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評価 4.71【発売】:フェアリーテール
【対応パソコン】:PC-9801、MSX2、X68000、FM TOWNS
【発売日】:1992年
【ジャンル】:アドベンチャーゲーム
■ 概要
●作品の立ち位置:90年代前半PC向け“フェアリーテール作品”としての異色さ
『狂った果実』は、フェアリーテール(現F&C系ブランドとして語られることも多い)が1992年5月1日に発売した、PC向けの18禁アドベンチャーゲームです。 いわゆる“美少女ゲーム”の棚に並ぶタイトルではあるものの、中心に据えているのは甘さや恋愛の達成感ではなく、日常がじわじわ崩れていく不穏さと、事件が積み重なるほど逃げ道が狭くなるサスペンス性です。ゲームとしては当時の典型的なコマンド選択式(場面ごとに「調べる」「話す」などを選んで進める)に沿いつつ、読後感をあえて軽くしない設計が“刺さる人には深く残る”タイプの作品として、後年にかけて語られやすくなりました。特に、一本道であること(エンディングが1つで、ルート分岐の収集よりも物語の圧に集中させる作り)も、この作品の体験を“逃げられない読み物”に寄せる要素として働きます。 また、2025年5月30日にBEEPの「美少女ゲーム復刻プロジェクト」枠で復刻版の展開が告知され、X68000 Z向けSDカード版などの形で再び話題に上がりました。 こうした復刻の動きは、単に懐古の需要だけでなく、「当時のPCゲーム特有の語り口」や「古いUIが生む緊張感」を含めて作品性として再評価されている、という見方にもつながります。
●対応機種とメディア:同名タイトルでも“遊びやすさ”が少しずつ違う
対応機種はPC-9801VM以降、MSX2以降、X68000、FM TOWNSという、90年代前半の国産PCゲームの主要どころを横断したラインナップです。 メディアも機種で異なり、PC-98・X68000・MSX系はフロッピーディスク、FM TOWNS版はCD-ROMが基本。 ここは地味に重要で、当時の遊び心地は“ロード時間”や“メディア交換の手間”が没入感に影響することが多く、同じシナリオでも体感テンポが変わります。加えて、公式カタログでは機種ごとのメディア形態(例:MSX2/2+/turboRでの要件など)に触れられており、当時のハード事情を背負ったタイトルであることが分かります。 画面まわりの仕様としては640×400・16色相当の表示など、当時のPC-98文化圏の“読み物ADVの標準的な手触り”を想像しやすい情報も整理されています。 いまの目で見ると素朴でも、限られた色数や解像度だからこそ、見せ方の工夫が際立ち、画面の静けさが逆に不穏さを増幅させることがあります。
●ゲーム形式:コマンド総当たり型の一本道ADVが生む“窒息感”
システムは、いわば古典的なコマンド選択式のADVです。場面に応じて「調べる」「移動する」「会話する」といった行動を選び、必要な情報やフラグを揃えて先へ進みます。 近年の作品のように親切な自動ログ整理や、快適なスキップ・オートが標準で用意されているタイプではなく、当時の設計思想に寄った“手作業の進行”が中心になります(メッセージスキップやオートモードが無い旨などが整理されています)。 この不便さは単なる古さではなく、作品の空気と噛み合うときに独特の緊張へ変わります。つまり、情報を集める行為が「次の出来事を呼び込んでしまう」感覚につながりやすく、クリック一つが軽い探索ではなく“踏み込む行為”に感じられる。分岐の多さで遊ばせるのではなく、一本道で“逃げ場のない気配”を濃くする方向に舵を切っている点が、本作の核です。
●物語の導入:華やかな入口から、事件が生活圏へ侵食していく
導入は比較的わかりやすく、主人公は私立の美術大学に通う若者として描かれ、恩師の関係する集まり(パーティーのような社交の場)をきっかけに、周囲で奇妙な出来事が連鎖し始めます。 はじめは“よくある大人の世界”に見える距離感が、少しずつ崩れていくのが肝で、日常側の人間関係(恋人、友人、大学、恩師)と、非日常側の事件が同じ地続きで迫ってくる構成になっています。 このタイプのサスペンスで怖いのは、幽霊や怪物が突然現れることよりも、「いつも通っている場所」「よく知っている人」の解像度が上がるほど、違和感が現実味を帯びてくることです。本作はまさにそこを狙っていて、大学生活や交友関係といった“説明しやすい日常”を足場にしながら、足場そのものを信用できなくしていく。その結果、プレイヤーは物語の謎を追っているつもりで、気づけば“安心の根拠”を削り取られていく、という体験になりやすいのです。
●表現トーン:18禁でも主目的は官能より“心理の冷え”に寄る
レーティングは18禁で、当時のPC向け美少女ゲームとしての文脈はあります。 ただ、一般に想像されがちな「恋愛を積み上げてご褒美としての大団円へ」という設計とは距離があり、むしろ“人が壊れていく過程”“関係が歪む速度”“疑いが疑いを呼ぶ悪循環”といった、心理面の冷たさが印象に残るタイプです。ここが『狂った果実』のタイトル感とも噛み合っていて、甘い果実を想起させる言葉をあえて使いながら、実際には熟しすぎて崩れたもの、触れたら汚れるもの、といったイメージへ寄せていく。 もちろん、当時の作品らしくショッキングな見せ方で知られる側面も語られますが、いま紹介するときは「刺激の強さ」そのものより、なぜその強さが物語体験として機能してしまうのか、という点に注目したほうが理解しやすいです。古いコマンドADVは“読む速度”をプレイヤーに委ねるため、怖い場面を自分の手で進める必要があり、その能動性が心理的な負荷になりやすい。結果として「記憶に残る」方向へ作用します。
●スタッフ面:畑まさしの関与が語られる理由
本作はキャラクターデザイン・原画に畑まさしが関わったと整理されることが多く、復刻版の特典でも描き下ろしが大きく扱われています。 作品の絵柄そのものは時代性を背負いながらも、人物の表情の切り替えや、画面に漂う温度差(華やかな場面のはずなのに落ち着かない、優しいはずの視線がどこか冷たい、といった感覚)で、物語の不穏さを後押しする役割を担います。 また、当時はフルボイスも一般的ではなく、キャラクターボイス無しといった仕様が示されている通り、情報の主軸は文章と静止画です。 だからこそ、ビジュアルの“決め絵”が一度出たときのインパクトが大きく、絵が語る量が作品評価に直結しやすい。そういう意味で、原画・キャラデザの話題が作品紹介の必須項目になりやすいタイトルです。
●セーブや周回:1エンディング・少数セーブが“戻れなさ”を強める
データ面ではセーブ枠が5つ、エンディングは1つという情報が整理されています。 いまの感覚だと控えめですが、これも体験設計の一部と捉えると面白いところです。ルート分岐で全回収する遊びではなく、一本の物語を最後まで“飲み込まされる”方向に寄る。複数の結末で救済を探す余地が少ないぶん、プレイヤーは「どう終わるか」ではなく「どこまで落ちていくのか」を見届ける姿勢になりやすい。 さらに、快適機能が乏しい時代のADVは、同じ場面の再読にも手間がかかります。これは現代的な意味での“遊びやすさ”とは逆ですが、サスペンスの緊張を維持するには、むしろ都合がよい場合もあります。軽々しく検証できないからこそ、推理の確度が上がった瞬間の手応えが強くなる。『狂った果実』は、その古典的な重さを抱えたまま“刺さる構造”へ結びつけた作品として語りやすいのです。
●2025年復刻の意味:保存と再体験のための“現代の窓”
2025年5月30日に発売予定(告知)とされた復刻展開では、X68000 Z向けのSDカード版や、X68000シリーズ向けのフロッピー版といった形で、当時の文化圏を意識した商品設計がなされています。 ここがポイントで、単にWindows移植で遊びやすくするのではなく、“当時っぽく触れる”こと自体が価値として提示されている。 レトロPCゲームは、作品単体だけでなく「遊ぶ手順」「画面の間」「不便さ」まで含めて体験が組み上がっていることが多いので、復刻はアーカイブとしての意味も大きいです。初見の人にとっては“伝説扱いされる理由”を確認する入口になり、当時のユーザーにとっては“記憶の上書き”ではなく“記憶の再接続”として機能する。こうした役割を担える復刻は、90年代PCゲームの文脈をつなぐうえでも重要だと言えます。
■■■■ ゲームの魅力とは?
