SFC シムシティ2000 セーブ可(ソフトのみ)【中古】 スーパーファミコン スーファミ
【発売】:イマジニア
【対応パソコン】:FM TOWNS、PC-9801、X68000、Windows
【発売日】:1989年
【ジャンル】:シミュレーションゲーム
■ 概要
都市を「完成させる」のではなく、「育てて眺める」発想が新しかった作品
『シムシティ』は、プレイヤーが市長の立場となり、まっさらな土地、あるいは問題を抱えた街に手を入れながら、住宅地・商業地・工業地を整え、電力網や交通網を広げ、税率や公共サービスを調整して都市を成長させていく都市経営シミュレーションである。ここで面白いのは、一般的なゲームのように「敵を倒す」「ゴール地点へ到達する」「最終面を突破する」といった一直線の目的が前面に出ていないことだ。本作の中心にあるのは、建物を一つずつ直接建てる感覚ではなく、街が育つ条件を整えたうえで、その結果として都市がどう変化していくかを観察する楽しさである。区画を引き、道路や線路をつなぎ、発電所から電気を送り、犯罪や公害を抑えながら人口と税収の流れを安定させていく。その積み重ねによって、小さな集落がやがて高層ビルの並ぶ都市へ変わっていく流れそのものが、ゲームの達成感になる。後年の作品と比べれば扱う要素は少ないが、そのぶん「都市がなぜ伸びるのか」「なぜ衰えるのか」が見えやすく、街づくりの骨格をむき出しのまま体験できる構造になっていた。目的が単純な勝敗ではなく、都市の変化そのものへ向いている点こそ、本作が今も語られる最大の出発点だといえる。
ウィル・ライトの発想から生まれた、都市という巨大なおもちゃ箱
本作の成立には、ゲーム史の中でも非常に象徴的な背景がある。生みの親であるウィル・ライトは、もともと『Raid on Bungeling Bay』の開発中にマップエディタで地形を作る作業そのものへ強い面白さを感じ、そこから「破壊するための舞台」ではなく、「変化し続ける仕組みそのもの」を遊ぶ作品へ発想を広げていった。初期版は1985年にコモドール64向けとして作られていたが、明確な勝ち負けを持たない内容が当時の常識から外れていたため、すぐには商業化されず、のちにMaxisから1989年に発売されることになる。この“勝敗を曖昧にしたゲーム”という発想は当時かなり異質で、だからこそ『シムシティ』は単なるシミュレーションではなく、「プレイヤーが自分なりの理想を街に投影するための箱庭」として受け取られた。しかも本作は、都市計画を現実そっくりに再現することよりも、都市が成長する因果関係を遊びとして分かりやすく圧縮することを重視している。公害、渋滞、犯罪、電力、税率、地価といった要素は、行政の細部を写実的に再現するためのものではなく、「街が機能するとはどういうことか」をゲームの手触りへ変換するための装置だった。そのため本作は硬派な都市工学ソフトというより、都市という生き物を机の上で飼育する感覚に近い。遊んでいるうちに、プレイヤーは建築家でも軍司令官でもなく、成長の条件を整える観察者兼調整役へと変わっていくのである。
初代ならではの簡潔な設計が、かえって都市の本質を見えやすくしていた
初代『シムシティ』の特徴を語るうえで欠かせないのが、その大胆なまでの単純化である。マップは真上から見下ろすトップビューで、高低差の概念はほぼなく、都市は陸地と水辺の配置を基本に発展していく。後年の『シムシティ2000』以降で重視される上下水道、教育、医療、廃棄物処理、条例といった要素はまだ本格的には組み込まれておらず、本作で中心となるのは、住宅・商業・工業の三区分、電力供給、交通、税率、そして公害や犯罪への対処である。だからこそプレイヤーは、余計な情報に埋もれず「どこに何を置くべきか」を直感的に考えやすい。特に本作では地価の概念が非常に重要で、水辺や緑地に近く、犯罪や公害が少ない場所ほど開発が進みやすい。逆に、工業地帯を無造作に広げたり、道路を混雑させたりすると、街の一部が伸び悩みやすくなる。つまり本作の街づくりは、単に区画を大量に敷けば成功するのではなく、環境の質と配置の妙が問われる仕組みになっている。さらに道路だけでなく線路も交通手段として大きな意味を持ち、道路は安価だが渋滞と公害を招きやすく、線路は高価でも大規模都市では有効になりやすい。このあたりの設計は後年より荒削りである一方、都市が伸びる条件と詰まる条件が非常に見えやすく、シリーズ原点としてのわかりやすさを支えていた。
災害もまた、このゲームをただの経営ソフトで終わらせなかった要素だった
本作が単なる数字合わせの街づくりゲームで終わらなかった理由の一つに、都市へ突然襲いかかる災害の存在がある。火災、洪水、竜巻、地震、飛行機事故、原子力発電所の事故、さらには巨大怪獣まで、街はときに理不尽な破壊へさらされる。こうした災害は、都市運営の安定感を揺さぶるだけでなく、プレイヤーの街に「事件」を発生させる役割を持っていた。きれいに整えた住宅街が炎上し、交通網が寸断され、せっかく育てた中心街が怪獣に踏み荒らされると、プレイヤーはその街を単なるデータの集合ではなく、自分が面倒を見てきた生きた場所として意識するようになる。特に初代『シムシティ』の怪獣は、その見た目や演出が強烈で、作品全体の無機質なグラフィックの中に一種のユーモアと恐怖を持ち込んだ象徴的存在だった。また、シナリオモードでは、こうした災害や都市問題を抱えた実在都市風のマップが用意され、ただ自由に街を作るだけではない“課題解決型”の遊びもできた。荒野から理想都市を育てるモードと、問題都市を立て直すモードが同居していることで、本作は箱庭遊びでありながら、パズル的な思考や復興劇のドラマ性まで取り込んでいたのである。東京を舞台にした怪獣襲来シナリオを含む複数のシナリオが用意されていた点も、本作の記憶を強くしている理由の一つだ。
日本のパソコン市場に持ち込まれたことで、本作は「海外の変わり種」から「定番」へ変わった
『シムシティ』は海外では1989年に広まり、日本では1990年に各機種へ展開されていく。国内ではまず富士通からFM TOWNS版が登場し、その後イマジニアからJ3100版、さらにPC-9801版とX68000版が発売された。のちにはWindows系でも展開され、原典に近い初代『シムシティ』を異なる環境で楽しめるようになっていった。ここで重要なのは、単に移植先が増えたことではない。当時の日本PC市場は機種ごとの文化差が大きく、ソフトの受け取られ方も環境によってかなり異なっていた。その中で『シムシティ』は、RPGやアクションの文脈ではなく、「海外発の新しい遊び」として各パソコン文化圏へ浸透していったのである。ゲーム誌でもその独自性が話題となり、街を作ること自体が目的になる作品として強い印象を残した。つまり本作は、日本で発売された時点ですでに単なる1本の輸入ゲームではなく、「これまでのゲームの勝ち負けの常識をずらすもの」として受け止められていた。PC-9801やX68000で遊んだ層にとっては、派手な演出よりもシステムの妙で惹き込まれる作品として記憶されやすく、FM TOWNSのような環境ではビジュアル面も含めて“新世代の知的ゲーム”という印象を与えた。本作が後の日本における箱庭シミュレーション人気の土台の一つになったのは、こうした機種横断的な浸透があったからだ。
『シムシティ』とは、都市を素材にした想像力のゲームだった
総じて初代『シムシティ』は、都市開発を題材にしていながら、厳密な行政シミュレーターではなく、都市という仕組みを遊びへ翻訳した記念碑的作品だったといえる。現実の街づくりの複雑さをすべて再現したわけではないし、後の視点から見れば大ざっぱな仕様や荒い判定も多い。だが、その単純化があったからこそ、プレイヤーは「住宅を増やすには何が必要か」「工業を伸ばすと何を失うか」「便利さと住みやすさはどう両立するか」といった、都市そのものの循環を感覚的につかめた。しかも本作は、勝ち負けではなく、どんな街を作りたいかという想像力をプレイヤーへ返してくる。巨大都市を目指してもいいし、災害に強い堅実な街を目指してもいい。効率だけを追った無機質な都市でも、景観重視の美しい街でも成立する。その自由さが、のちのシリーズだけでなく、広く街づくりゲーム全体へ影響を与えた。『シムシティ』は都市経営ゲームの原点というだけでなく、「ゲームは競争や物語だけでなく、仕組みそのものを触って楽しめる」という考え方を広めた作品でもあったのである。そう考えると、本作の価値は単なる古典という言葉では収まりきらない。後続作品がどれほど複雑になろうとも、この初代にある“街が息をし始める瞬間を見守る面白さ”こそが、シリーズ全体の核だったといってよい。
■■■■ ゲームの魅力とは?
