この構造が、プレイヤーの心へ非常に強く作用する。つまり斬九丸は、単に“和風剣士で格好いいキャラ”なのではなく、“本当の結末を見るために選ばなければならない運命の人物”としてゲーム全体の中心に置かれているのである。そのため、彼に対する好意は見た目の好みだけで終わらない。苦しい、難しい、何度も失敗する、でも諦めたくない――そうした攻略上の感情がそのまま人物像の魅力へ重なり、最終的には特別な思い入れへ変わっていく。刀を手に戦う姿も、本作の混沌とした世界観の中でよく映える。未来世界の荒廃した舞台に、新選組を思わせる剣士が立っているという絵面は、理屈ではなく感覚として強烈であり、だからこそ記憶に残る。彼を好きだと感じる人の多くは、単に“強い”“渋い”という理由ではなく、“このキャラにだけ用意された重み”に惹かれているのだろう。苦労の果てにしか見えない結末を背負った主人公という意味で、斬九丸は『神羅万象』という作品そのものを象徴する存在だと言っても過言ではない。
● ガルシア――機関銃を携えた戦場の英雄という、直感的なわかりやすさが魅力
一方で、もっと直感的な格好よさや頼もしさで人気が出やすいのがガルシアである。百戦錬磨の世界大戦の英雄という肩書きに加え、片手に機関銃を持つというビジュアルは、他の勇者たちと比べても非常にわかりやすい強さを感じさせる。本作は神話や宗教や超能力の匂いが強く、キャラクターたちの多くがどこか超常的で抽象的な存在感を持っている。その中でガルシアは、もっとも現実の戦場に近い“武装した英雄”として立っており、その泥臭さが逆に光る。プレイヤーから見ても、超能力や神秘の力を振るう仲間たちの中で、機関銃という具体的で即物的な武器を手にしている彼は非常に映えるのである。こうしたキャラクターは、ファンタジー一色の作品では時に浮いて見えることもあるが、『神羅万象』のようなジャンル混交型の世界ではむしろ個性として強く働く。終末世界を生き抜く“人間の戦士”としての説得力があり、異能や神秘に対抗する存在としての力強さがあるのだ。好きなキャラクターとしてガルシアを挙げる人は、斬九丸のような“物語的な重み”よりも、“戦える男らしさ”“わかりやすいヒーロー性”に惹かれている場合が多いだろう。難解な設定や因縁を抜きにしても、ただ画面に現れたときの格好よさがしっかり伝わる。それはゲームにおいて非常に重要な長所である。派手で癖の強い作品だからこそ、こうした直球の頼もしさを持つキャラクターは強い人気を得やすいのであり、ガルシアはまさにその代表格といえる。
● アマクサ――神秘性と危うさを同時にまとった、“ただの勇者”で終わらない魅力
アマクサの魅力は、他の主人公たちと比べてもかなり独特である。嵐を呼ぶ男、風神の化身という表現だけでも十分に印象的だが、修験者のような姿をしているという点が、彼の存在感をさらに濃くしている。ガルシアが現実的な武装のヒーローだとすれば、アマクサは明らかに神秘側へ大きく踏み込んだ存在であり、世界観の怪しさや宗教性を強く体現している人物と言える。だから彼を好きな人は、単純な強さよりも“ただならぬ感じ”そのものに惹かれていることが多い。本作の世界は未来でありながら、科学だけでは説明できない神話的な構造を持っている。その中でアマクサは、その世界の異様さをもっとも自然に背負って立てるキャラクターのひとりである。彼が主人公候補に含まれているだけで、このゲームが単なるSFアクションでも単なるファンタジーでもないことがよくわかる。好き嫌いは分かれるかもしれないが、印象が薄いということはまずない。特に、和風伝奇や宗教的イメージを帯びたキャラクターに魅力を感じるプレイヤーにとって、アマクサはかなり強い存在だろう。派手に前へ出るタイプというより、何か深い背景や異質な力を感じさせるキャラクターであり、それが結果として“得体の知れない魅力”へつながっている。勇者でありながら、どこか人間離れした気配がある。そうした危うさが彼の魅力であり、わかりやすい正統派とは違う角度から強く好かれやすい理由でもある。
● 毘沙門――“守護”と“威圧感”を両立した、重厚な存在感が光る
毘沙門は、5人の勇者の中でもとりわけ重厚感のあるキャラクターとして印象に残る。帝釈天四天王の仏法守護神という説明からもわかるように、彼は単なる戦士というより、もっと大きな秩序や信仰を背負ったような存在である。この設定が非常に強い。なぜなら『神羅万象』は未来世界を舞台にしながら、宗教性や神秘性を濃く残している作品だからである。その世界の中で毘沙門は、単なる仲間の一人ではなく、“神仏に連なる重み”を持つ人物として立っている。好きなキャラクターとして彼を挙げる人は、おそらくその威厳に惹かれている。ガルシアのような直線的な格好よさとも、斬九丸のような悲壮感のある特別さとも違い、毘沙門には“揺るがない守護者”としての安定感がある。見た目や名前の迫力もさることながら、彼がいることで作品全体のスケール感が一段上がって見えるのが面白い。もし5人の勇者が全員ただの人間的な英雄だったなら、本作はもっとわかりやすい冒険活劇になっていただろう。だが毘沙門のような存在がいることで、この物語には人間同士の戦いを超えた、もっと大きな世界の気配が生まれる。その意味で彼は、作品の神話性を引き締める重要な人物である。好きな理由としては、ただ強そうだからではなく、“頼もしさと神聖さが同居しているから”という声が自然に出てきそうなキャラクターであり、重厚な雰囲気を好む人には非常に刺さりやすい存在だと思われる。