●「古典的な一本道ADV」だからこそ成立する、逃げ場のない体験
『狂った果実』の魅力を最初に語るなら、豪華なシステムや分岐の豊富さではなく、むしろ“古典的であること”そのものが武器になっている点です。本作はコマンド選択式のアドベンチャーで、基本は画面の状況を見て、必要な行動を選んで先へ進む――このシンプルさで一本の物語を最後まで押し切るタイプです。発売日の情報や、エンディングが1つであること、セーブ枠が限られていることなども含め、遊びの中心は「分岐を回収して最適解を探す」より「物語に巻き込まれていく感覚」を太くする方向へ寄っています。 この形式の強みは、プレイヤーが“進める手”を自分で動かす点にあります。ボタンひとつで物語が勝手に展開していくのではなく、いちいち選択して前に進む。その積み重ねが、気づけば「自分が踏み込んだから状況が悪くなった」という錯覚を生み、サスペンスの重さを増幅させます。分岐が少ないことは一見欠点に見えますが、本作ではそれが“戻れなさ”“引き返せなさ”として作用し、作品の空気と噛み合って独特の圧になります。
●日常の延長線に事件が食い込む導入が、恐さを現実側へ寄せる
本作が厄介(褒め言葉)なのは、出発点が特別な世界ではなく、大学生活や人間関係といった“説明できる日常”であるところです。主人公は美術大学の学生で、恩師のゼミ関係の集まりをきっかけに、身の回りで奇妙な事件が続いていく流れが示されています。 ここで効いてくるのが、派手な超常現象よりも「知っている場所・知っている人」の手触りです。友人、恋人、恩師、家族的な距離感――そうした日常の線がしっかり引かれているからこそ、そこに“説明のつかない歪み”が混ざった瞬間に、怖さがフィクションの外へにじみ出ます。驚かせるための恐怖ではなく、安心が少しずつ目減りしていく恐怖。しかも、その減り方が“事件”として積み上がるので、読み進めるほど呼吸が浅くなるような感覚が出てきます。
●ビジュアルの使い方が「見せない」より「想像させる」に寄っている
90年代前半のPC向けADVらしく、表現は文章と静止画が中心です。公式カタログには画面サイズや色数相当の情報、キャラクターボイス無しといった仕様も整理されており、“読む・見る”に集中する設計であることがわかります。 この時代の画面は、現代のフルHD表現とは別の意味で強いです。情報量が少ないぶん、空白が残る。空白はプレイヤーの想像で埋まる。とくにサスペンスでは「見せないこと」より「見えた断片の意味を考え続けさせること」が効きます。本作は、その断片の置き方が上手く、日常の絵が出るほど、次に来る違和感が刺さる。静止画だからこそ、視線が止まり、感情の逃げ道が狭くなる――この“止まる怖さ”が、当時のコマンドADVらしい魅力になっています。
●畑まさしの絵が、甘さと不穏さの境目を揺らす
『狂った果実』は、キャラクターデザイン・原画に畑まさしが関わった作品として語られ、復刻版の特典でも描き下ろしが大きな目玉になっています。 魅力は単なる“綺麗”“可愛い”で終わらず、表情の温度差が物語の危うさを補強するところにあります。人当たりの良い笑顔が、次の瞬間に信用できなく見える。無邪気に見える仕草が、どこか作為的に思えてくる。そうした揺れが、テキストの不穏さと噛み合ったとき、プレイヤーは「見た目の印象」を頼れなくなっていきます。サスペンスの怖さは、怪物の造形ではなく“人間がわからなくなる”方向に寄ると強くなるので、絵の説得力はそのまま作品の芯になります。
●“操作の不親切さ”が、逆に緊張を切らさない
公式情報として、メッセージスキップやオートモードが無いこと、回想モードが無いことなどが挙げられています。 いまの基準では快適とは言いにくい部分ですが、この不親切さが「軽々しく読み飛ばせない」体験を作ります。読んだ文章は、その場で受け止めるしかない。怖い場面も、勢いで流せない。つまり、プレイヤーが“作品に付き合わされる”割合が高くなり、サスペンスの圧が保たれやすい。 さらにセーブ枠が少ないことも、検証プレイややり直しの気軽さを減らし、結果として“自分が選んだ進行”の重みを増します。 一本道だからこそ、「うまくやれば助かるかも」という期待を抱きにくく、期待が薄いぶん、気配だけで怖い。そういう独特の怖さが、本作の魅力として残ります。
●評価のされ方:ゲーム性より「体験の後味」が語られ続ける
『狂った果実』は、ゲームデザインの巧さやパズル性で名を残したタイプというより、「遊んだあとに何が残るか」で語られてきた作品です。後年、トラウマ級・鬱ゲーとして取り上げられることが多いのも、体験の“後味”が強いからです。 ここで重要なのは、ショック表現の強さだけを売りにしているわけではなく、日常→不穏→破綻の流れを一本道で束ね、プレイヤーを途中で降ろさない構造にしていることです。分岐が多い作品だと、恐い展開も“別ルートの出来事”として距離を取れますが、本作は距離を取るための枝道がほぼない。そのため、読んだ内容がまっすぐ記憶へ沈みやすい。これが「語り継がれる」魅力の正体です。
●復刻で再注目された理由:作品の価値が“当時の手触り込み”で立ち上がる
2025年5月30日発売予定として、BEEPの「美少女ゲーム復刻プロジェクト」からX68000 Z向け(SDカード)やX68000シリーズ向け(フロッピー)で展開が告知されました。 これは単に“遊べるようにする”だけでなく、「当時の体験に近い形で触れ直す」価値を前面に出した動きです。 『狂った果実』の魅力は、ストーリーの話題性だけで成立しているのではなく、コマンドADVのテンポ、画面の静けさ、快適機能の乏しさが生む緊張とセットで成立しています。だから復刻は、作品を保存するだけでなく、作品の空気を再現する意味を持つ。いま改めて触れると、現代の多機能なノベルゲームとは違う“重さ”があり、その重さがむしろ新鮮に映る――そこが、復刻で再注目される大きな理由だと言えます。
■■■■ ゲームの攻略など
●まず押さえるべき前提:コマンドADVは「情報を拾う順番」がそのまま難易度になる