「何をすれば正解か」を押しつけない自由さが、まず面白い
『シムシティ』の魅力を語るとき、最初に外せないのは、遊びの中心が「攻略の一本道」ではなく「自分の発想」に置かれているところである。本作はもともと、明確な勝利条件を持つ一般的なゲームというより、都市の成長や変化を触って楽しむ“シミュレーションの玩具”に近い発想から生まれており、ウィル・ライト自身も設計や都市のふるまいに対する興味を出発点にしていた。だから本作では、派手なイベントを一つずつクリアしていくのではなく、「どんな街を作りたいか」を自分の中で決め、その答えをマップ上に広げていくことがそのまま遊びになる。工業都市にしてもいいし、環境重視の穏やかな街を目指してもいいし、効率最優先の無骨な都市でも成立する。この“プレイヤーごとに理想都市が違ってよい”という懐の深さは、当時としてはかなり新鮮だった。遊んでいると、ゲーム側に用意された物語をなぞる感覚より、自分が都市の性格を作っていく感覚が強くなっていく。ここに、本作ならではの没入感がある。用意された正解を当てるのではなく、自分の考えた都市計画が画面の中で呼吸を始める。その感触が、『シムシティ』をただの古いシミュレーションで終わらせない最大の魅力になっている。
自分で建てた街が、少しずつ「街らしくなる」成長の快感が強い
本作の面白さは、建物を置いた瞬間の派手さよりも、その後に起こる変化の連続にある。最初は頼りない住宅や小さな施設しかなかった土地が、区画の置き方や交通のつなぎ方、電力供給、税率の調整によって少しずつ人口を集め、やがて都市らしい密度を帯びていく。この変化は一気に起こるのではなく、年単位の運営を重ねることでじわじわ表れてくるため、自分の手で育てている感覚が非常に強い。とくに『シムシティ』は、プレイヤーが住民一人ひとりを直接操作するわけではなく、あくまで条件を整えることで街の成長を促す仕組みになっている。つまり、命令して街を動かすというより、環境を整えて都市の反応を見るゲームなのだ。この“間接的に支配する”感触が絶妙で、上手く機能したときには「自分の計画が街の論理と噛み合った」という気持ちよさがある。単なるスコア上昇ではなく、景観の変化として成果が見えるのも大きい。小さな街が、時間の経過とともに密度を増し、にぎわいを帯びていく様子は、見ているだけでも満足感が高い。だから本作は、目的達成型のゲームとは違う“育成の快感”を強く持っているのである。
難しそうに見えて、実は「理解しやすい」設計が気持ちいい
シミュレーションゲームというと、数字や専門用語が多くて難解という印象を持たれやすいが、初代『シムシティ』はその点で非常に優れている。もちろん慣れは必要だが、本作は都市を成長させるための基本原理がかなり見えやすい。住宅・商業・工業の区画をどう置くか、交通をどうつなぐか、発電所をどこに置くか、税率をどう調整するか。やること自体は多すぎず、しかもそれぞれの要素が街の成長や衰退へどう関わるかが感覚的に把握しやすい。後年のシリーズのように細分化された管理項目が少ないぶん、「なぜ失敗したのか」「なぜ伸びたのか」が読み取りやすく、試行錯誤そのものが楽しい。実際、後年のプレイヤーレビューでも、本作は同時代の複雑すぎるシミュレーションに比べて遊びやすく、学習の壁が低かったことが評価されている。これは、単純だったという意味ではなく、都市づくりの本質を理解しやすい形へ整理していたという意味での上手さである。街づくりの結果が見えやすいからこそ、次はもっと良くできるはずだと思えてしまう。この“もう一回やり直したくなる設計”こそ、中毒性の源だといってよい。
災害があるから、都市は単なる盤面ではなく「守る対象」になる
『シムシティ』の魅力は穏やかな街づくりだけにとどまらない。火災や洪水、地震、竜巻、飛行機事故、さらには怪獣まで登場する災害要素が、プレイヤーの都市に強いドラマを与えている。順調に育っていた都市が突然の事故や災害で崩れ始めると、街は単なる数字の集合ではなく、「ここまで育ててきた自分の街」として急に重みを持ち始める。つまり、災害は単なる嫌がらせではなく、プレイヤーに都市への愛着を生ませる装置でもある。計画通りに発展するだけなら、街づくりはやがて作業になりかねない。しかし本作では、予想外の破壊が起き、その後の復旧や再配置まで含めて都市経営になるため、毎回違う記憶が生まれる。とくにシナリオモードでは、災害や問題を抱えた都市を立て直すという遊びが前面に出るため、自由建設とは別の面白さが生まれている。自由に創造する楽しさと、壊れたものを立て直す面白さが同居していることが、本作を長く遊べる作品にしている。都市は作ったら終わりではなく、維持し、守り、時には再建するものだという感覚を、ゲームとして自然に体験させてくれる点が見事である。
シナリオと自由建設の両方があるので、遊び方に幅が出る
本作の良さは、完全なフリーモード一本ではない点にもある。何もない土地から自分の理想都市を作っていく楽しさはもちろん大きいが、それだけだと初心者には「何から始めればよいのか」が分かりにくいこともある。その点、『シムシティ』にはシナリオ要素があり、特定の問題を抱えた都市を立て直す課題型の遊びも用意されている。これは、自由度の高い箱庭ゲームに“とっかかり”を与える意味でも非常に大きい。いきなり理想都市を設計しろと言われるより、まずは与えられた都市を見て、何が悪いのか、何を直せばよいのかを考えるほうが、プレイヤーはルールと因果関係をつかみやすい。自由建設では創造力が前に出て、シナリオでは問題解決力が前に出る。この二本立てがあることで、本作は単なる“街を飾るソフト”にも、単なる“数字を最適化するゲーム”にもなっていない。遊ぶ人の性格によって、のんびり箱庭として付き合うこともできるし、課題を解く戦略ゲームのように遊ぶこともできる。ひとつの仕組みから複数の楽しみ方が自然に生まれるのは、本作の設計が根本からしっかりしている証拠だといえる。
後世に大きな影響を残したこと自体が、この作品の魅力の証明でもある
『シムシティ』は、単に当時珍しかったというだけの作品ではない。長い年月を経た現在でも、街づくりゲームや箱庭型シミュレーションを語るときの原点として扱われ続けており、ゲーム史の中でも特別な存在として見られている。実際、本作以降には多くの都市建設ゲーム、経営シミュレーション、さらにはリアルタイム戦略ゲームにまで影響が広がっていったと評価されている。だが、その影響力を抜きにしても、本作の魅力は十分に強い。都市という巨大で複雑な存在を、難解すぎず、しかし薄っぺらくもなく、遊びとして成立させたこと。勝ち負けよりも、観察し、考え、育てる喜びを前面に出したこと。そしてプレイヤーごとに違う理想都市を受け止められる自由度を持っていたこと。こうした要素が積み重なって、『シムシティ』は“昔の名作”ではなく、“今も面白さの理由を説明できる名作”になっている。魅力とは何かと問われれば、それは単純に「街を作れるから」ではない。自分の発想が都市の形になり、その結果を眺め、修正し、また育てる、その循環そのものが気持ちいいからである。
■■■■ ゲームの攻略など
初代『シムシティ』は、反射神経ではなく「街が伸びる順番」を読むゲームである
初代『シムシティ』を攻略するうえで、まず頭に入れておきたいのは、この作品が「大きな施設を早く置いた人が勝つゲーム」ではないという点である。街は、住宅地・商業地・工業地の三区画、電力、交通、そして税率や地価の関係が噛み合ってはじめて伸びる。つまり、何を建てるかよりも、どの順番で街の条件を整えるかのほうがずっと重要なのである。本作の区画は3×3マス固定で、後年のシリーズほど細かな都市政策は扱わないが、そのぶん発展の条件はかなりはっきりしている。電気が通っていなければ伸びず、道路か線路に接していなければ機能せず、地価が低すぎれば住宅と商業は育ちにくい。だから序盤は、巨大都市を夢見て一気に広げるよりも、「最低限の電力」「最低限の交通」「最低限の税収」を作り、その上で需要がある区画だけを増やしていくほうが安定する。初代は一見おおらかな箱庭ゲームに見えるが、実際には街が育つ理屈をちゃんと読んだプレイヤーほど伸ばしやすい、かなり筋道の通った作品だ。攻略の第一歩は、都市を飾ることではなく、都市が自動的に成長したくなる環境を作ることにある。
序盤は「小さく始めて、需要が動いた分だけ広げる」のが失敗しにくい
自由建設モードの序盤では、最初から大規模な道路網や広大な区画を敷き詰めると、維持費だけが先に膨らみやすい。本作は道路や線路、警察署、消防署などにも毎年維持費がかかるため、見栄え優先で広げると早い段階で収支が苦しくなる。そこで基本になるのが、まず発電所を置き、その近くに小さく工業地を作って雇用を生み、そこから少し離した場所に住宅地と商業地を最小限で並べる形である。工業地は公害を出すため、住宅地と近づけすぎないほうがよく、住宅地や商業地はできるだけ環境のよい側へ伸ばしたい。道路は安価で序盤に使いやすいが、公害や渋滞の温床にもなるので、必要なぶんだけ引く意識が大切になる。税率も、短期的に資金が欲しいからと高くしすぎると街の勢いを弱めやすいので、序盤は無理に搾り取るより、成長の芽を止めない程度に抑えたほうが中長期では伸びやすい。本作は一度に大量に建設するより、需要表示を見ながら「今ほしがられている区画だけを足す」ほうが結果的に強い。箱庭に見えて、実はかなり堅実な拡張が報われるタイプのゲームなのである。
住宅と商業を伸ばしたいなら、地価を育てる意識が攻略の中核になる