● マーラー――暗黒の力を帯びた異端性が、作品の妖しさをさらに深めている
マーラーは、5人の主人公候補の中でもっとも“危うい魅力”を持つ人物かもしれない。暗黒の力を手にした黒魔術師という設定は、それだけで十分に異質であり、勇者の側に立つ存在として見るとかなり尖っている。普通の作品であれば、こうした人物は敵側に置かれてもおかしくない。しかし『神羅万象』では、そうした闇の気配をまとった存在もまた、世界を救う戦いへ参加する。その構図が実に面白い。マーラーを好きなキャラクターとして挙げる人は、おそらくこの“完全な善でもなければ、わかりやすい光でもない”ところに惹かれているのだろう。本作の世界はもともと単純な善悪で整理しきれない雰囲気を持っており、その中でマーラーは非常に自然に馴染んでいる。むしろ彼のような存在がいることで、このゲームの世界はただの勧善懲悪では終わらないという印象が強くなる。暗黒の力を使うという設定は、危険さや背徳性を感じさせる一方で、同時に大きな力への憧れも呼び起こす。ゲームにおける人気キャラクターには、正義の中心にいる者だけでなく、こうした影のある人物がしばしば含まれるが、マーラーもまさにその系統に属している。好き嫌いははっきり分かれそうだが、印象の強さで言えば間違いなく上位であり、本作の妖しい魅力を象徴するキャラクターのひとりと言える。
● 女神ソラリス――守られる存在でありながら、作品世界全体の中心として強い印象を残す
主人公たちだけでなく、女神ソラリスを好きなキャラクターとして挙げる見方も当然成り立つ。彼女は3009年の波乱の世を制した女神であり、世界を守る存在として物語の中心に立っている。本作はアクションゲームであるため、どうしてもプレイヤーの視線は勇者たちや敵の派手さへ向かいやすいが、実のところこの世界の中心にいるのはソラリスである。彼女がいるからこそ物語は始まり、彼女が狙われるからこそ勇者たちは召喚され、彼女を守ることが冒険の動機になる。つまりソラリスは、単に“さらわれる姫”や“守られる対象”のような受動的存在ではなく、世界そのものを支える核として配置されているのである。この立ち位置が非常に重要で、彼女がただの飾りで終わっていないところに魅力がある。好きなキャラクターとして見たときには、その神々しさや物語全体を統べる存在感に惹かれる人も多いだろう。未来世界の女神という発想自体がまず強く、そこへ終末感や神秘性が重なって、非常に印象深い存在になっている。主人公たちのように直接操作するわけではなくても、作品世界を思い出すときにまず浮かぶ中心人物のひとりであり、だからこそプレイヤーの記憶にも残りやすい。ヒロインというより、世界の象徴そのものとして好きになるタイプのキャラクターである。
● 魔王テンカイ――単なる悪役に留まらない“因縁の核”として魅力を持つ存在
悪役としての印象の強さで言えば、魔王テンカイもまた外せない。『神羅万象』の物語は表面上こそ、女神を守り魔王を倒すというわかりやすい構図を取っているが、本作がただの勧善懲悪で終わらない雰囲気を持っているのは、テンカイが単なる“倒されるためのラスボス”ではないからである。彼はソラリスの命を狙う大ボスとして立ちはだかるが、それだけでは話が終わらず、ある主人公と深い縁を持つ存在として、物語の奥行きを作っている。この“単純な悪ではない感じ”が、敵役として非常に魅力的だ。好きなキャラクターに悪役を挙げるプレイヤーは少なくないが、その理由はたいてい、主人公以上に物語の影を背負っているからである。テンカイもまさにそうで、彼がいることで『神羅万象』の世界には一筋縄でいかない因縁と余韻が生まれる。もし彼がただの記号的な魔王だったなら、本作はもっと単純な英雄譚で終わっていただろう。しかし実際には、テンカイの存在が物語へ不穏さを持ち込み、特定の主人公との結び付きによって、敵と味方の境界をどこか曖昧にしている。そのため、好きな悪役として記憶に残るだけの厚みがある。華やかな主役たちとは別方向の魅力を持つキャラクターであり、物語を深く感じたい人ほど、このテンカイの存在感を高く評価しやすいだろう。
● 総合すると、好きなキャラクターは“誰が一番”というより“誰にどんな思い入れを抱いたか”で分かれる
『神羅万象』の好きなキャラクターを総合的に考えると、結局のところ“絶対的な一番”を決める作品というより、“プレイヤーがどの人物にどんな感情を重ねたか”で印象が大きく分かれる作品だと言える。苦労の末に真の結末へ辿り着く斬九丸に惹かれる人もいれば、機関銃を手にした直線的な英雄像としてガルシアを好む人もいる。神秘性に満ちたアマクサ、重厚な守護者としての毘沙門、危うい魅力を放つマーラー、世界の中心として輝くソラリス、そしてただの悪役で終わらない魔王テンカイ。それぞれが異なる角度から作品の濃さを支えており、だからこそキャラクター人気が一方向へ偏りにくい。しかも本作では、実際に操作した記憶や苦戦した経験がそのまま感情移入へつながるため、好きなキャラクターの理由も人によってかなり変わる。見た目で好きになる人もいれば、設定の重さに惹かれる人もいる。攻略の苦楽をともにした結果として好きになる人もいる。そうした多様な入り口があること自体、この作品のキャラクター造形が成功している証拠である。人数は決して多くない。それでも一人ひとりの輪郭が濃く、世界観の中でしっかり立っている。だから『神羅万象』の好きなキャラクターというテーマは、単なる人気投票では終わらない。誰を好きになるかによって、その人がこの作品のどこに惹かれたのかまで見えてくる。そこが本作のキャラクターたちの面白さであり、今なお語る価値のある理由でもある。