『狂った果実』のような90年代前半のコマンド選択式アドベンチャーは、反射神経よりも“状況整理”が勝負になります。画面に表示される場所・登場人物・会話の温度差・小物の位置といった断片を、プレイヤー側が「意味のある情報」に変換していくタイプなので、攻略の第一歩は“読む姿勢”を整えることです。具体的には、会話文の中で一度だけ出てくる固有名詞(人名、地名、施設名、大学内の区分、事件に関係しそうな物の名称)を見逃さず、頭の中に「関係図の種」を作っておく。コマンドで何かが進むとき、多くの場合は“この単語を知っている状態”や“この場所を先に見ている状態”が条件になるため、理解の浅いまま総当たりを始めると、進んだのか停滞しているのかが判別しづらくなり、疲れやすくなります。逆に、テキストの引っ掛かりをメモしながら進めるだけで、同じコマンド選択でも迷子になりにくく、物語の圧を「面白さ」に変換しやすくなります。
●基本の進め方:一つの場所で「調べる→話す→移動」を徹底して取りこぼしを減らす
当時のコマンドADVで詰まりやすいのは、「必要なフラグが立つ行動を一つだけ踏み忘れている」パターンです。コツは、場所を移る前に“その場でできることを出し切る”ルーティンを作ること。おすすめの順番は、①調べる(部屋・家具・窓・床・机・小物など視界に入るものを一通り)→②話す(登場人物がいれば話題が増えるまで会話を掘る)→③もう一度調べる(会話後に説明が変わる箇所がある想定で軽く再確認)→④移動、です。特に会話は、同じ相手でも情報の段階に応じて内容が変わることが多く、「一回話したから終わり」と決めつけると後で進行条件を落としがちです。総当たりは悪ではありませんが、“機械的に全部押す”ではなく、“意味が変わりそうな順序で押す”と、失敗が減り、納得感のある進行になります。
●セーブの作法:枠が少ない時代は「分岐」より「検証」と「保険」に使う
古いコマンドADVは、いまの作品ほど細かいオートセーブや巻き戻しが用意されていない前提で考えたほうが安全です。セーブ枠が限られる場合、やり方は大きく二系統に分けると安定します。ひとつは“保険セーブ”で、章の区切りになりそうなタイミング、重要人物と会う直前、移動先が変わる直前など「戻りたくなる可能性が高い地点」を残す。もうひとつは“検証セーブ”で、コマンド総当たりが必要になりそうな場面で「ここから試す」という起点を作る。ポイントは、保険セーブを上書きしないことと、検証セーブは短期的に回転させることです。つまり、枠を全部“その場しのぎ”に使うのではなく、最低でも2つは長期保存に回し、残りで試行錯誤を行う。こうすると、手詰まりになっても心理的に折れにくく、作品の重さに飲まれにくいです。
●メモの取り方:ノートは「人物」「出来事」「場所」の3列で書くと推理が崩れない
本作のように人間関係と事件が絡むタイプは、思いつきで推理していると途中で混線しやすいので、メモはフォーマットを固定するのが有効です。おすすめは、(1)人物:誰が何を知っているか/誰が誰とどういう距離か、(2)出来事:起きた順に時系列で箇条書き、(3)場所:そこで見つけた“変な点”だけを書く、の三列です。コマンドADVは、情報が“文章で少しずつ”出てくるぶん、印象だけで覚えると脳内で脚色されます。メモに最低限の事実だけ残すことで、作品の意図(不穏さ・疑い・思い込みの危うさ)を楽しみつつ、プレイヤー側の混乱だけは防げます。とくに「誰が言った情報か」を必ず付けると、後で会話が変化したときに“矛盾が作品の仕掛けなのか、こちらの勘違いなのか”を切り分けやすくなります。
●詰まりポイントの典型:見落としやすいのは「会話後に変わる調査対象」と「移動の順番」
コマンド総当たり型で多い詰まりは、(A)会話をした後に、同じ部屋の同じ対象をもう一度調べる必要がある、(B)移動先が複数あるとき、先に行くべき場所が決まっている、の二種類です。Aは「話を聞いたことで“注目すべきもの”が生まれた」という設計で、プレイヤーが気づけるように文章にヒントが埋め込まれていることが多い。だから、会話中に出た単語が“モノ”や“場所”に紐づく場合は、会話が終わったら一度その周辺を重点的に調べる癖をつけると進行が滑らかになります。Bは、事件の進み方や登場人物の状態が移動順で変わり、結果的に情報が欠けるケースがあるため、迷ったら「いまの目的に近い場所」から行くのが基本です。目的が曖昧なときは、メモを見返して“いま不足している情報”を一つだけ定義し、その情報が得られそうな場所へ行く。この一手間で、ただの総当たりが“意図のある探索”に変わります。
●難易度の捉え方:ゲームオーバーより「心理的負荷」と「読解の圧」が本当の壁
本作を難しく感じさせる最大の要因は、戦闘やパズルではなく、物語の空気と情報の重さがプレイヤーに与える負荷です。暗い展開や疑心暗鬼の会話が続くと、判断力が落ち、普段なら気づけるヒントも見落としやすくなります。攻略の観点では、ここを“気合”で乗り切ろうとしないことが大事です。一定時間プレイしたら休む、メモを整理してから再開する、場面が切り替わる節目でセーブして一呼吸置く――こうした“外側の攻略”が、古いサスペンスADVでは特に効きます。内容が重い作品ほど、集中力が切れたときに操作ミスや読み飛ばしが増え、結果として詰まりやすくなります。ゲームの難しさを「自分の能力不足」と誤解しないで、体験設計に合わせてペース配分するのが、実は最短ルートです。
●楽しみ方の工夫:あえて“推理役”になって遊ぶと、一本道でも手応えが出る
エンディングが一本に寄った作品は、分岐回収のやり込みが薄い代わりに、途中の“読み解き”で遊ぶ余地があります。おすすめは、各章の終わりに「現時点の仮説」を短く書き残すことです。犯人像、動機、事件の共通点、怪しい言動の理由などを、当てようとしすぎず“いまの情報から言えること”だけで構いません。次の章で新情報が出たとき、仮説が崩れる体験そのものが面白さになります。サスペンスの快感は正解よりも、疑いが形を変えながら更新されていく過程にあるので、一本道でも十分に遊べます。さらに、仮説の更新履歴が残ると、終盤に向けて「自分がどこで何を信じたか」が可視化され、作品が狙っている心理的な揺さぶりを、より鮮明に味わえます。