初代『シムシティ』の攻略でとくに大切なのが、地価をどう守り、どう高めるかである。本作は後年のシリーズ以上に地価の影響が強く、地価が低すぎる場所では住宅地や商業地が思うように育たないことがある。地価は町の中心部や緑地、水辺の近くで上がりやすく、公害や犯罪が高い場所で下がりやすい。つまり、住宅街を育てたいなら、工業地帯を街の端や風下の感覚で外縁へ寄せ、住宅・商業エリアは中央寄りや水辺寄りにまとめ、公園で価値を底上げしていく考え方が有効になる。初代は水道や教育などの複数レイヤーがないぶん、地価の上げ下げがかなりストレートに街の成長へ返ってくる。だから、ただ空いた場所へ住宅地を置くだけではだめで、「ここは住みたい場所か」「ここで商売したい場所か」をマップ上で作る必要がある。公園は派手な施設ではないが、地価を底上げする役目が大きく、狭いスペースでも効きやすい。逆に工業地や道路を住宅地のすぐ隣へ無造作に置いてしまうと、人口が伸びず、商業もつられて弱くなりやすい。攻略として見るなら、住宅と商業は“余った土地へ置くもの”ではなく、“価値を育てた土地へ誘導するもの”と考えたほうが上手くいく。
道路だけで押し切らず、線路をどう使うかで中盤以降の伸びが変わる
初代『シムシティ』の交通網は、見た目以上に攻略の差が出る部分である。道路は建設費も維持費も安く、序盤には頼りになるが、渋滞と公害を生みやすい。一方で線路は高価なかわりに、公害と交通渋滞を発生させず、道路にかなり近い役割を果たしてくれる。この仕様のため、本作では大都市化を目指すほど「道路中心の街」より「線路を活用した街」のほうが安定しやすい。極端な話、道路をほとんど使わず線路中心で都市を構成する攻略すら成立するのが初代の独特なところだ。もちろん序盤から全面的に線路へ寄せると出費が重いので、現実的には、初期は道路で必要最低限を確保し、人口が増えて渋滞と公害が目立ち始めたら、重要幹線や住宅・商業の結節部から徐々に線路へ置き換えていくのが扱いやすい。後年のシリーズのような駅の概念がないため、線路そのものが道路の代用品のように働くのも初代ならではの癖である。見た目のリアリティより、仕様上の強さを理解して使うと、一気に都市の伸びが楽になる。攻略の感覚としては、「道路は立ち上げ用、線路は大都市用」と覚えておくと分かりやすい。
街が止まり始めたら、需要の“上限”を疑うと中盤の壁を越えやすい
本作では、ただ区画を増やしていれば無限に伸びるわけではない。税や地価などから計算された各地域の需要人数と、実際に住んでいる人数の比較によって発展や衰退が決まり、さらにスタジアム、港、空港には、それぞれ商業・工業・住宅の需要人数にかかる上限を外す役割がある。つまり、街並みを整え、電力と交通をつなぎ、地価も悪くないのに発展が鈍り始めた場合、単純な配置ミスではなく「需要上限に引っかかっている」可能性があるのである。感覚的には、商業が伸び切らないならスタジアム、工業が頭打ちなら港、住宅が膨らみ切らないなら空港、という方向で考えると理解しやすい。ただし、これらの大型施設はメリットだけでなく、渋滞や公害の原因にもなり得るため、置き方は慎重にしたい。住宅のすぐ隣に空港や港を置いてしまうと、せっかくの需要解除が地価低下で相殺されることもある。だから大型施設は、街を次の段階へ押し上げる“ブースター”ではあるが、乱暴に置けば足を引っ張る諸刃の剣でもある。中盤以降に人口が伸び悩んだとき、単純に区画を増やすのではなく、「今の街は何の上限にぶつかっているのか」と発想を切り替えるのが上級者寄りの攻略になる。
災害対策は「完璧に防ぐ」より「被害を広げない」考え方のほうが合っている
初代『シムシティ』では、火災、洪水、飛行機事故、竜巻、地震、怪獣、そして原子力発電所のメルトダウンまで、かなり多様な災害が起こる。だが本作の災害対策は、後年の作品のように精密な防災都市を作る方向ではなく、「被害の連鎖を抑える」意識のほうが重要である。消防署には延焼を抑え、鎮火を早める効果があるが、万能ではなく、停電時には力を発揮しにくいという癖もある。また、原子力発電所は高性能な反面、事故時の被害が極端に大きく、長期的な安全運営を重視するなら火力で粘るほうが気楽な場面も多い。もちろん火力は公害を出すため、どちらを取るかは都市の方向性次第だが、初見では「高性能だから原子力が正解」と単純に考えないほうがよい。災害の多くは完全には防げず、起きた後の再建力が問われる。だからこそ、道路や電線を一本に頼りきらず、重要エリアの電力供給や交通導線をある程度分散しておくと復旧がしやすい。災害のない理想都市を目指すより、壊れても立て直せる都市を作るほうが、この作品では現実的な攻略になる。
シナリオ攻略は、自由建設とは別物として考えたほうがいい
シナリオモードは自由建設の延長に見えて、実際にはかなり性格が違う。最初から問題を抱えた都市を短期間で立て直す形になるため、景観や理想形よりも、どこを切り、どこを生かすかの判断が重要になる。とくに有名なのがDullsvilleで、このシナリオは30年以内に10万人都市へ育てる必要があり、初期資金もわずか5000ドルしかない。日本語マニュアル系では初級寄りに見える扱いでも、実際には自由度が低く、かなり厳しい部類として知られている。ここでは無駄な維持費を抱えないこと、最小限の交通と電力を通しつつ需要に沿った増築を続けることが何より大切で、のんびり景観を整えている余裕はあまりない。逆に東京のように、すでに都市規模が大きく、復興中心で達成しやすいシナリオは、システム理解の練習として使いやすい。つまりシナリオ攻略では、「完成度の高い街を作る」より「条件達成に必要な要素だけへ集中する」ことが重要になる。自由建設の美学と、シナリオの効率は分けて考えたほうが成功しやすい。
昔から知られる“仕様の穴”もあるが、使うなら作品の癖として理解しておきたい
本作には、長く遊ばれてきたぶん、プレイヤーの間で知られる小技や仕様の穴もいくつかある。たとえば、普段は税率を低く保ち、徴税のタイミングだけ税率を上げるといった裏技的なやり方が古くから語られてきたし、住宅地から変化して現れる教会や病院は都市に特別な利点を与えない一方で場所を取るため、効率重視の攻略では扱いに困る存在としても知られている。さらに、原子力発電所の事故確率の低さや、線路偏重が成立する交通仕様なども、初代ならではの“割り切った攻略”を生んできた。もっとも、こうしたテクニックは本作の都市シミュレーションとしての味わいを薄める面もある。きれいな街を作るのか、効率だけを追うのかで、採用すべき手は変わる。裏技や抜け道まで含めて初代『シムシティ』らしさではあるが、使うなら「この作品は現実の都市計画を厳密に再現するゲームではなく、独自ルールで動く箱庭だ」という前提で向き合うのがちょうどいい。
■■■■ 感想や評判
発売当時の第一印象は、「こんな題材が本当にゲームになるのか」という驚きが大きかった
『シムシティ』が当時強い印象を残した理由の一つは、題材そのものが非常に異色だったからである。1980年代末のゲームといえば、敵を倒すアクション、物語を追うRPG、対戦や攻略の明快な勝敗を持つ作品が目立っていた。その中で本作は、都市計画、税率、道路、工業地帯、公害、災害対応といった、一見すると娯楽作品に向いていない要素を真正面からゲームにしていた。しかも都市はプレイヤーの思い通りに完全には動かず、区画の置き方や政策の結果が遅れて返ってくるため、遊び始めた直後から従来のゲームとは違う手触りを感じさせた。この“ゲームなのに勝敗が前に出ない”“それでも何時間も続けてしまう”という不思議さが、当時の感想として非常に大きかったのである。実際、発売後の各種レビューでは、従来型のアクション性が薄いにもかかわらず中毒性が高いこと、しかも都市計画や経済感覚への興味まで刺激する点が高く評価されていた。つまり本作の評判は、単純に「面白い」だけでなく、「こんな形でもゲームは成立するのか」という驚きとセットで広がっていったのである。
ゲーム誌や専門メディアは、完成度よりも“独自性の強さ”をまず称賛していた
当時のレビューを見ると、『シムシティ』はまず独創性の面で非常に強く受け止められていたことが分かる。都市運営という現実では簡単に触れられない題材を、プレイヤーに一手ずつ体験させる作品として紹介され、都市は単なる盤面ではなく、行動の結果が返ってくる“生命を持った存在”のように描かれていると評された。各種パソコンゲーム誌でも、本作はゾーン配置、道路建設、政治的判断、被害対処など、常に戦略的な思考を要求する点が高く見られていた。要するに本作の評価は、「画面が派手だから」「演出がすごいから」ではなく、都市という複雑な対象を、試行錯誤が楽しい遊びに変換してみせた発明性へ集中していたのである。後から見れば、操作性やリアリティには粗い部分も多いが、当時の批評がそこより先に“こんなゲームが成立したこと自体”を高く評価したのは自然な流れだったといえる。
実際に遊んだ人の感想は、「気づいたら時間が消える」という中毒性に集まりやすい
プレイヤー目線の反応として多かったのは、一本筋の通った物語がないのに、なぜか延々と遊んでしまうという感覚である。街を少し広げるつもりが、税収を整え、公害を抑え、交通を見直し、もう一年だけ、もう少しだけと続けているうちに、かなり長時間没頭してしまう。この感覚は発売当時から指摘されており、メディアでも強い中毒性を持つ作品として扱われていた。だが本作の中毒性は、派手な報酬が次々に出るタイプのそれではない。むしろ、小さな改善の積み重ねが街並みの変化として返ってくること、自分の設計思想が人口や景観に反映されること、その手応えがじわじわ効いてくる種類の中毒性である。だから感想としては、「最高のストーリーだった」という形より、「自分の街に愛着が湧いた」「やめどきを失った」「最初は地味だと思ったのに気づけば夢中だった」というものになりやすい。ゲームの派手さではなく、自分の思考が都市の姿へ変わる過程そのものが面白い。この評判のされ方は、本作が単なる流行作ではなく、遊び方そのものを変えた作品だったことをよく示している。