[game-7]
●対応パソコンによる違いなど
● 結論から言えば、『神羅万象』は“幅広く展開された作品”ではなく、“PC-88VAに深く結び付いた作品”だった
『神羅万象』の対応パソコンによる違いを語ろうとすると、まず最初に押さえておきたいのは、この作品が多機種へ広く移植されたタイトルではないという点である。1980年代後半の国産パソコンゲームには、PC-8801、FM77AV、X1、MSX2、PC-9801などへ横断的に展開される作品も少なくなかったが、『神羅万象』はそうした“横展開の強いヒット作”とは性格が異なる。むしろ本作は、PC-88VAというやや特別な立場にあった機種へ向けて、かなり強く最適化された意欲作として見るほうが本質に近い。つまりこのゲームの“機種差”を考えるときに重要なのは、実際に多数の移植版を比較することより、「なぜこの作品はPC-88VAに留まったのか」「PC-88VAだからこそ成立していた部分は何か」を考えることなのである。これは一見すると消極的な話に見えるかもしれない。しかし実際には、本作の個性を理解するうえで非常に重要な視点である。なぜなら『神羅万象』は、他機種へ広く薄まっていった作品ではなく、PC-88VAという一時代的で尖った環境の中に濃く閉じ込められたゲームだからだ。だからこそ、同タイトルでアーケード版や家庭用版を比較するタイプの作品とは違い、“存在のしかたそのものが機種依存”になっている。この閉じた濃さが、『神羅万象』という作品の印象をより特別なものにしているのである。
● PC-88VA専用であること自体が、当時としてはかなり大きな意味を持っていた
PC-88VAは、従来のPC-8800シリーズの延長線上に見えながら、実際にはかなり新しい性格を持ったマシンだった。画面表現、サウンド、ビジュアル演出などの面で従来機より一歩踏み込んだ見せ方ができる一方、普及という意味では決して絶対的な主流ではなかった。そのため、PC-88VA専用ソフトというだけで、その作品はある種の挑戦作に見えたのである。『神羅万象』はまさにそうした立場のタイトルで、従来のPC-8801mkIISR系などへ無難に合わせた作りではなく、「新しい88で、派手なものを見せる」ことをかなり意識していたと考えられる。ここが大きい。もし本作が最初から一般的な88シリーズ全体へ安全に展開する前提で作られていたなら、構成や演出の方向性はもっと保守的になっていた可能性が高い。だが実際には、疑似3Dシューティングと2Dアクションを一作の中で切り替え、しかも未来世界と神話・超能力の混交世界を濃い演出で押し出すという、非常に野心的な形を取っている。これは明らかに“普通の88タイトル”としての無難さより、“VAならではの見せ場”を優先した設計である。したがって、『神羅万象』における最大の機種差とは、PC-88VAという場に置かれていることそのものだと言える。単なる対応機種のひとつではなく、作品の企画思想そのものがVAの存在と結び付いているのである。
● もし従来のPC-8801系へ落とし込むなら、まず“見せたい部分”の調整が必要になったはず
本作の機種差を想像的に考える場合、もっとも比較対象として浮かぶのは、同じ88系でも従来のPC-8801mkIISR以降の一般的なラインである。しかし『神羅万象』をそのまま従来系へ持っていこうとすると、おそらく真っ先に問題になったのは、“どの部分を削るか”だったはずだ。なぜなら本作は、ただ敵を撃つだけのゲームではなく、3Dパートのスピード感、2Dパートの切り替え、派手なビジュアル、濃い雰囲気をまとめて一作の魅力としていたからである。もし移植するとしたら、まず3D表現の迫力や背景演出を軽くする必要があったかもしれないし、2Dパートとの往復をもっと単純に再構成する必要もあったかもしれない。そうなると、『神羅万象』の面白さのかなり大きな部分が変質してしまう。単に“劣化移植になる”という話ではなく、作品の芯そのものが少し別物になっていた可能性が高いのである。逆に言えば、本作がPC-88VAに留まったことには、結果論としての納得感もある。もちろん多機種へ広がっていれば知名度はもっと上がったかもしれないが、その代償として、このゲーム特有の“少し無理をしてでも豪華に見せようとする熱”は薄まっていた可能性がある。つまり本作は、多機種展開と引き換えに個性を削るより、VAの中で濃く残る道を取ったように見えるのである。
● FM77AVやX1、MSX2のような他機種に出ていたなら、作品の印象はかなり違っていたはず