●環境面の攻略:実機・復刻・エミュレーションで「テンポ」と「音量」を整える
対応機種が複数ある作品は、プレイ環境で体感が変わりやすいです。ロードのテンポ、キー入力の癖、音源の鳴り方、画面の滲み具合など、些細な違いが“怖さの質”に影響します。攻略的には、(1)文字が読みやすい表示にする、(2)音量を小さすぎず大きすぎずに固定する、(3)操作遅延が少ない入力方式にする、の三点を押さえると安定します。とくにコマンドADVは、迷ったときに「同じ操作を繰り返す」場面が出やすいので、入力が気持ちよく通るだけでストレスが減ります。ストレスが減ると、文章のニュアンスを丁寧に拾えるようになり、結果として詰まりにくくなります。ホラーやサスペンスは“雰囲気”が重要ですが、雰囲気に飲まれて操作が雑になると損をするので、環境を整えること自体が攻略の一部になります。
●裏技・小技の考え方:無理に探すより「自分用のルール」を作る方が強い
当時のPCゲームには、機種依存のショートカットや、仕様としての挙動(特定のキーでメッセージ速度が変わる等)が存在する場合もありますが、タイトルごとに事情が違い、むやみに試すと逆にテンポが崩れます。ここでは“裏技探し”より“プレイ効率の小技”を自分で作るのがおすすめです。たとえば「新しい場所に入ったら必ず調べるを先に」「会話で固有名詞が出たらメモ」「怪しい対象は会話後に再調査」「30分ごとに保険セーブ」といった、再現性のあるルールを固定する。こうした習慣は、作品が重くなる終盤ほど効いてきます。結果として、攻略情報が手元になくても、自力で最後まで走り切れる確率が上がりますし、サスペンスの“自分で追い詰めていく感じ”が強くなって、体験としても濃くなります。
■■■■ 感想や評判
●語られ方の前提:この作品は「面白かった」より「残ってしまった」で評価が組み上がる
『狂った果実』の評判を追うと、一般的なADVのように「シナリオが良い/悪い」「ヒロインが可愛い」「推理が気持ちいい」といった単純な軸だけでは語り切れないことがすぐに分かります。そもそも本作は、オーソドックスなコマンド選択式の一本道ADVでありながら、救いの少ない展開やショッキングな方向性で記憶に残る、と整理されがちなタイトルです。 つまり“楽しいから薦める”というより、“強烈だから忘れられない”という形で話題に上がり続けるタイプ。感想も「怖かった」「気分が沈んだ」「もう一度は無理」という言葉と、逆に「だからこそ唯一無二」「当時のPCゲームの狂気が凝縮されている」という言葉が同居しやすい、両極端の磁場を持っています。 そして、ここが重要ですが――評判の中心にあるのは“刺激の強さ自慢”というより、「一本道で最後まで連れていかれる構造」「古いUIの不親切さが緊張を切らさない」「日常が壊れていく速度が早すぎない」といった、体験設計そのものに対する評価です。だから感想はネタバレを含みやすく、語る人ほど「詳しく言えないけど…」という距離感になりがちで、その“語りにくさ”自体が作品の評判を濃くしています。
●当時の受け止められ方:サスペンスAVGの皮をかぶった「読後感の重い体験」として
発売は1992年で、当時のPC向け成人ADVが多様化していく時期に位置します。 この頃のユーザーは、恋愛中心の作品にも、コメディ寄りの作品にも、ハードボイルド寄りの作品にも触れられる一方で、「ここまで後味を残す方向へ振り切った作品」はまだ珍しさを持っていました。結果として、プレイ直後の感想は“面白い・つまらない”より先に、驚きや戸惑いが来やすい。 ただし、その戸惑いは拒否反応だけではありません。「ゲームとしては古典的なのに、気分だけは現実側へ引っ張られる」「画面が静かなほど怖い」という感想が生まれやすく、後年の“語り継がれ方”の土台になりました。要するに、発売当時からすでに「この手触りは普通じゃない」と感じさせる何かがあり、それが長期的に評判を持ち上げた、というタイプです。
●後年の定番イメージ:「トラウマ」「鬱ゲー」「元祖級」というラベルが独り歩きしやすい
現在のネット上では、本作は“トラウマ級”“鬱ゲー”として紹介されることが多く、百科事典的にも「救いのないシナリオ」「凄惨さで注目された」といったまとめ方がされています。 さらに“元祖ヤンデレ”的に語られることもあり、刺激の強さを示すラベルが先に伝わりやすい。 ただ、このラベルは便利な反面、作品の実像をやや平板にしてしまうことがあります。実際には、怖さの種類が「脅かし」ではなく「疑いが増殖すること」だったり、派手な演出より「会話と状況の噛み合わなさ」によって追い詰めるタイプだったりして、体験はもっとじっとりしています。だから評判を正確に読むなら、“強い言葉”の奥にある「どう強いのか」を分解するのがコツになります。
●メディアでの扱われ方:復刻ニュースを機に「伝説の理由」を再説明する流れが加速
2024年12月末にBEEPの復刻プロジェクトとして『狂った果実』復刻が報じられ、主要ゲームメディアでも「伝説的」「トラウマ必至」といった枕詞とともに紹介されました。 こうした記事では、原作が1992年の成人向けADVであること、導入(美術大学の学生が恩師のパーティーを境に事件へ巻き込まれること)などが簡潔に説明され、“知らない人にも伝わる物語の入口”が整え直されています。 面白いのは、この復刻報道が単なる再販ニュースに留まらず、「なぜこの作品が語られ続けたのか」を毎回説明する構造になっている点です。つまり、評判そのものが“背景込みで伝承されるタイプ”になっている。復刻がきっかけで初めて名前を知る層が増え、同時に古参が「当時の文脈」「体験の質」を語り直す――この循環が、評判をさらに強化しています。
●配信・動画界隈での話題:UIや演出が“参照元”として語られる特殊さ