一方で、誰にでも分かりやすい作品ではなく、「地味」「不親切」と感じる声も確かにあった
高評価の多い作品ではあるが、もちろん全員が同じ熱量で受け入れたわけではない。『シムシティ』は、敵を倒す爽快感や、明快なステージ突破の達成感を前面に出すタイプではないため、遊びの価値が分かるまでに時間がかかる。都市の伸び悩みの原因も、慣れないうちは見えにくい。税率、地価、公害、交通、電力の関係が噛み合っていないと街が止まるが、それを説明書だけで完全に把握するのは簡単ではなく、初見では「何をすれば成功なのか分かりにくい」と感じやすかった。また、日本語PC版の文脈では、機種や操作環境の違いによって遊びやすさの印象も変わりやすく、後年のレトロPC回顧でも、日本独自展開版にはややもっさりした手触りやテンポ面の差を感じるという見方がある。つまり評判としては、発想の新しさに感動する層と、地味さや不親切さに戸惑う層の両方がいた。ただし面白いのは、前者の熱量が非常に強かったため、多少の不親切や癖を補って余りある作品だと見なされていった点である。
「知的なゲーム」として受け止められたことも、本作の評判を特別なものにした
『シムシティ』の評判を他作品と分けた大きな点は、娯楽としてだけでなく、知的刺激のある作品としても見られたことである。実際、本作は都市設計、政治、経済の初歩的な感覚へ触れさせる教材的価値もあると受け止められ、大学の都市計画や政治学の授業で利用された事例も知られている。これは「教育ソフトだった」という単純な意味ではなく、ゲームとして面白いのに、都市という仕組みへの関心まで呼び起こす作品だったということだ。大人にも訴求し、個人向けPC時代に“知的に楽しいゲーム”の領域を広げた点が高く評価されてきたのもそのためである。発売当時の評判が一過性で終わらず、何十年後にも文化的意義と一緒に語られるのは、単に売れたからではない。遊んだ後に「都市を見る目が少し変わる」ような作品だったからこそ、本作の感想には他のゲームと少し違う重みが宿ったのである。
後年の再評価では、「シリーズの原点」以上に「ゲーム史の転換点」として語られることが多い
現在の視点から見た『シムシティ』の評判は、単なる名作の再確認にとどまっていない。後年の批評では、本作は都市建設シミュレーションの原点というだけでなく、プレイヤーに“破壊ではなく創造”を楽しませる方向を大きく広げた作品として位置づけられている。遊びの中心を「撃つ」「倒す」「奪う」ではなく、「配置する」「育てる」「調整する」へ移したこと。そして、勝ち負けが薄くても人を夢中にさせられると証明したこと。この二点が、本作の評判を時代を超えるものにしている。感想や評判を総合すると、『シムシティ』は“当時珍しかった良作”ではなく、“ゲームの可能性そのものを広げた作品”として記憶されているといってよい。
■■■■ 良かったところ
都市づくりそのものが「遊び」として成立していたところ
『シムシティ』の良かったところとして最初に挙げられるのは、都市計画や行政運営のような、本来なら娯楽作品の題材としては地味に見えやすいものを、きちんと夢中になれるゲームへ変えていた点である。本作は、目標を明確に定めず、望ましい結果をプレイヤー自身に決めさせる設計を持っており、道路や建物を置き、都市がその結果を返してくる直感性が成功要因になっている。これは実際に遊んだときの感触にかなり近い。建物を一つずつ直接操作する楽しさではなく、街が成長する条件を整えた結果として都市が動き始める、その反応を見ること自体が面白いのである。敵もいなければ明快なラスボスもいないのに、気づけば時間を使ってしまう。この“題材の地味さ”と“遊びの強さ”が見事に反転しているところが、本作の大きな長所だった。従来のゲームの枠におさまらないのに、ちゃんとゲームとして熱中できる。そこに、当時の多くのプレイヤーが新鮮さと完成度の高さを感じたのである。
自分の考えが、そのまま街の形になって返ってくるところ
本作を高く評価する人が多かった理由の一つに、「自分の発想が目に見える成果として返ってくる」感覚がある。住宅地、商業地、工業地の置き方をどうするか。工場をどこへ寄せるか。道路を伸ばすか、線路を活かすか。税率をどう動かすか。こうした選択は数字の操作に見えて、実際には街の性格そのものを決めていく。整った都市になるか、無理な拡張で歪な都市になるかは、プレイヤーの考え方次第で大きく変わる。この感覚は、用意された正解を当てるゲームとはかなり違う。都市は単なる盤面ではなく、プレイヤーの判断へ反応する生きた仕組みとして受け止められやすく、うまくいったときは「システムを解いた」感覚だけでなく、「自分の都市が育った」感覚になる。この愛着の生まれやすさは、初代『シムシティ』の非常に大きな美点である。
複雑そうなのに、基本は意外なほどわかりやすかったところ
都市経営シミュレーションという言葉だけ見ると、本作は難解で近寄りがたい作品に思われがちである。しかし実際には、初代『シムシティ』の良さは、複雑な題材をかなりわかりやすく整理していたことにある。プレイヤーが最初に覚えることは、区画を置く、電力を通す、交通をつなぐ、税率を調整する、といった骨格の部分であり、後年のシリーズほど管理項目が細かくない。そのため、失敗した理由も成功した理由も比較的つかみやすい。公害が強いから住宅が伸びないのか、交通が悪いから発展しないのか、税率が重いのか。こうした因果が見えやすいので、単に難しいだけのシミュレーションにはならないのである。プレイヤーから見れば、最初は恐る恐る触っていても、少し理解が進むだけで急に街づくりが面白くなる。この「学びながら面白さが増す」感触は、本作が長く支持された理由の一つだろう。難しいテーマを、難しすぎない遊びへ落とし込んだところは、今見てもかなり優れている。
何度でも新しい街を作りたくなる、異常なまでの再プレイ性
『シムシティ』の長所としてよく語られるのが、一本遊んで終わりになりにくいところである。本作には物語の終点があるわけではなく、「この街はこう作る」「次はもっと効率よく」「今度は景観重視で」と、プレイヤー自身が目標を差し替えながら何度でも遊べる。勝敗より試行錯誤そのものに価値がある作品として記憶されやすく、マップの見た目や人口の大小だけでなく、「今回はどういう思想で街を作るか」を毎回変えられることが大きい。堅実な都市、工業偏重の都市、災害に強い都市、無理な拡張で崩壊寸前の都市。どれもプレイヤーの遊び方として成立する。自由度が高い作品は往々にして目的を見失いやすいが、本作は都市が伸びるかどうかという反応が常に返ってくるため、自由でありながら空虚になりにくい。その結果、終わりがないことが欠点ではなく、何度でも最初から触りたくなる魅力へ変わっていたのである。
災害やシナリオがあることで、箱庭だけでは終わらなかったところ
本作の良さは、単なる“のんびり街を眺めるゲーム”にとどまらなかった点にもある。都市づくりの自由さが魅力なのは確かだが、それだけでは遊びが単調になりやすい。そこで効いてくるのが、火災、洪水、竜巻、地震、怪獣などの災害と、問題を抱えた都市を立て直すシナリオの存在である。都市を順調に育てている最中に予想外の破壊が起きると、プレイヤーは街を単なる配置パズルではなく、守るべき対象として意識するようになる。また、シナリオは自由建設とは別の遊び方を与えてくれるため、ただ美しい街を作るだけでなく、「限られた条件でどう立て直すか」を考える戦略性も生まれる。平穏な発展だけでなく、破壊と復興まで含めて都市運営になる。ここに、本作がただのレイアウト遊びで終わらなかった理由がある。
「作る楽しさ」をゲーム史の中心へ押し上げたところ
『シムシティ』の良かったところを総合的に見るなら、単体として面白かっただけでなく、ゲームで何を楽しいと感じるかの範囲を大きく広げたことも外せない。後の都市建設ゲームだけでなく、プレイヤーが“破壊より創造”を楽しむゲーム全般の重要な原点として扱われるのは、そのためである。本作以前は、ゲームの面白さが対立や勝敗、スコアの更新に強く結びついていた時代だった。そこへ『シムシティ』は、「配置する」「調整する」「眺める」「育てる」という行為そのものが十分に面白くなり得ることを示した。だから本作は、後の作品にシステム面で追い越されてもなお、原点としての重みを失わない。良かったところを一言でまとめるなら、それは“都市を作ること自体を、ちゃんと人が熱中する遊びにしたこと”である。これは単なるシリーズ第一作という肩書き以上に、ゲーム史の中で非常に大きな功績だといえる。
■■■■ 悪かったところ
遊びの核は面白いのに、最初の取っつきにくさがかなり強かった