1980年代のパソコンゲームを見慣れていると、どうしても「もしFM77AV版があったら」「X1版ならどうだったか」「MSX2に出ていたらもっと広く知られたのでは」と考えたくなる。だが『神羅万象』については、その想像がそのまま“別作品化の想像”に近くなる。たとえばFM77AVはビジュアルやアニメーション的な見せ方と相性が良く、X1にも独特の発色や描画感覚があり、MSX2ならもっと家庭寄りの文脈で受け止められただろう。しかし、それぞれの機種には得手不得手があり、同じ題材を持っていっても、画面の派手さ、スクロールの感覚、音の質感、操作のテンポはかなり変わったはずである。そうなると、同じ『神羅万象』という名前でも、受ける印象はまったく違っていた可能性が高い。今われわれが思い描く本作の姿は、あくまでPC-88VAの空気と一体になったものだ。もし別機種版が存在していたとしても、それは“同じ話をする別のゲーム”に近かったかもしれない。だから本作における“対応パソコンによる違い”とは、実在する複数版の比較というより、“もし他機種に出ていたならどこが変わらざるを得なかったか”を考えることで、かえってPC-88VA版の特異さが見えてくるタイプのテーマなのである。移植されなかったことは商業的には惜しいが、作品論としてはむしろその孤立性が価値になっている。
● アーケード化されなかったことも、この作品の性格をよく表している
『神羅万象』は見た目だけ切り出せば、疑似3Dシューティングやボス戦主体のアクションとして、どこかアーケードライクな印象を持っている。実際、当時のアーケードゲームを思わせるスピード感や派手さを目指していた節は強い。しかし本作がアーケードへ展開された形跡は広く知られておらず、その点もまた興味深い。なぜなら本作は“アーケードっぽい見せ方”をしながらも、実際にはかなりパソコンゲーム的な濃さを持っているからである。主人公を5人から選ぶこと、キャラクターごとに難易度や結末の重みが違うこと、世界観が説明しすぎないまま重たくのしかかること、そしてテレネットらしい音楽と演出の癖の強さ。これらは、短い時間で明快な満足を与えるアーケード的な設計というより、家で腰を据えて触るパソコンゲームの感覚に近い。もしアーケード版があったなら、もっと即応性重視のバランスになり、キャラ差も減らされ、物語性も整理されていた可能性が高い。つまり『神羅万象』は、表面上はアーケードの影響を受けながらも、本質的にはかなり“家庭のPCでじっくり向き合うゲーム”だったのである。このことは、アーケード化されなかったことを単なる未展開と見るのではなく、作品の性格に合った帰結として捉えることもできる。アーケードへ出ていれば別の意味で遊びやすくはなったかもしれないが、その代わり、この妙に濃くて偏った魅力は失われていただろう。
● 家庭用ゲーム機へ移植されていたら、最も変わったのは“難しさの意味”だったかもしれない
仮に本作がファミコンやPCエンジン、あるいはメガドライブのような家庭用ゲーム機へ移植されていたと想像すると、もっとも大きく変わったのは難易度の意味合いだったかもしれない。パソコンゲームとしての『神羅万象』は、ある意味で不親切さや癖の強さも含めて作品の個性になっている。しかし家庭用ゲーム機では、同じ難しさでも“すぐ遊んで、すぐ理解できる”方向へ整理されることが多い。そのため、もし移植が実現していたなら、主人公ごとの差はやや丸められ、斬九丸だけが極端に報われる構造も多少見直された可能性がある。また、ゲーム進行のテンポも今よりもう少しわかりやすく整えられ、2Dパートの癖も減らされたかもしれない。そうなれば遊びやすさは確実に上がるが、その一方で、いま残っている『神羅万象』の“妙に手強く、妙に偏っていて、でも忘れがたい”という味は薄くなる。家庭用ゲーム機向けに整えられた版本は、おそらくもっと一般受けしただろう。だがその代わり、PC-88VA版特有の異様な手触りは失われる。こう考えると、本作が家庭用へ出なかったことは惜しさと同時に、原版の濃さを守る結果にもなっている。誰でも楽しめる形にはならなかったが、そのかわり“あの時代のあの機種でしか味わえない感触”が強く残ったのである。
● 移植や派生が少ないからこそ、“PC-88VAの代表的な異色作”として記憶されやすい
多機種展開されたゲームは知名度を広げやすい反面、どの版が本流なのかが曖昧になることもある。だが『神羅万象』の場合はそうではない。対応機種がPC-88VAに強く限定されているからこそ、作品の印象がぶれにくいのである。プレイヤーがこのゲームを思い出すとき、それはほぼ同時に“PC-88VAらしいタイトル”として思い出される。つまり本作は、単に一本のアクションゲームというだけでなく、PC-88VAという機種の個性を語るときに挙げたくなる存在でもある。これは移植されなかったことの副産物として、かなり大きい。もし複数機種へ広がっていたなら、本作は“そのうちの一機種にも出ていたゲーム”になっていたかもしれない。しかし現実には、PC-88VAとの結び付きが強いぶん、“あの機種のあの時代を象徴する濃い一本”として残った。知名度の広がりと引き換えに、記憶の中での輪郭を濃く保ったとも言える。だから『神羅万象』を機種差という観点から見る場合、単純に「他機種版が少なくて残念」で終わらせるより、「他機種へ薄まらなかったからこそ、PC-88VAの記憶と一体化した」と考えるほうが、この作品にはふさわしいのかもしれない。
● 総合すると、この章での“違い”は、移植版同士の比較より“PC-88VA専用作であることの重み”に集約される