本作は、内容の重さだけでなく“見た目の記号”が語られることでも知られています。復刻ニュースの文脈では、動画文化の中で有名な画面構成(いわゆるbiim系のUI)との関連が話題として触れられることがあります。 ここが他の鬱ゲーと違うところで、単に怖かった・重かっただけなら、時代が進むほど埋もれやすい。でも『狂った果実』は「見たことがある画面」「引用される形式」として別ルートの知名度も得ており、評判の入口が一つではありません。 その結果、「名前は知っていたけど遊んだことはない」という層が増えやすく、復刻時に“履修”としての需要が生まれやすい。評判が体験談だけで回らず、文化的な参照元としても回る――これが、長く話題が途切れにくい理由のひとつです。
●ユーザーの感想の傾向:短い言葉に凝縮される(=語るほどネタバレになる)
一般の感想を見ても、詳細なレビューより、短文での強い評価が目立ちやすいです。たとえば「史上最凶」「元祖級」といったタグ的な言い方、あるいは「覚悟が必要」「精神的に来る」といった注意喚起が先に立つ。 これは作品が“内容を説明すると核心に触れやすい”構造だからで、感想がどうしても抽象語に寄る。 ただし、抽象語の裏側には共通点があります。それは「読ませ方が容赦ない」「逃げ道が少ない」「読後感が軽くない」という三点です。逆に言えば、この三点が苦手でなければ、評判の強さは“納得できる種類”として体験できる可能性が高い、ということでもあります。
●評価が割れるポイント:怖さの“質”が合うかどうかで、満足度が真逆になる
賛否が分かれやすいのは、主に次のような点です。 ・賛側:一本道ゆえの圧、古いコマンドADVの重さ、日常が壊れていく過程の冷たさを「唯一無二」と感じる。作品の目的が“快感”ではなく“体験の刻印”にあると理解できる人ほど評価が上がる。 ・否側:コマンド総当たりの古さ、快適機能の乏しさ、暗い後味に対して「娯楽としてしんどい」「遊ぶ動機を保ちにくい」と感じる。評判で期待した“面白さ”の種類と違うと、落差が出る。 要するに、評判は作品の“強さ”を保証しても、“気持ちよさ”を保証するわけではありません。だからこそ、いま遊ぶ人の感想は二極化しやすい。とはいえ、二極化する作品ほど「語り継がれる燃料」を持つのも事実で、まさに『狂った果実』はその典型として扱われ続けています。
●復刻発表後の空気:怖いもの見たさと、保存価値への評価が同時に上がった
復刻の報道以降、反応は大きく二種類に分かれました。ひとつは「ついに来た」「伝説を確認したい」という“履修”の熱。もうひとつは「こういうPCゲーム史の重要作が、現代に触れられる形で残るのは大きい」という保存・アーカイブの視点です。BEEP側の商品ページでも、発売日(2025年5月30日)や媒体(SDカード)などが明確に示され、当時の文化圏を意識した復刻であることが伝わります。 結果として、評判は“怖い伝説”としての伸び方だけでなく、“レトロPCゲームの重要タイトル”としての伸び方も得ました。これはかなり強い状態で、ホラー・鬱ゲーの評判が一過性で終わりがちな中、本作は「文化として残す理由」までセットで語られる局面に入っています。
■■■■ 良かったところ
●良さの核は「気持ちよさ」ではなく「強度」――体験が薄まらない作り
『狂った果実』の“良かった”は、爽快さや達成感のような明るい快楽に寄りにくい一方で、「一本の作品としての強度が高い」という褒め方に集約されやすいです。一本道ADVであること、古典的なコマンド選択式であること、快適機能が少ないこと――これらは普通なら古さとして弱点になりがちですが、本作では逆に“薄まらなさ”を生みます。途中で気を抜いて流すことが難しく、物語の温度をプレイヤー側が勝手に下げにくい。結果として、プレイ体験が「軽く消費されない」方向へ固まります。これは好き嫌いが出る性質でもありますが、刺さる人にとっては「こういう作品は他にない」と言える長所になります。
●一本道だからこそ成立する「追い詰められ感」――分岐が少ない利点
分岐が豊富なADVは、遊びとしての自由度が高い反面、恐さや重さが“別ルートの出来事”として薄まることがあります。『狂った果実』はそこを逆手に取り、一本道寄りにすることで“逃げ道のなさ”を演出として機能させます。つまり、プレイヤーは「別の選択肢で救えるかも」という期待を抱きにくく、出来事を見届ける姿勢になりやすい。これがサスペンスの圧と噛み合うと、読み進めるほど視界が狭くなるような感覚が出ます。嫌なものを直視させられるのに手が止まらない――この矛盾した引力が、良い意味での中毒性になります。
●日常の描き方が効いている:大学・恋人・友人関係が“崩れる土台”として強い
本作がただショッキングなだけではなく、長く語られやすい理由の一つが「日常の線がちゃんと引かれている」ことです。主人公の所属(美術大学)、恩師の存在、恋人や友人との距離感――こうした現実味のある要素があるからこそ、事件が“異世界の出来事”にならず、生活圏へ侵食してくる気味悪さが際立ちます。ホラーやサスペンスで一番強い恐怖は、派手な怪異より「いつもの景色が信用できなくなること」なので、日常パートがちゃんとしている作品ほど、破綻の瞬間が刺さります。本作はそこが丁寧で、序盤の静けさが後半の重さを増す構造になっています。
●テキストの圧と間:古いADV特有の“読まされる”テンポが、緊張を維持する
メッセージスキップやオートが無い、回想機能が無い、といった仕様は、いまの感覚だと不便に映ります。しかし、サスペンスとして見ると、これが「勝手にテンポを緩められない」仕組みとして作用します。文章を読む速度を上げて怖い箇所を飛ばす、都合の良い部分だけ拾って理解した気になる、という逃げ方がしにくい。結果として、作品が求めるテンポにプレイヤーが合わせることになり、緊張の糸が切れにくい。 さらに、静止画と文章が主役の時代のADVは、画面に“間”が残りやすく、間があるほど想像が膨らみます。本作の良さは、その間がただの空白ではなく、疑いと不安が増殖するスペースになっている点です。
●ビジュアルの記憶力:一枚絵の重みが大きく、決定的な場面が脳に残る