『シムシティ』は都市を育てる面白さが非常に強い作品だが、その一方で、遊び始めた直後の分かりにくさは決して小さくなかった。アクションゲームのように見た瞬間に目的が分かるわけでもなく、RPGのように物語が引っ張ってくれるわけでもないため、初めて触れた人ほど「何をすればうまくいっているのか」が見えにくい。住宅地、商業地、工業地を置けば街になるようでいて、実際には電力、交通、税率、地価、公害、犯罪など複数の要素が噛み合わないと発展しない。しかし初代はその関係を丁寧に噛み砕いて教えてくれるタイプの作品ではなく、感覚的に試して覚える部分がかなり大きい。そのため、面白さの入口にたどり着く前に「思ったほど自由ではない」「何が悪いのかよく分からないまま失敗する」と感じる人も出やすかった。今の感覚で見ると、この不親切さはかなり目立つ。街づくりゲームとしての骨格は優れているのに、その魅力へ入るまでの橋渡しが弱く、最初の数時間で作品の価値を十分に伝えきれない場面があったのである。名作であることは確かでも、誰にでも即座に面白さが伝わる親切設計だったとは言いにくい。
操作や画面まわりには、時代相応以上のもどかしさが残っていた
初代『シムシティ』を今の視点で振り返ったとき、かなりはっきり不満として挙がりやすいのが操作性である。作品のコンセプト自体は斬新で、都市を俯瞰しながら考える遊びに合っていたが、実際の入力や画面移動は快適とは言い切れない部分があった。特に日本語パソコン版の文脈では、マウス操作とキーボード操作の癖、ウインドウの感覚、細かな配置のしづらさなどが、じわじわとストレスになりやすい。後年のシリーズや現代の箱庭ゲームに慣れた目で見ると、画面の情報量も限られ、視認性やレスポンスの面で物足りなさを感じることがある。もちろん当時としては十分先進的だったが、ゲーム内容が「考えて配置する」ことを主軸にしている以上、操作の引っかかりはそのまま思考の気持ちよさを削ってしまう。街づくりそのものは楽しいのに、そこへ手を伸ばすための道具が完全には洗練されていない。そのねじれが、本作の古さとしてかなり分かりやすく表れる部分だった。
リアルな都市計画を期待すると、かなり割り切った仕様が目立つ
『シムシティ』は都市を題材にしたゲームであるため、名前だけ聞くと本格的な都市行政シミュレーターを想像する人もいる。しかし実際の初代は、都市の仕組みをかなり大胆に簡略化した作品であり、その単純化が面白さの土台になっている反面、リアリティの面では首をかしげる場面も少なくない。たとえば交通網は、現実の都市のように精密な流れを再現しているわけではなく、道路や線路が“ある程度つながっていればよい”というゲーム的な割り切りが強い。そのため、現実ではあり得ないような不自然な交通配置でも意外と街が機能してしまうことがある。さらに、海辺や川沿いに立地する必然がありそうな施設も、ゲームではかなり自由に置けるため、見た目の説得力より仕様上の効率が優先されやすい。これ自体はゲーム性のための簡略化として理解できるが、都市づくりの雰囲気に没入しているときほど、この不自然さが気になりやすい。つまり本作は「都市そのものを再現した作品」というより、「都市が成長する原理を遊びに変えた作品」なのであり、その違いを理解していないと、思ったより現実味が薄いと感じることがある。ここは好みの分かれるところであり、リアル志向の人にとっては明確な不満点になりやすかった。
効率を突き詰めると、理想の街並みより“仕様に勝つ配置”が強くなってしまう
本作には自由な街づくりの魅力がある一方で、システムを深く理解していくほど、景観や常識よりも“ゲーム的に強い配置”が見えてきてしまうという問題もある。たとえば道路は便利だが渋滞や公害を生みやすく、線路は高価でもそれらの欠点を抱えにくい。このため、大都市を効率よく作ろうとすると、現実の都市とはかなり違う、線路偏重の奇妙な街が成立しやすい。また、工業地の置き方や施設の接続も、見た目の自然さより内部判定を優先したほうが有利になる場合があり、結果として「本当に人が住んでいそうな都市」より「ゲームの仕様に最適化された都市」のほうが強くなりやすい。これは攻略としては面白いが、箱庭としての夢を大事にしたい人には少し冷める部分でもある。つまり本作は、自由度が高いからこそ、雰囲気重視で遊ぶか、効率重視で遊ぶかで印象が大きく変わる。前者では豊かな想像力が楽しめるが、後者ではシステムの穴を突くような感覚が前面に出やすい。この“美しい都市づくり”と“強い都市づくり”が必ずしも一致しないところは、初代ならではの粗さとして見逃せない。
公共施設の存在感にばらつきがあり、置く喜びが薄いものもあった
街づくりゲームでは、新しい施設を建てたときに「都市が一段進化した」という感覚が得られるかどうかが大きい。しかし初代『シムシティ』では、その手応えにかなり差があった。発電所、道路、線路、警察署のように効果が分かりやすいものもあれば、置いても恩恵が見えにくい施設もあり、公共施設全体の役割にムラがある。特に消防署などは、存在意義が分からないわけではないものの、万能の防災設備というより、限られた場面で効く補助装置のような感触が強く、期待したほど頼りにならないことがある。また、住宅地から変化して現れる一部の建物も、街の雰囲気を作る存在ではあるが、ゲーム的な利益が薄く、効率重視で見ると扱いに困る。こうした仕様は、街が生き物のように変化する面白さと表裏一体ではあるものの、プレイヤーからすると「苦労して維持しているのに、見返りが小さい」と感じやすい。都市づくりゲームとして見ると、施設を建てる喜びが均等に設計されているわけではなく、結果的に“使うもの”と“あまり使いたくないもの”の差が広がりやすかった。この偏りは、シリーズ初期作らしい実験的な味でもあるが、遊びやすさの面では明確な弱点といえる。
災害は盛り上がる反面、ときに理不尽さが先に立つこともあった
火災、洪水、地震、竜巻、飛行機事故、怪獣など、初代『シムシティ』の災害要素は作品の印象を強くしている重要な仕掛けである。街をただ育てるだけでは終わらない緊張感を生み、復興という別の面白さも与えてくれる。しかし、良い面ばかりではない。苦労して育てた都市が一瞬で壊される展開はドラマでもあるが、その被害が大きすぎると、達成感より徒労感のほうが前に出てしまうことがある。特に初代は、災害を防ぐ手段や被害を細かくコントロールする手立てが豊富ではなく、起きた後の対応にも限界があるため、プレイヤーの感覚としては「努力で乗り越えた」というより「運悪く壊された」と受け止めやすい場面があった。怪獣のような象徴的な存在は印象に残る一方で、真剣に都市を育てている最中には唐突で理不尽に映ることもある。つまり災害は、本作を記憶に残る作品にした長所であると同時に、遊びの積み上げを強引に断ち切る不満要素にもなり得たのである。
後年の作品と比べると、どうしても物足りなさが出てしまう
これは初代にだけ向ける不満としては少し酷かもしれないが、シリーズ後続作を知っている人ほど、本作の簡素さや粗さは気になりやすい。『シムシティ2000』以降になると、高低差、水道、条例、教育、医療、詳細なインフラ管理など、街づくりの層が一気に厚くなる。そうした作品に慣れてから初代へ戻ると、どうしても「できることが少ない」「街の個性が出にくい」「管理の幅が狭い」と感じやすい。もちろん初代には、要素を絞っているからこその分かりやすさと純度の高さがある。しかし、その魅力を理解していてもなお、長時間遊ぶと似た展開になりやすかったり、都市ごとの差異が後年ほど鮮明に出なかったりするのは否定しにくい。つまり本作は、原点としては非常に偉大である一方、シリーズ全体の中では“完成形”ではなく“始まりの形”である。そのため、歴史的価値を知らずに今いきなり一本だけ遊ぶと、評価ほどではないと感じる人がいても不思議ではない。今でも面白い要素は確かにあるが、その面白さは洗練された現代的快適さとは別の場所にある。ここを受け入れられるかどうかで、本作への印象はかなり変わる。
名作であることと、欠点が多いことは両立していた
総合的に見ると、初代『シムシティ』の悪かったところは、単純に出来が悪いという意味ではなく、「新しい遊びを切り開いた最初期作品ゆえの粗さ」があちこちに残っていた点に集約される。説明不足、操作のもたつき、現実離れした仕様、効率優先で不自然な都市が強くなるバランス、災害の理不尽さ、公共施設の手応えの差、そして後年作と比べたときの簡素さ。こうした弱点は確かに存在し、現代のプレイヤーが引っかかる部分として十分に理解できる。それでもなお本作が高く評価され続けるのは、それらの欠点を踏まえても、都市を“作ること自体が楽しい”という核心が非常に強かったからである。つまり本作は、欠点が少ないから名作なのではなく、欠点が見えていてもなお遊ぶ価値があるから名作なのである。その意味で「悪かったところ」は確かに多いが、それらは作品の価値を否定する材料ではなく、むしろ原点としての生々しさを示す部分でもあった。洗練され切っていないからこそ見える発明の瞬間が、この初代にははっきり残っているのである。
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■ 好きなキャラクター
この作品は「誰が好きか」を普通のゲームとは違う角度で語りたくなる