『神羅万象』の対応パソコンやアーケード、家庭用ゲーム機との違いを総合的にまとめるなら、結論はかなりはっきりしている。この作品は、何種類もの版が存在してそれぞれの特色を比べるタイプのタイトルではなく、PC-88VAという環境の中で濃く成立した専用作として理解するのが最も自然である。アーケード化されていればもっと即物的な爽快さが強まっていただろうし、家庭用へ移植されていればもっと遊びやすく整えられていただろう。従来のPC-8801系や他機種へ展開されていれば、知名度も変わったかもしれない。だがそのどれも、今われわれが思い浮かべる『神羅万象』そのものではなかった可能性が高い。つまり本作の機種差というテーマは、“存在しない版との比較”を通じて、逆に原版の濃さを再確認する話なのである。PC-88VA専用であったことは、商業的には不利もあったはずだが、作品の印象という意味では決定的に大きな価値になった。だから『神羅万象』は、他機種へ広がらなかった不遇のタイトルというだけでなく、“PC-88VAだからこそあの形で生まれ、PC-88VAに留まったからこそ強く記憶されたタイトル”として見るべきだろう。そこに、この章で語るべき最大の違いがある。
[game-10]
■ 当時の人気・評判・宣伝など
● 『神羅万象』は“大衆的な大ヒット作”というより、“新世代88の実力を見せるための意欲作”として売られていた
『神羅万象』の当時の人気や宣伝のされ方を考えるとき、まず前提として押さえておきたいのは、この作品が誰もが持っている主力ハード向けの定番商品ではなかったという点である。発売は1987年11月14日、価格は7,800円、媒体は5インチ2HDディスク2枚組で、対応機種はPC-88VAシリーズに限られていた。つまり本作は、普及台数の多い汎用的な88ソフトとしてではなく、“新しい88で遊ぶ専用作”として市場へ出たタイトルだったのである。ここが非常に大きい。1980年代後半のパソコンゲーム市場では、対応機種の広さがそのまま販売機会の広さにつながりやすかったが、『神羅万象』はその意味で最初からかなり絞られた場所で勝負していた。だから宣伝も、万人向けの安心感より「この新しい機械で、ここまで派手なものが動く」という驚きを前面へ出す方向になりやすかったと考えられる。つまり本作は、単なる量販向けの一作ではなく、PC-88VA時代の顔として期待された作品だったのである。
● 宣伝の軸は、物語性だけでなく“VAの性能を体感させる派手さ”にあった
当時の『神羅万象』の売り方で印象的なのは、世界観やキャラクター設定だけでなく、ハード性能と結び付いた派手さを前面に出していたことである。PC-88VAは1987年に登場した次世代88で、従来のPC-8800シリーズから一歩進んだ能力を備えていた。その流れの中で登場した『神羅万象』は、まさに“新しい88で遊ぶ価値”を見せるソフトとして扱われやすかった。実際のプロモーションでも、VA性能を活かしたリアルアクションという方向の訴求が感じられる。つまり広告は、細かなゲーム内容を丁寧に説明するよりも、まず「新しいマシンで派手な世界が動く」という印象を与えることを優先していたのである。これは非常に1987年らしい。ハードの世代交代期においては、一本のソフトが商品であると同時に、ハードの可能性を見せるデモンストレーションでもあった。『神羅万象』はその意味で、単独の人気作というより、PC-88VAという存在の華やかさを補強するショーケースの役割まで背負わされていたと言える。だから宣伝の熱量も、単に面白いゲームですよというものではなく、“この時代の新しさそのものを遊べる”という方向へ寄っていたのである。
● 日本テレネットの社風そのものが、当時の『神羅万象』の見え方を後押ししていた
『神羅万象』の当時の評判や宣伝を語るうえでは、日本テレネットという会社の立ち位置も無視できない。1980年代半ばから後半にかけてのテレネットは、ゲーム中にビジュアルシーンを差し込み、音楽と演出で印象を強く残す作風で広く知られていた。『夢幻戦士ヴァリス』などに代表されるように、単なる操作感だけでなく“画面と音で盛り上げる作品”を次々に出していた流れの中に、『神羅万象』も置かれている。つまり『神羅万象』は、無名の一本としてひっそり発売されたのではなく、「テレネットがまた何か濃いものを出してきた」と受け止められやすい土壌の上に載っていたのである。ビジュアル、BGM、アクション、世界観の濃さといった要素が期待されるメーカーだったからこそ、本作もまた“ただの新作”以上の色を帯びた。テレネット作品を追っていた層にとっては、PC-88VA専用という時点でまず目に留まり、さらに世界観や構成の異様さが加わることで、かなり強い印象を残す新作だったはずである。人気の広がり自体は対応機種の狭さに制限されたとしても、少なくとも“濃い作品を出すメーカーの濃い新作”として認識されるだけの下地は十分にあった。
● ただし市場全体で見ると、PC-88VAという土台そのものが伸び悩んでいた
本作の当時人気を語るうえで避けて通れないのが、PC-88VA本体の立場である。PC-88VAは1987年にNECが満を持して投入した新世代機だったが、結果としては従来のPC-8800シリーズの資産を継ぎつつも、決定的な主流になりきれなかった。ハード自体は高性能でありながら価格も高く、しかも既存88との関係もやや複雑だった。こうした事情は、当然ながら専用ソフトの人気や浸透力にも影響する。どれほど『神羅万象』が派手で意欲的に見えても、それを遊べる環境を持つ人の数が限られていれば、同時代の大きな話題作になり切るのは難しい。つまり本作は、作品単体の力だけではどうにもならないハード側の不利を背負っていたのである。ここが惜しいところでもあり、同時に当時の評判を理解する鍵でもある。おそらく本作は、“見た人には強く印象づける”だけの力を持っていたが、その印象が市場全体へ広がる前に、PC-88VAという限定された場に閉じ込められやすかった。大ヒットの条件を欠いていたというより、ヒットの母数そのものが小さかったのである。だから当時の人気は、広く売れた代表作というより、特定のハードユーザーの間で濃く受け止められるタイプのものになりやすかったと考えるのが自然である。