フルアニメや演出過多の作品と比べると、静止画中心の古いADVは地味に見えますが、逆に“一枚の絵”が記号として刻まれやすい利点があります。出てくる頻度が限られるからこそ、ここぞという場面で出たビジュアルの重みが増す。『狂った果実』は、そうした「一度見たら忘れにくい」類の絵が体験の節目に置かれていることで、プレイ後にシーン単位で思い出しやすい作品になっています。 また、キャラクターデザイン・原画の関与が語られるタイトルであること自体が、ビジュアル面の印象の強さを裏付けています。絵柄は時代性を帯びていても、“表情の温度差”や“静かな画面での不穏さ”が作品の芯と噛み合い、単なる懐古ではなく「作品として成立している」と感じさせる力があります。
●人間関係のいやらしさ:善悪より「ズレ」と「弱さ」で崩れていくのが上手い
本作の良いところとして挙げられやすいのが、人物の描き方が“わかりやすい悪役”だけに寄っていない点です。どの人物も、善人・悪人というラベルより、「欲」「嫉妬」「見栄」「依存」「恐怖」などの弱さを抱えていて、それがズレた噛み合い方をすると破滅へ繋がる。ここがサスペンスとして強い。誰か一人の狂気だけで説明できないぶん、プレイヤーは「次に壊れるのはどこか」を読めず、疑いが止まらなくなります。人間の生々しさがあると、怖さはフィクションの外へ滲みやすいので、その意味でも“良さ”になっています。
●推理の楽しさが「正解当て」ではなく「疑いの更新」にある
推理ゲームというと、論理的に矛盾を潰して犯人を当てる快感が中心になりがちですが、『狂った果実』の良さはそこだけに収まりません。むしろ「疑っていた相手が違う顔を見せる」「信じていた情報が揺らぐ」「安全だと思った場所が不穏に見える」といった、疑いの更新そのものが遊びになります。一本道でも満足度が出るのはこのためで、プレイヤーは正解を当てるというより、状況の見え方が変わっていく過程を味わう。サスペンスとしての充実度はここで決まりやすいので、“良かった”の中身も「推理が解けた」より「視界が変わっていった」が多くなります。
●90年代PCゲーム史としての価値:復刻が示す「残すに値する」存在感
近年の復刻プロジェクトで再び扱われたこと自体が、本作が単なる話題作ではなく“歴史的な参照点”として見られている証でもあります。復刻は、名作だから行われるというより、「語り継がれ方が途切れない」「当時の文脈を説明しやすい」「体験として固有である」といった条件が揃った作品が選ばれやすい。本作はまさにその条件に当てはまり、怖さ・後味・古いUIの手触りまで含めて“当時のPCゲームの一面”を代表できるタイトルとして価値があります。 つまり良かったところは、個人の趣味嗜好だけに閉じず、「90年代前半の国産PCゲームが持っていた表現の幅」を示す標本としての強さにも繋がっています。遊んだ人が口をそろえて「忘れられない」と言いがちなのは、その強さが単なる刺激ではなく、体験としての形を持っているからです。
■■■■ 悪かったところ
●最大の壁は“快適性の低さ”:現代基準だと不親切に感じやすい
『狂った果実』の「悪かったところ」として、まず多くの人が挙げやすいのは、いわゆる“現代的な遊びやすさ”が整っていない点です。コマンド選択式ADV自体が古典的な形式であるうえ、仕様としてメッセージスキップやオートモード、回想モードが無いことが整理されています。 この手の機能が当たり前になった現在では、テンポが合わない人ほどストレスになりやすく、「重い展開を読み飛ばせない」ことが作品の長所である一方、苦手な人には“逃げられない苦しさ”として直撃します。 また、読み返し機能が乏しいと、ちょっとした読み落としがそのまま詰まりに直結しやすい。作品の圧に飲まれて集中力が落ちたときほど、この不親切さは欠点として浮かび上がります。
●コマンド総当たりの古さ:詰まり方が“納得”ではなく“作業”になる瞬間がある
コマンドADVの宿命として、「必要なフラグを立てるために、決められた行動を踏む」場面があります。作品側がヒントを出していても、プレイヤーがその一文を見逃したり、解釈がズレたりすると、進行は一気に“総当たりの作業”に変わります。ここが悪いところとして出やすい。 本作はサスペンスとしての圧が強いぶん、プレイヤーの心理が焦りやすく、焦りは読み飛ばしを生み、読み飛ばしは総当たりを増やします。つまり作品の強度が高いほど、逆に“詰まりやすさ”も増幅される可能性がある。緊張感と引き換えに、進行が停滞したときのダレが目立つ、という意味で弱点にもなります。
●重さが強すぎる:娯楽として“気持ちよく終われない”人が必ず出る
評判の軸でも触れられがちですが、本作は救いの少なさや後味の重さで語られやすいタイトルです。 ここは長所と表裏で、刺さる人には唯一無二でも、合わない人には「しんどいだけ」「楽しさが見つからない」と感じられます。 特に、ゲームに求めるのが“カタルシス”や“達成感”の人だと、本作の魅力がそもそも噛み合わない可能性があります。終盤へ進むほど気分の落ち込みが強くなるタイプの作品に対して、プレイヤー側が耐性や目的意識を持っていないと、途中で手が止まりやすい。悪いところというより“適性が狭い”のですが、娯楽として広く勧めにくい点は明確な欠点と言えます。
●ショック表現の受け止め方が割れる:強さが“説得力”にも“拒否感”にもなる
本作はショッキングな方向性で知られやすく、後年の紹介でもその点が強調されがちです。 ただ、強い表現は、物語のテーマや人物の狂いを伝えるための“説得力”になる一方、プレイヤーによっては「そこまで見せなくていい」「嫌悪感が勝つ」と感じられます。 ここが難しいのは、感想が分かれるだけでなく、プレイ中の精神状態で評価が変わりやすいことです。体調が良いときは“演出として受け止められる”のに、疲れているときは“ただの負荷”になる。そういう意味で、評価の安定しない欠点を抱えやすい作品でもあります。
●キャラクターへの共感が難しい:好き嫌いではなく“距離の取れなさ”が問題になる
サスペンス作品では、人物の弱さや欲が描かれるほどリアルになりますが、本作の場合、そのリアルさが共感ではなく“居心地の悪さ”として働くことがあります。つまり、キャラクターが嫌いというより、「気持ちを預ける相手がいない」状態が続く。恋人・友人・恩師といった関係が描かれていても、状況が進むほど信頼が揺らぎ、誰の言葉も信用できなくなる。 この設計は作品の狙いとしては強いのですが、ゲーム体験としては“精神的な拠り所”が薄く、プレイヤーが孤立感を抱えやすい。物語に没入するほど疲れる、という反応が出やすい点は欠点になり得ます。