初代『シムシティ』の「好きなキャラクター」を語ろうとすると、まずこの作品が一般的な物語型ゲームではないことに気づかされる。剣を持った主人公がいて、仲間がいて、宿敵がいて、会話イベントを重ねながらドラマが進むような作りではない。プレイヤーが向き合うのは、住宅地、商業地、工業地、税率、電力、公害、交通、災害といった、いわば都市そのものの挙動であり、前面に立つ固定キャラクターはほとんど存在しない。だからこそ本作では、「誰が好きだったか」という問いへの答えも少し独特になる。見た目として明確に印象へ残る存在、都市の個性を強く感じさせる存在、あるいは画面には直接立っていないのに、遊んでいるうちに人格のようなものを感じてしまう存在が、“好きなキャラクター”として記憶されやすいのである。プレイヤーによっては怪獣を挙げるだろうし、別の人は見えない住民たちを挙げるかもしれない。さらに言えば、市長として街を眺める自分自身を、この作品における最大のキャラクターだと考える見方も成立する。『シムシティ』の面白さは、キャラクターが少ないことではなく、都市そのものや出来事のほうに人格が宿っていくところにある。そのため、この章ではRPGの登場人物紹介のように固定名簿を並べるのではなく、実際に遊んだ人の記憶に残りやすい“象徴的な存在”としてのキャラクター性を掘り下げていくのが、この作品にはいちばん自然である。『シムシティ』は都市建設ゲームとして設計されており、プレイヤーは市長兼都市計画者の立場を取る作品であるため、もともと固定主人公劇よりも「役割への没入」が前に出る構造になっている。
やはり最も印象に残る“顔”は、街へ現れる怪獣である
初代『シムシティ』で「好きなキャラクター」を一人だけ挙げるなら、やはり怪獣を推す声がいちばん強くなりやすい。なぜなら本作は通常時の画面が非常に機能的で、都市そのものが主役として描かれているぶん、怪獣の登場があまりにも異質で、あまりにも強烈だからである。順調に育っていた街へ突然現れ、建物を踏み荒らし、プレイヤーが積み重ねてきた都市計画を一気にかき乱していくその姿は、恐ろしくもあり、どこか愛嬌もある。初期版ではこの“Monster”の見た目がかなりゴジラ的だったことで知られており、後にその表現が変更されたことからも、この存在がいかに作品の顔として印象深かったかが分かる。街づくりゲームなのに、なぜ巨大怪獣が出てくるのか。この意外性が、初代『シムシティ』に独特のユーモアと記憶の強さを与えていた。しかも怪獣は単なる敵ではない。倒して終わるボスではなく、都市という秩序に突然割り込んでくる“作品の気まぐれ”そのもののような存在である。だから嫌いになれない。むしろ、せっかくの理想都市を破壊されて腹が立ったはずなのに、後から振り返ると「あの怪獣のせいで忘れられない街になった」と感じる人も多いだろう。好きなキャラクターとして怪獣が挙がりやすいのは、登場時間の長さではなく、作品全体の印象を一撃で塗り替えるだけの存在感を持っていたからである。
名前も顔もないのに、気づけば愛着が湧いている“市民たち”もまた主役である
怪獣のような目に見える象徴と対照的に、もう一つ忘れがたいのが、市民たちそのものの存在である。初代『シムシティ』の市民は、RPGの村人のように一人ひとりの顔や台詞を持っているわけではない。だが、住宅地が育ち、商業地がにぎわい、工業地が働き始める過程を眺めていると、そこには確かに「この街で暮らしている誰か」がいる感覚が生まれてくる。しかも本作では、税率を上げすぎれば不満がたまり、公害や犯罪がひどければ街の魅力が落ち、交通が悪ければ発展が鈍る。つまり市民は画面上で直接歩き回らなくても、都市の反応そのものとして常に存在を主張しているのである。この“見えないのに確かにいる”感じが絶妙で、プレイヤーは次第に、数字としての人口ではなく、「自分の街に住んでいる人たち」を相手にしているような気持ちになっていく。好きなキャラクターを聞かれて市民全体を挙げるのは少し変わっているように見えるが、本作に限ってはかなり自然な答えだ。なぜなら、都市建設ゲームとしての『シムシティ』は、最終的には市民がそこに住み続けてくれるかどうかがすべてだからである。彼らは顔のない群衆でありながら、ゲーム全体の感情移入先でもある。だからこそ、街が順調に育ったときのうれしさも、災害で壊れたときの痛みも、すべて「そこに暮らしていたはずの人々」への想像力と一緒に膨らんでいくのである。
もう一人の主役は、画面の外にいる“市長としての自分”である
『シムシティ』の好きなキャラクター論で面白いのは、最終的にプレイヤー自身へ話が戻ってくるところである。本作では、主人公らしい顔つきの人物が前面へ出てこない代わりに、プレイヤーがそのまま市長という役割へ入り込む。これは単なる操作上の設定ではなく、遊んでいるうちにかなり強い自己投影を生む仕掛けになっている。道路をどこへ通すか、工場をどこへ寄せるか、税率を上げるか下げるか、原発を置くかどうか。そうした判断はすべてプレイヤーの性格を反映し、結果として出来上がる街が“その人らしい都市”になっていく。慎重な人の街は堅実になりやすく、大胆な人の街は極端に伸びるか極端に崩れる。景観重視の人は公園や配置にこだわり、効率重視の人は仕様を読み切った無骨な都市を作る。つまり『シムシティ』では、市長という立場そのものがキャラクター化されており、その役を演じているのがプレイヤー自身なのである。好きなキャラクターを挙げる章で、あえて「市長としての自分」を含めるのは、この作品の性質を考えればかなり本質に近い。誰かが用意した主人公を好きになるのではなく、自分の判断癖や美意識が都市として現れ、それを通して“自分という市長像”に愛着が湧いていく。この感覚は、キャラクター主導のゲームではなかなか得にくい、『シムシティ』特有の魅力だといえる。
好きなキャラクターが少ないのではなく、都市そのものへ人格を感じる作品だった
結局のところ、初代『シムシティ』における“好きなキャラクター”とは、固定の名前を持つ人物を選ぶ楽しさではなく、都市を構成する存在の中で、どれにいちばん感情が動いたかを語ることに近い。怪獣のように目立つものを好きになる人もいれば、見えない市民たちへ愛着を抱く人もいる。あるいは、街の盛衰そのものを一つの人格のように感じ、「この都市自体が一番好きだった」と思う人もいるだろう。本作は、都市建設というテーマを選んだ時点で、従来型のキャラクター消費とは違う方向へ進んでいた。だからこそ、好きなキャラクターの話題さえも、「あの怪獣が忘れられない」「あの街に住んでいる人たちを守りたかった」「結局いちばん好きだったのは、あの都市を作っていたときの自分かもしれない」という、少し不思議で奥行きのある語り方になっていく。これは本作がキャラクター性に乏しいからではなく、むしろ都市という巨大な仕組みの中へ、別の形で人格や感情が染み込んでいたからである。『シムシティ』は人物劇のゲームではない。だが、だからこそ一度遊ぶと、怪獣、市民、都市、そして市長としての自分まで含めて、独特の“好きな存在”が心に残る作品だったのである。
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●対応パソコンによる違いなど
同じ『シムシティ』でも、機種が変わると「遊びの印象」まで少しずつ変わっていた
初代『シムシティ』は、海外で1989年に広まり、日本では1990年にFM TOWNS版、J3100版、PC-9801版、X68000版が順に登場していった作品である。ただし、この時代の移植は現代のように“どの機種でもほぼ同じ内容”になりやすいわけではなかった。ハードごとの画面解像度、音源、操作環境、OS文化、そしてその機種を使うユーザー層まで違っていたため、同じ都市建設ゲームでも、どの版で触れたかによって作品の印象は微妙に変わってくる。しかも『シムシティ』は、反射神経よりもマウス操作や画面の見やすさ、長時間の試行錯誤のしやすさが重要なタイプのゲームである。そのため、アクションゲーム以上に“どの機種で遊ぶか”の差が体験へ出やすい。日本展開では富士通がFM TOWNS版を先行させ、その後イマジニアがJ3100、PC-9801、X68000へ広げていった。さらに海外ではWindows版や各種コンソール版も用意され、特にスーパーファミコン版は独自色の強い別解釈として非常に大きな存在になった。つまり初代『シムシティ』は、一つの決定版だけで語るより、「機種ごとにどの方向へ魅力を伸ばしたか」を見るほうが、作品の全体像をつかみやすいタイトルだったのである。
FM TOWNS版は、同じ初代でもかなり“華やかな別バージョン”として見られやすい
日本のパソコン版の中でも、FM TOWNS版はかなり個性が強い。FM TOWNSというハード自体が、CD-ROMを標準搭載し、AV機能の強化やマウス中心の扱いやすさを前面に出した“遊ぶための高機能機”として設計されていたため、同じ『シムシティ』でも、よりマルチメディア時代らしい華やかさと親和性を持っていた。実際、日本語版『シム シティー』のFM TOWNS版は、他のパソコン版とはかなり異なり、時代が進むと建物が近未来風へ変化したり、リニアモーターカーが登場したり、怪獣がワニへ差し替えられていたりすることで知られている。つまりこれは、単に画面が少しきれいな移植ではなく、TOWNSの個性に合わせて味付けされた“見せる版”だったと考えやすい。初代『シムシティ』の本質は都市の成長を観察することにあるが、FM TOWNS版はそこへ「進化していく未来都市を見る面白さ」を少し強めに足していた印象がある。街が発展したときの見栄えや、ハードの先進性と結びついた雰囲気まで含めて楽しみたいなら、FM TOWNS版は国内PC版の中でもかなり異色の立ち位置にあったといえる。
PC-9801版は、もっとも「日本のパソコンゲーム」として受け止められやすい版だった