● 宣伝面では“わかりやすい派手さ”が先に立ち、物語の深みはあとから気づかれやすい作品だった
『神羅万象』は設定そのものはかなり重く、女神ソラリス、魔王、5人の勇者、ESP、そして特定の主人公にだけ深く関わる真相など、実際にはかなり物語性を抱えた作品である。だが当時の宣伝や第一印象の中では、まずそこよりも“派手なアクションゲームらしさ”が先に見えやすかった。疑似3Dシューティングと2Dアクションの切り替え、未来と神話が混ざったビジュアル、PC-88VAらしいグラフィック訴求などが前面に来るため、プレイヤーは最初にアクション性の強い新作として本作を認識し、その後遊び込んでから物語の不穏さやキャラクターごとの差に気づく、という順序になりやすかったはずである。これは宣伝としては理解できる。短い広告スペースで複雑な構造を全部説明するのは難しく、まず見た目で惹きつける必要があったからだ。だがその結果、本作は“派手なゲームとして期待され、実際に触れるともっと妙な深みがある”という二段階の受け止められ方をした可能性が高い。発売当時に強く話題化するとすれば前者、のちに記憶へ残るのは後者、という形である。このズレは評価を割りやすくもするが、一方で単なる見た目のゲームでは終わらない余韻も生む。つまり当時の宣伝は、作品の全体像を完璧に伝えるというより、まず入口の派手さで引きつける役割を果たしていたのであり、そのこと自体が本作の評判の二面性につながっていたのである。
● 当時の“売れ方”は見えにくいが、“音楽の扱われ方”を見ると印象の強さは確かに残っていた
『神羅万象』の販売本数や市場ランキングのような数字は、一般公開情報の中でははっきり追いにくい。だが、その代わりに興味深いのが音楽面での扱われ方である。本作の曲は、のちにテレネット系の音楽商品でも触れられることがあり、少なくとも“音楽商品に入れる価値のあるタイトル”として扱われた可能性が高い。これは市場全体で爆発的なヒットだったかどうかは別として、社内的にもファン的にも“印象を残した作品”として認識されていたことを示している。ゲームの人気は必ずしも販売本数だけで測れない。とくに1980年代のパソコンゲームでは、濃い作品が狭い範囲で強く愛されることも多く、本作もそうしたタイプの評価を受けていたと見るのが自然だろう。少なくとも、音楽商品にまで痕跡を残したことは、発売当時に一定の存在感があったことを示す材料になる。
● 当時の評判は、おそらく“すごそうだ”と“難しそうだ”が同時に立つタイプだった
発売当時のプレイヤー心理を想像すると、『神羅万象』はかなり“気になるが手強そう”なタイトルに見えていたはずである。PC-88VA専用というだけで敷居は高く、さらにゲーム内容は3Dシューティングと2Dアクションの複合型、主人公は5人、世界観は濃く、見た目も派手で、しかもテレネット作品らしい癖の強さがある。こうした条件が揃うと、興味を引かれる一方で、誰でも気軽に飛びつける作品にはなりにくい。つまり人気の質が違うのである。万人受けの話題作ではなく、特定のユーザー層の記憶へ深く残るタイプの人気だ。発売当時のその場では、派手さに惹かれて注目され、実際に遊んだ人の間では難しさや癖も込みで語られ、時間が経つほど“あれは独特だった”という評価へ変わっていく。その流れを想像させるだけの濃さが、本作には確かにあった。
● 総合すると、当時の『神羅万象』は“販売規模より印象の濃さで残った作品”だったと見るのがもっとも自然である
『神羅万象』の当時の人気・評判・宣伝を総合的にまとめると、この作品は大衆的な一大ヒットとして広く拡散したというより、PC-88VAという新世代機の可能性を示すために強く打ち出され、限られた環境の中で濃い印象を残したタイトルだったと考えるのがもっとも自然である。発売は1987年11月、価格は7,800円、PC-88VA専用という時点で市場母数は狭かったが、その代わり宣伝ではリアルアクション性やハード性能を押し出し、テレネットらしいビジュアルと音楽の強さも背景にあって、“ただの一本”以上の存在感を持たされていた。PC-88VA本体が高性能でありながら伸び悩んだことを考えると、本作もまた広く普及する条件には恵まれていなかったが、それでも後年まで語られ、音楽面でも記憶に残り、レトロPC文脈では根強いファンのいるVA専用作として扱われている。これらを踏まえると、『神羅万象』の当時評価は、数字で大成功と断言するタイプではなく、“見た人の記憶に強く残る宣伝と、触れた人の印象に深く残る内容によって生き延びた作品”という表現が最もしっくりくる。派手さ、野心、専用機ゆえの閉じた市場、そして時間が経っても薄れない濃さ。その全部が合わさって、本作は1987年当時のPC-88VA界隈における異色の存在として刻まれたのである。