●セーブや検証の自由度が低い:枠の少なさが“やり直し”を面倒にする
セーブ枠が5つと整理されているように、古いPCゲームらしく保存の自由度は高くありません。 一本道寄りとはいえ、詰まりやすい場面や、見落としが原因で戻りたくなる場面が出たときに、手元のセーブ運用が悪いと復帰が面倒になります。 現代のゲームで当たり前の「いつでも戻れる安心」が無いぶん、プレイヤーは慎重になり、慎重さはテンポを鈍らせます。テンポが鈍ると恐さが薄まるというより、“疲れ”が増える方向に出やすく、ここも悪かったところとして挙がりがちです。
●機種差・環境差のハードル:遊ぶまでの手間が作品の評価に影響しやすい
PC-98、MSX2、X68000、FM TOWNSと対応機種が多いのは魅力ですが、裏返すと「どの環境で遊ぶか」によって体感が変わり、環境構築の手間が評価に混ざりやすい、という弱点にもなります。ロードや入力、画面の見やすさ、音量バランスなど、作品そのものではない部分で疲れると、内容が重い作品ほど“嫌な記憶”として結びつきやすい。 復刻で触れやすくなったとはいえ、元々がレトロPC文化圏の作品である以上、環境の相性問題は完全には消えません。作品評価に“遊ぶまでのしんどさ”が混ざりやすいのは、今でも欠点として残ります。
●「名作」と言い切りづらい種類の作品:勧めるときに前置きが必要になる
最後に、これも悪かったところとして挙げられやすい点ですが――本作は「誰にでも勧められる名作」ではありません。評判の強さは本物でも、その強さは“覚悟がいる”強さです。 だから紹介するとき、どうしても前置きが必要になります。「重い」「暗い」「気分が沈む可能性がある」「快適機能が少ない」など、注意点が先に並ぶ。前置きが多い作品は、それだけで間口が狭くなるので、広く支持を集めるタイプの作品になりにくい。ここは作品の個性でもありますが、一般的な意味での“悪かったところ”としては、かなり大きな要素です。
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■ 好きなキャラクター
●この章の前提:好き=好感ではなく「強く印象に残る」「目が離せない」も含めて語る
『狂った果実』は、キャラクターを“推し”として愛でるタイプの作品というより、人物の存在感が物語の重さと直結し、「好き」という言葉が必ずしも“可愛い・優しい”だけを意味しないタイトルです。だからこの章では、プレイヤーが好感を抱きやすい人物だけでなく、怖い・苦手・信用できないのに目が離せない人物も含めて、「印象が濃かった」「物語を動かした」という軸で“好き”を整理します。サスペンスでは、好きな人物がいるから読むというより、人物の輪郭が強いから物語が成立するので、その輪郭の強さを評価として語りやすいです。
●狩野 哲:主人公としての“弱さ”が、物語を現実側へ引き寄せる
主人公の哲は、いわゆる正義感の強い探偵役というより、「巻き込まれながら判断を誤る可能性がある人」として描かれやすいタイプです。恋人がいながら誘惑に流されやすい、空気に引っ張られやすい、といった性格付けが語られることも多く、完璧な人物ではありません。だからこそ好きになる、という層がいます。 なぜなら、サスペンスで一番怖いのは“有能な主人公が全部整理してくれる安心”がないことだからです。哲は、事件の渦中にいながらも人間らしく揺れ、視点そのものが危うい。プレイヤーは彼の視点で世界を見つつ、彼を完全には信用できない。この二重構造が、物語の緊張を最後まで保ちます。好きというより、主人公として「この危うさが作品に必要だった」と感じさせる存在です。
●高瀬 成子:数少ない“現実感のある支え”として、喪失の重さを作る
成子は、主人公の恋人として、単なる添え物ではなく“現実側の基準点”になりやすい人物です。しっかり者で頭も回り、主人公の欠点を理解したうえで支えようとする――この安定感があるから、物語の異常さが際立ちます。 サスペンスでは、誰か一人でも「この人だけは味方」と思える存在がいると、読者(プレイヤー)は感情の拠り所を得ます。その拠り所が揺らいだり、奪われたりするときに、作品の冷たさは一気に深くなる。成子は、そうした“温度差の基準”として機能し、彼女の存在があるからこそ、事件の世界がただのフィクションではなく、生活の破綻として感じられます。好きなキャラクターというより、作品の体験を成立させる要石です。
●月島 美夏:無邪気さと異常性の距離が近く、サスペンスの核心を担う存在
美夏は「儚げな雰囲気」「年齢相応の無邪気さ」といった外側の印象をまといながら、その内側に理解しがたい温度を抱えている――そういう二面性で語られやすい人物です。こうしたキャラクターは、好感で好きになるというより、「怖いのに見続けてしまう」類の好きになりやすい。 しかも彼女は、作品における“違和感の源泉”のひとつとして配置され、会話の端々や行動の些細な選択が、じわじわ疑いを増やします。サスペンスにおける恐怖は、怪物よりも“人間の理解不能さ”が強いので、その理解不能さを体現する存在として、美夏は強烈です。プレイヤーによっては苦手になる一方、「このキャラがいるから作品が伝説になる」と言いたくなるほど、印象の中心に残ります。
●月島 秋美:嫌われ役なのに“作品の空気”を一気に濃くする火種
秋美は傲慢で攻撃的、余所者を見下す、といった、いわゆる嫌われやすい属性を強く持つ人物として語られがちです。ただ、こういう人物はサスペンスでは重要で、彼女の言動があるから場の空気が一瞬で悪くなるし、関係性の歪みが可視化されます。 嫌われ役が薄い作品は、事件が起きても“人間の毒”が伝わらず、怖さが抽象化しがちです。秋美はそこを具体化する存在で、彼女がいるだけで「この家はまともじゃない」「ここで何かが起きる」と感じさせる。好きというより、観客として「もっと出てほしい」と思うタイプのキャラクターで、悪意や傲慢が物語の燃料として機能している点が評価されます。
●兵頭 真紀:日常側の優しさが“壊れるとき”に効く、短い光としての存在