PC-9801版の魅力は、派手な独自演出よりも、日本のパソコン文化の中心へ『シムシティ』を持ち込んだことにある。PC-9801シリーズは、もともと業務用途を強く意識して開発され、日本語処理とカラー表示を備えたうえで、国内ビジネス市場に広く浸透した機種だった。そうした背景を持つPC-98で『シムシティ』が遊べるようになったことは、この作品が“海外の珍しい変わり種”から“日本でも定着する本格シミュレーション”へ変わる上でかなり大きかったはずである。ゲームそのものの基本構造は原典に近いが、PC-98という環境で触れると、『シムシティ』はFM TOWNS版のような先端AV感より、もっと落ち着いた都市経営シミュレーションとして受け止められやすい。いわば“仕事機の顔をしたパソコンで、街づくりという知的遊戯を遊ぶ”感覚であり、この作品が日本で「知的で新しいゲーム」と見なされた理由の一端もここにある。派手さではなく普及力、演出差ではなく受容の広さ。PC-9801版は、初代『シムシティ』を日本PCユーザーの標準的な視野へ入れた版として語るのがいちばんしっくりくる。
X68000版は、都市建設ゲームを“ゲーム機的な感覚”へ少し引き寄せていたと考えられる
X68000版は、同じ1990年9月発売でも、PC-9801版とはかなり受け止められ方が違った可能性が高い。というのもX68000自体が、後期1980年代のアーケードゲームに近いグラフィック機能やサウンド機能を持ち、ゲーム用途との結びつきが非常に強い国産パソコンだったからである。マウスポートも標準的に備えており、ゲームが主要用途の一つだったことも知られている。『シムシティ』は見た目こそ地味だが、実際には区画選択や配置、画面内の確認を繰り返すため、マウスとの相性が良い作品である。したがって、ゲーム志向の強いX68000で遊ぶ初代『シムシティ』は、PC-98版よりも“遊ぶためのパソコンで遊ぶ都市建設ゲーム”という感覚が出やすかったと考えられる。もちろん本作はX68000の性能をフルに使って派手なスクロールを見せるタイプではないが、ハードが持つアーケード寄りの雰囲気のおかげで、理屈のゲームでありながら“ちゃんとゲームらしい手触り”で受け入れられた面はあっただろう。移植内容の大幅改変が確認されるFM TOWNS版とは異なり、X68000版の個性は作品内容そのものより、ハード側の文化が与える印象にある。つまりX68000版は、初代『シムシティ』を「知的ソフト」ではなく「面白いゲーム」として愛好しやすい土壌に置いた版だったと言える。
Windows版は“移植”というより、初代を少し現代化した別系統の強化版に近い
Windows系での初代『シムシティ』は、日本の1990年前後のイマジニア版とは少し系譜が違う。Windows 3.0/3.1向け強化版では、新しい音や音楽が付き、浮動ツールバーやブックマーク機能のような、GUI環境を生かした使い勝手の改善も加えられた。さらに「SimCity Classic」として再展開され、Windows 95対応の強化版では256色グラフィックや音声強化が導入されるなど、単にオリジナルをそのまま動かすだけではなく、「マウス中心のGUI時代に合わせて初代を作り直す」方向へ進んでいた。これはかなり重要な違いで、PC-9801版やX68000版が1990年前後の日本PC文化に合わせた横展開だったのに対し、Windows版は“初代『シムシティ』を次世代PC環境で再整理する版”という色合いが強い。見た目や操作性の快適さを取るならWindows系、1990年当時の国内パソコン文化の匂いを重視するならPC-98やX68000、という分け方が分かりやすいだろう。
家庭用ではスーパーファミコン版が、原作を“任天堂流の名作”へ変えた
家庭用ゲーム機版まで視野を広げると、最も存在感が大きいのはやはりスーパーファミコン版である。これは単なる移植ではなく、任天堂が深く関わったことで、初代PC版を土台にしながらかなり独自色の強い作品へ変わっている。具体的には、怪獣がクッパへ置き換えられ、50万人到達でマリオ像が置けるようになり、Dr.ライトというアドバイザー役が登場し、季節変化やご褒美施設、追加シナリオなども盛り込まれた。建物の見え方も日本寄りの感触を帯びていたとされる。PC版が“都市の仕組みを触るゲーム”だったのに対し、スーパーファミコン版はそこへ“親しみやすさ”“ご褒美感”“キャラクター性”を足した版だと考えると分かりやすい。日本ではこの版が大きく普及し、初代『シムシティ』を広く定着させたのはPC版そのものというより、むしろ任天堂版の成功だった面が強い。パソコン版が骨格を作り、スーパーファミコン版が一般層へ橋を架けた、という関係で見ると、この作品の広がり方が非常に分かりやすくなる。
未発売版や派生計画まで含めると、初代『シムシティ』は「移植され続ける価値」があった
機種違いの話を締めくくるうえで面白いのは、正式発売版だけでなく、未発売や計画段階の版まで存在したことである。NES版は発表されながら正式発売には至らず、のちにプロトタイプの存在が確認されている。また、日本ではMSX2版の発売がアナウンスされながら中止になったことも知られている。これらは完成品として市場に並ばなかったが、それでも各メーカーや各ハード陣営が「このゲームを自分たちの環境へ持ち込みたい」と考えていた証拠にはなる。初代『シムシティ』は、派手なアクションや専用コントローラ依存のゲームではなかったぶん、むしろ多様なハードへ合わせて解釈し直しやすかった。FM TOWNSでは未来感を強め、PC-9801では知的なPCゲームとして根づき、X68000ではゲーム色の強いパソコンで受け止められ、WindowsではGUI時代向けの強化版となり、スーパーファミコンでは任天堂流の親しみやすい傑作へ変わった。つまり“どの機種が一番上か”というより、“どの機種版が自分の好みの『シムシティ』か”で語るほうが、この初代には似合っている。原作の核は同じでも、各機種版はそれぞれ違う魅力の光らせ方をしていたのである。
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■ 当時の人気・評判・宣伝など
発売当初は「変わったゲーム」だったのに、すぐに話題作へ変わっていった
『シムシティ』の当時の人気を語るうえでまず重要なのは、この作品が最初から誰にでも分かりやすいヒット作として登場したわけではなかったことである。もともとは1985年ごろから形になっていた企画でありながら、アクションも明確な勝敗も前面に出ない内容だったため、当時の常識では売り物として判断されにくく、商品化までに時間がかかった。つまり発売前の段階では、今でこそ名作扱いされる本作も、業界内でさえ少し異端だったのである。ところが実際に世へ出ると、その異端性が逆に強い武器になった。直感的に遊べるうえ、プレイヤーの決断に応じて都市が変化していく仕組みが非常に新鮮で、すぐに人気を集めた。つまり『シムシティ』は、発売前には理解されにくかったが、発売後はむしろその“今までにない遊び”ゆえに注目を浴びた作品だったのである。これは宣伝のうまさだけではなく、実際に触れた人が面白さを語りたくなるタイプのゲームだったことを示している。
雑誌やメディアの後押しが非常に大きく、口コミ的な熱が広がりやすかった
当時の『シムシティ』は、単に店頭へ並んだから売れたというより、ゲーム雑誌や一般メディアによる“珍しいが面白い作品”としての紹介が人気拡大を後押しした面が大きい。海外ではゲーム専門誌の外まで話題が広がり、日本でも1989年時点で日本製パソコン向けの正式版がなかったにもかかわらず、ゲーム誌編集部のあいだで面白さの評判が高まり、どうにか日本の読者へ紹介したいという熱が先に立っていた。つまり当時の宣伝は、テレビCMや大量出稿の広告だけで押し切るより、「この作品は本当に新しい」という編集者や書き手の熱量がそのまま広報力になったタイプだったのである。作品自体の説明が少し難しいからこそ、雑誌や記事による丁寧な紹介が効いた。その結果、『シムシティ』は単なる新作ソフトではなく、“今までのゲーム観を少し変えるもの”として認識されていった。
評価は非常に高く、発売から短期間で賞を重ねたことで勢いが加速した
当時の人気を裏づける材料として分かりやすいのが、受賞歴の多さである。本作は1989年から1990年にかけて、複数の主要メディアや業界団体から高い評価を受けた。しかもこれらは、単一のジャンル誌だけが持ち上げたのではなく、Mac系、PC系、教育系、業界賞などかなり幅広い文脈から集まっている点が特徴的である。つまり『シムシティ』は、単なる一部マニア向けの話題作ではなく、異なる文化圏のメディアから「これは面白い」「これは新しい」と認められた作品だったのである。賞を取ったから売れたというより、遊んだ人が高く評価し、その結果として賞が重なり、それがさらに人気を押し上げた。この好循環が、『シムシティ』を一過性の珍作で終わらせなかった。
売上面でもしっかり成功しており、「変わり種なのに売れた」ではなく「きちんと大ヒットした」作品だった
『シムシティ』は内容の独創性ばかりが語られがちだが、商業面でも明確に成功した作品である。全体では100万本規模へ到達したとされ、パソコン版だけでなく、その後のスーパーファミコン版も大きく売れた。日本市場との関係では、パソコン版が堅実に支持を集め、その後の家庭用版が一般層へ一気に広げた流れが大きい。少なくとも「斬新だがニッチに終わった作品」ではなく、「斬新さを武器にしながら、しっかり売れた作品」だったことはかなり確かである。この事実は当時の印象として非常に大きい。というのも、非アクション型で、明快な勝敗の薄いソフトでも、工夫次第では大衆的ヒットになり得ることを証明したからである。『シムシティ』の売上は、シリーズ成功の土台であるだけでなく、シミュレーションゲーム全体の市場性を広げた実績でもあった。
日本では「海外の知的ゲーム」が、雑誌と移植を通じて定番へ変わっていった