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■ 総合的なまとめ
● 『神羅万象』は、1987年の国産パソコンゲームが持っていた“野心”を濃縮したような作品だった
『神羅万象』を総合的に振り返ると、この作品は単なる一作のアクションゲームではなく、1987年という時代の国産パソコンゲームが抱えていた「新しいハードで、より派手に、より濃く、より大きな世界を見せたい」という欲張りな熱を、そのまま詰め込んだようなタイトルだったと言える。発売は1987年、日本テレネット製、PC-88VA専用、価格は7,800円、サブタイトルは「超能力者たちの塔」。この基本情報だけでもすでに時代性は強いが、実際の中身はそれ以上に濃い。未来崩壊後の世界に女神ソラリスと魔王の対立があり、そこへ5人の異能の勇者が呼び寄せられ、3Dシューティングと2Dアクションを往復しながら塔を進む――という構成は、いま見てもかなり独特である。しかも、その独特さは単に設定が変わっているだけではなく、ゲームの作りそのものにも深く染み込んでいる。つまり本作は、“珍しい設定を持ったゲーム”なのではなく、“企画・演出・操作感・難しさの全部が時代の野心に染まっているゲーム”なのである。だからこそ、知名度だけで見れば巨大な代表作ではないとしても、触れた人の記憶には非常に濃く残りやすい。PC-88VAという少し特別なハードに向けて作られた専用作だったこともあり、この作品は広く浅くではなく、狭く深く印象を刻むタイプの存在になった。そこに『神羅万象』という作品の本質がある。
● 最大の魅力は、未来・神話・超能力・和風伝奇を無理やりではなく“勢いで成立させた”世界観にある
本作をここまで印象的な作品にしている最大の理由は、やはり世界観の濃さである。未来世界を舞台にしながら、純粋なSFにはならず、そこへ神話的な存在や宗教的なイメージ、和風の英雄像、そして超能力バトルの空気まで混ぜ込んでしまう発想は、普通ならまとまりを失いやすい。だが『神羅万象』では、その危うさがそのまま魅力になっている。プレイヤーは細部を理解しきる前にまず雰囲気へ呑み込まれ、「これは何か普通ではない」と感じる。そうした“理屈より先に空気で惹きつける力”が非常に強い。ガルシアのような戦場の英雄、アマクサのような神秘を背負う異能者、毘沙門のような重厚な守護者、斬九丸のような特別な宿命を持つ剣士、マーラーのような危うい黒魔術師、そして世界の中心にいるソラリスと、因縁を抱えた魔王テンカイ。この顔ぶれだけでも、普通のジャンル分けでは収まらない。だが本作は、その混沌を欠点ではなく“作品の熱”として押し出している。この濃さこそが、『神羅万象』が後年になっても単なる古いゲームとして埋もれず、「あの妙に強い空気を持ったタイトル」として思い出される理由だろう。つまり本作の魅力は、完璧に整理された設定の美しさではなく、整理しきらないまま勢いで成立してしまう力にある。そこが実に1980年代の国産PCゲームらしく、そして非常に忘れがたい。
● ゲームとしては、3Dと2Dを切り替える構成や主人公選択の重みが、今見ても十分に個性的である
システム面に目を向けても、『神羅万象』は単なる雰囲気先行作では終わっていない。奥へ向かう疑似3Dシューティングと横スクロールの2Dアクションを交互に織り込む構成は、当時としてかなり欲張りであり、しかもその欲張りさがきちんと作品の輪郭になっている。3Dパートではスピード感と前進感、2Dパートでは足場感覚やボスとの対峙感が強くなり、一本の中で複数の遊び味が現れる。この変化があるから、ゲーム全体が単調になりにくい。また、5人の主人公からひとりを選ぶ仕組みも印象的で、それぞれの性能差がそのまま難易度や印象の差に直結している。特に斬九丸が最難関でありながら唯一のグッドエンディングを担うという設計は、現代的な公平さから見れば厳しいものの、ゲームとしての強い記憶を生む仕掛けとしては非常に効いている。つまり本作は、「誰で遊ぶか」が単なる見た目や好みの話では終わらない。主人公選択そのものが攻略と物語の両方に関わるため、一周目と二周目で見え方が変わるし、再挑戦の理由にもなっている。このあたりは荒削りではあるものの、単なる古いアクションとして片付けるには惜しい個性であり、今見ても十分に語る価値があるポイントである。
● ただし、評価を高くしきれない理由もまた、はっきり存在している
一方で、本作を無条件に絶賛できない理由も明確である。見た目の派手さや企画の大きさに対して、実際の操作感が素直とは言いにくいこと、3Dと2Dの両方にそれぞれ別種の慣れが必要で、初見の入り口がかなり厳しいこと、主人公ごとの差が味付けの範囲を超えて実質的な不公平さへ踏み込んでいることなど、現実的な弱点は少なくない。さらに、宣伝や設定から想像される壮大さに対して、実際の体験が少し駆け足に感じられる部分もあり、「もっと大きな作品になれたはずなのに」という惜しさを呼びやすい。これは本作の難しいところで、つまらないから不満が出るのではなく、素材が魅力的すぎるからこそ仕上げの粗さが目立ってしまうのである。つまり『神羅万象』の欠点は、“何もない作品の弱さ”ではなく、“やりたいことが大きすぎた作品の苦しさ”に近い。だから評価が割れやすい。熱烈に好きになる人もいれば、惜しいと感じる人もいる。しかし、その賛否の分かれ方自体が、この作品に強い輪郭がある証拠でもある。完全に整ってはいない。だが、整っていないからこそ他にはない印象を残す。そこが本作の難しく、そして面白いところである。