日本での当時の人気の広がり方もかなり面白い。1989年時点では日本製パソコン向けの正式版がなく、それでも面白さを見抜いた雑誌側が動作方法まで含めて紹介し、読者の関心を高めていた。そうした下地の上で、1990年には富士通からFM TOWNS版、イマジニアからJ3100版、PC-9801版、X68000版が順に登場し、日本語環境でも遊べるようになった。ここで重要なのは、日本での人気が最初から大量広告で爆発したのではなく、まず“知る人ぞ知る面白い海外ソフト”として注目され、その後に正式展開で広がっていったらしい点である。これは当時のパソコンゲーム市場らしい育ち方であり、ゲーム誌の推薦や紹介記事の影響力が非常に強かった時代性とも重なる。さらにその後、スーパーファミコン版が一般層へ届く橋渡しになったことで、『シムシティ』は海外PCゲームの一作から、日本でも名前の通った定番タイトルへ変わっていった。つまり日本における当時の人気は、いきなり全国区になるのではなく、まず雑誌文化とPCユーザー層のあいだで熱を持ち、それが家庭用移植を通じて大きく開いた、と見ると流れが理解しやすい。
宣伝で強かったのは、派手な演出より「今までにない遊び」を言葉で伝えやすかったこと
『シムシティ』の宣伝方法を考えると、アクションゲームのように一瞬の画面映えや敵キャラクターの派手さで押し切るタイプではなかった。むしろ本作は、都市を育てる、税率を動かす、災害へ対処する、そして勝ち負けではなく自分の理想都市を追いかける、という“説明したくなる新しさ”が最大の宣伝材料だった。つまり本作は、テレビゲームを子どもの娯楽と見る層に対しても、「これは少し違う」と示しやすい商品だったのである。都市計画、経済、政治感覚といった言葉が添えやすく、ゲーム雑誌だけでなく一般メディアでも扱いやすかったことは、広告コピーや記事化のしやすさという意味で大きな強みだったはずだ。派手なCMキャラクターより、読み物として紹介されることで価値が伝わる。この宣伝適性は当時かなり珍しく、だからこそ『シムシティ』はソフトそのものの個性と紹介記事の相性が非常によかった。
世間の反応は「こんなものまでゲームになるのか」という驚きと、「なぜかやめられない」という実感が並んでいた
当時の世間の反応をまとめると、本作には二つの感想が強く並んでいたと考えられる。一つは、都市づくりや行政のようなテーマが本当にゲームになるのかという驚きであり、もう一つは、実際に遊ぶと不思議なほど没頭してしまうという実感である。真面目な題材をきちんと面白いゲームにした点が高く評価されていた一方で、子どもだけでなく大人にも訴求し、ブロック遊びや鉄道模型の延長のような感覚で楽しめることも大きかった。ここから見えてくるのは、『シムシティ』が単にゲームファンだけを喜ばせたのではなく、ゲームに詳しくない人にまで「それはちょっと面白そうだ」と思わせる珍しい力を持っていたことである。発売当時の人気度を一言で表すなら、爆発的な流行語的ブームというより、“触れた人から順に評価が固まり、気づけば大ヒット作になっていた”タイプの強さだったといえる。派手な一瞬の話題性ではなく、作品の中身そのものが評判を支えた。この点が、のちにシリーズやシム系作品群へつながる長い人気の原型になったのである。
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■ 総合的なまとめ
『シムシティ』は、都市を題材にしたゲームというより「考える楽しさ」を遊びに変えた作品だった
総合的に見て初代『シムシティ』の価値は、単に古い都市建設ゲームの第一作である、という一言では収まりきらない。この作品が本当に特別だったのは、道路を引き、区画を置き、電力を通し、税率を調整しながら、都市という大きな仕組みがどう育ち、どう崩れ、どう立ち直るかを、プレイヤー自身の判断で体験させたところにある。敵を倒すでもなく、物語の結末を追うでもなく、街そのものの変化を見守ることが面白さになる。この発想は、当時としてはかなり異質でありながら、実際には多くの人を夢中にさせた。考える、配置する、様子を見る、少し直す、また育てる。その循環そのものが気持ちよく、プレイヤーごとに違う理想都市が自然に生まれていく。この“自分の発想がそのまま街の姿になる”感覚こそが、本作をただのシミュレーションではなく、長く記憶に残る箱庭体験へ押し上げた最大の理由だったのである。
粗さや不便さは確かにあるが、それでもなお面白さの核が非常に強い
もちろん、初代『シムシティ』を現代の感覚で見れば、弱点もはっきりしている。説明不足で、最初は何が正解なのか分かりにくい。操作性や視認性にも時代相応の不便さがあり、リアリティの面ではかなり大胆な省略や割り切りが見られる。効率を突き詰めると、現実の都市計画とは少し離れた妙な最適解が見えてしまうこともあるし、災害が理不尽に感じられる場面もある。それでも、本作が今なお高く評価されるのは、それらの欠点を踏まえてもなお、「都市を育てる」という遊びの核が驚くほど強いからである。むしろ洗練されきっていないからこそ、発明の瞬間そのものがむき出しで見えるとも言える。完成度だけで言えば、後のシリーズのほうが上だろう。しかし“都市づくりがゲームとして成立する”ことを最初にこれほど強く実感させたのは、この初代だった。だから本作は、欠点の少ない名作というより、欠点があってもなお夢中になれるだけの芯を持った名作として語られるべきなのである。
日本での展開や各機種版の違いも、この作品の魅力を広げる大きな要素だった
この作品を語るとき、海外での1989年の登場と、日本での1990年以降の展開を分けて考えると全体像が見えやすい。原典はMaxis版として広まり、日本ではFM TOWNS版ののち、イマジニアからJ3100版、PC-9801版、X68000版が発売され、それぞれのパソコン文化の中へ『シムシティ』が根づいていった。さらにWindows系ではGUI時代向けの強化版が現れ、家庭用ではスーパーファミコン版が独自の親しみやすさを加えることで、大衆的な人気を決定づけた。つまり『シムシティ』は、一つの固定された完成品というより、ハードごとに少しずつ違う魅力を見せながら広がっていった作品でもあった。知的なPCゲームとして受け止められた版もあれば、華やかな未来感を強めた版もあり、親しみやすい任天堂流の別解釈として記憶される版もある。この懐の深さは、原作の核がしっかりしていたからこそ可能だった。どの版で触れたかによって思い出の色が違うのも、『シムシティ』というタイトルの面白さの一部である。
後のシリーズや街づくりゲーム全体へ与えた影響は、やはり非常に大きい
『シムシティ』の偉大さは、単体で面白かったことだけでは終わらない。本作は後の『シムシティ2000』以降のシリーズ発展の出発点であり、さらに広く見れば、都市建設ゲーム、経営シミュレーション、箱庭型ゲーム、さらにはプレイヤーが「創造すること」を主な楽しみにする作品群全体へ強い影響を与えた。勝ち負けが薄くても、人は十分に夢中になれる。破壊ではなく創造を中心に置いても、ゲームは成立する。しかもその創造は、ただ自由に置くだけではなく、仕組みが返してくる反応を見ることまで含めて面白くできる。『シムシティ』が示したのは、まさにその可能性だった。だから本作は、シリーズ第一作という意味だけでなく、「ゲームで何を楽しめるか」の幅を広げた作品として、今なお評価され続けているのである。
今あらためて振り返っても、この作品には“都市が生き始める瞬間”の面白さがある
初代『シムシティ』を総合的にまとめるなら、それは「都市を作るゲーム」ではなく、「都市が生き始める瞬間を味わうゲーム」だった、という表現がいちばんしっくりくる。最初は何もない土地に、住宅地と工業地を置き、道路や線路を通し、電力を引き、税率をいじりながら、街が少しずつ形を持ち始める。そこへ公害、犯罪、渋滞、災害といった問題が現れ、ただ大きくするだけでは済まないことに気づかされる。そして試行錯誤の末に、ばらばらだった土地が“ひとつの都市”として呼吸し始めたとき、この作品ならではの喜びが生まれる。その喜びは、グラフィックの豪華さや演出の多さとは少し違う場所にある。だからこそ時代を越えて語られやすいし、後の作品がいくら多機能になっても、この初代にしかない純度がある。『シムシティ』は古典である前に、都市というテーマに夢中になる入口を用意した作品だった。街が成長していく様子を、ただ眺めているだけで楽しい。その単純で強い魅力が、本作を今でも特別な存在にしている。
つまり『シムシティ』とは、ゲームの可能性を一段広げた“原点”である
最後にひとことで言い切るなら、初代『シムシティ』は「都市経営シミュレーションの原点」であると同時に、「ゲームとは何か」を一段広げた原点でもあった。敵を倒さなくてもいい。明確なエンディングがなくてもいい。自分の考えで配置し、その結果を観察し、失敗してもやり直しながら、少しずつ理想へ近づけていく。それだけで、人はこんなにも夢中になれるのだと証明した作品だったのである。日本でもPC各機種や家庭用への展開を通じて長く親しまれ、箱庭ゲームという感覚を広めた役割は非常に大きい。荒削りで、古くて、説明不足なところはある。それでもなお、本作には他では代えにくい魅力がある。都市が数字ではなく、自分の手で育てる世界として感じられるからだ。そういう意味で『シムシティ』は、単なる昔の有名作ではない。今なお「街を作るのって、こんなに面白いのか」と思わせるだけの力を持った、非常に重要な一本なのである。
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