● PC-88VA専用作だったことは、不利であると同時に、この作品の“特別さ”でもあった
『神羅万象』を語るうえで、PC-88VA専用であったことは切り離せない。PC-88VAは高性能を備えた意欲的な新世代機だったが、市場全体を支配するほどの普及には至らなかった。そのため、本作もまた広く多機種へ浸透したヒット作にはなりにくかった。しかし逆に言えば、この作品が今も独特の存在感を放っているのは、PC-88VAという少し孤高のハードと強く結び付いていたからでもある。もし本作が一般的なPC-8801系や家庭用ゲーム機へ幅広く移植されていたなら、もっと知名度は上がったかもしれない。だがその代わり、“VAで派手なものを見せる”という意欲から生まれた濃さは薄まっていた可能性が高い。つまり本作は、商業的には広がりにくかったが、作品論としてはその閉じた環境ゆえに輪郭を濃く保ったと言える。後年の回顧でも、『神羅万象』はPC-88VA用の意欲作として思い出される存在になっている。これは移植の少なさを単なる不遇と見るだけでは捉えきれない価値である。本作は多くの版を比較して楽しむタイプではなく、“この機種、この時代、この空気”と一体になった一本として記憶されるタイプの作品だった。そこに他にはない特別さがある。
● 当時の人気は“大衆的な大ヒット”ではなく、“濃い印象を残す異色作”という形だったと考えるのが自然である
販売本数のような具体的な数字は追いにくいが、当時の『神羅万象』の立ち位置はかなり見えてくる。PC-88VA専用、5インチ2HD2枚組、7,800円という条件からして、本作は最初から広い市場で無難に売るタイプのソフトではなかった。むしろ、PC-88VAの実力を示し、日本テレネットらしい演出性を押し出す“濃い新作”として売られていたと見るのが自然である。つまり『神羅万象』は、爆発的な市場人気を得た超メジャー作ではなくても、“見た人には強く刺さる”“触れた人の記憶には残る”タイプの人気を獲得していたのである。これは、数字では測りにくいが非常に重要な価値だ。80年代の国産パソコンゲームには、こうした狭い範囲で濃く愛される作品が少なくなかったが、本作もまさにその系譜に属している。大ヒットではない。しかし、印象は強い。その“濃い人気”こそが、本作にふさわしい当時評価だったのだろう。
● 結局のところ、『神羅万象』は“完成度で記憶される作品”ではなく“存在感で記憶される作品”である
ここまでの内容を踏まえると、『神羅万象』の価値は、点数的な完成度や快適さの高さだけでは測れないことがよくわかる。もちろんゲームとしての粗さはあるし、遊びやすさの面ではもっと整った同時代作品も存在したはずである。だが、それでも本作には、他と簡単に入れ替えられない存在感がある。未来と神話が混ざった世界、女神ソラリスと魔王テンカイの対立、5人の異能の勇者、疑似3Dと2Dの切り替え、日本テレネットらしい過剰なまでの演出性、そしてPC-88VA専用作としての孤立した濃さ。これらが合わさることで、『神羅万象』は“よくできた凡作”ではなく、“粗いが忘れがたい異色作”として成立している。そういう作品は、時代が経つほど価値を持ちやすい。なぜなら流行や技術が過ぎ去ったあとに残るのは、数値的な優秀さよりも、“あの作品にしかなかった輪郭”だからである。『神羅万象』には間違いなくそれがある。だからこの作品は、万人向けの名作かと問われれば即答しにくいかもしれない。だが、1980年代の国産PCゲームの尖りや熱量、そして無理を承知で新しいものを見せようとした時代の空気を体感できる一本かと問われれば、かなりはっきりと「そうだ」と言える。そういう意味で、本作は完成度の教科書ではなく、時代の熱を封じ込めた記録物のようなゲームなのである。
● 最後に言うなら、『神羅万象』は“100点満点の優等生”ではなく、“忘れられない100点級の異色作”だった
総合的な結論として、『神羅万象』は、誰にでも勧めやすい万能型の名作ではない。遊びやすさ、親切さ、公平さ、普遍的な完成度だけで見れば、もっと上手くまとめられた作品はいくらでもあるだろう。だが、本作にはそれらとは別の価値がある。それは、“いびつさごと記憶へ残る力”である。世界観は濃く、キャラクターは強く、構成は欲張りで、難しさは時に理不尽さと紙一重であり、それでも全体としては明らかに一本の作品として燃えている。その熱があるからこそ、プレイヤーは欠点を数えながらも惹きつけられ、時が経ってからも思い出してしまう。『神羅万象』とは、整いすぎていないからこそ強いタイトルだった。PC-88VAという限られた舞台の上で、日本テレネットが“新しい時代の濃いアクション”を見せようとして生み出したこの作品は、1987年という年の空気を今に伝える貴重な存在でもある。もしこのゲームを総括する一文を選ぶなら、それは「完璧ではない、だが忘れがたい」になるだろう。そして、古いゲームを語るときに本当に価値を持つのは、案外そういう作品なのかもしれない。『神羅万象』はまさにその代表例であり、だからこそ今なお語る意味があるのである。
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