真紀は比較的気さくで、主人公と同年代として距離が近くなりやすいタイプの人物として扱われます。こういうキャラクターは、重い作品の中で“呼吸できる場面”を作りやすい。だからこそ印象に残る。 サスペンスでは、最初から全員が怪しいと、プレイヤーは疲れてしまいます。どこかに自然体の人物がいると、世界が一度落ち着く。落ち着いた直後に不穏が来ると、その落差で心が揺れる。真紀はその落差装置としても機能し、作品の中で“短い光”として残りやすいです。好きなキャラとして挙げる人がいるのは、彼女が作品の重さを調整する役割を担っているからです。
●鵜野森 圭子:過去の関係が持つ毒を濃くする、“大人の距離感”の象徴
圭子は元恋人という立場で、主人公との距離感が現在進行形の恋愛とは違う角度で刺さります。元恋人が出てくると、過去の失敗や未練が物語に混ざり、事件とは別の“心理の泥”が生まれる。サスペンスにおいては、この泥がリアリティを増やします。 彼女は小悪魔的と言われることもあり、甘い空気と危うい空気を同じシーンに同居させやすい。好きなキャラクターとして挙げる人は、彼女の“濃い大人っぽさ”ではなく、「人間関係がきれいに終わらない感じ」を作品に持ち込む役割を評価していることが多いです。
●月島 龍像:権威と父性が崩れるときの怖さを背負う、物語の重心
教授であり家の主でもある龍像は、社会的な権威と家庭内の父性を同時に背負う存在として、物語の重心になりやすい人物です。こういう人物が不安定になると、世界の“上側”が崩れる感覚が生まれます。若者同士の揉め事より、さらに大きな構造が壊れていく怖さが出る。 サスペンスの怖さは、犯人の正体だけでなく、「信じていた秩序が崩れること」にもあります。龍像はその秩序の象徴なので、彼の存在があるからこそ、事件が単発の悲劇ではなく、社会や家庭の形そのものの破綻として感じられる。好きなキャラクターとして挙げるのは渋いですが、作品全体の怖さを成立させる“重力”として、強烈に印象を残します。
●好きなキャラが分かれやすい理由:この作品では「感情の置き場所」が人によって違う
『狂った果実』は、安心できる人物が少ないぶん、プレイヤーが感情を置く場所が人によって変わります。主人公の危うさに共鳴する人もいれば、恋人の現実感に救われる人もいる。怖さの中心にいる存在を“好き”として記憶する人もいれば、日常側の光を“好き”として握りしめる人もいる。 だからこの章は、ランキングのように一律の答えを出すより、「どこに心が反応したか」を整理するほうが価値があります。あなたがもし初見で遊ぶなら、途中で「いま一番信用したいのは誰か」「いま一番目が離せないのは誰か」を自分に問いながら進めると、“好き”の意味が変化していく過程そのものも含めて、この作品を深く味わえるはずです。
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●対応パソコンによる違いなど
●まず結論:大筋は同じでも「画面の見え方」「音の鳴り方」「テンポ」が体感を変える
『狂った果実』はPC-9801、MSX2、X68000、FM TOWNSと複数機種に展開された作品として整理されており、物語や基本システム(コマンド選択式の一本道ADV)は共通の骨格として捉えられます。 ただし、当時のPCゲームは「同じタイトル=同じ体験」とは限りません。機種ごとに得意な解像度・色数・音源・メディア形態が違い、さらに実機環境だとロード速度や入力感覚まで変わるため、プレイした印象が“同じ話を読んだのに受け取り方が違う”という形で分岐しやすいです。とくに本作のように空気感(不穏さ・緊張の持続)が価値の中心にあるタイトルほど、この差がそのまま作品の印象に直結します。
●PC-9801版:この作品の「標準体験」になりやすい、文章と画面のバランス
PC-98は当時の国産PCゲームの主戦場で、ADVの“見せ方の文法”がもっとも整っていたプラットフォームです。カタログ等で整理される画面仕様(例:640×400相当、16色相当の表示など)も、まさにこの文化圏の標準的な作りを想像しやすい情報です。 この版の強みは、派手さより「読みやすさ」と「画面の落ち着き」にあります。文字の可読性が高い環境で読ませるADVは、会話のニュアンスや違和感の差分が拾いやすく、疑いが積み上がるサスペンスに向いています。一方で、ロードやディスク入れ替えがプレイテンポへ影響しやすく、集中しているときは雰囲気の一部になりますが、疲れているときはストレスにもなりがちです。言い換えると、PC-98版は“この作品の基本形”としての納得感が強い反面、当時らしい手間もセットで背負うタイプです。
●MSX2版:解像度・表示の制約が「読み物」としての圧を変える
MSX2は同じ国産PCでも、PC-98とは思想が違い、画面設計や色の出し方、表示領域の感覚が変わります。資料でもMSX2以降(2+、turboR含む)での対応が整理され、同一タイトルとして並んでいます。 体感としての違いは、まず“画面の情報密度”です。文字の見え方、背景や立ち絵の見せ方が変わると、同じ文章でも受ける印象が変わります。本作は「静けさ」「間」が怖さに効くタイプなので、MSX2特有の表示の素朴さが逆に“余白”として働き、じっとりした不安を強めることがあります。反面、画面の切り替えやロードが気になりやすい環境だと、緊張の連続が途切れてしまい、「怖さ」より「操作の引っ掛かり」が先に立つこともあります。 また、MSX2はユーザー側の周辺機器・環境差(モニタ、音の出力、ディスクドライブの状態など)が印象へ乗りやすい土壌があるので、同じMSX2版でも「記憶の色」が人によって違う、というズレが起きやすいです。
●X68000版:輪郭の鋭さと“画面の美しさ”が、不穏さを別の方向で強化する
X68000は“見た目が強い”機種として語られがちで、画面のキレや色表現の印象がプレイヤー体験を押し上げます。資料でもX68000対応が明確に整理され、復刻版でもX68000シリーズ向け(フロッピー)やX68000 Z向け(SDカード)といった形で現代に接続される扱いがされています。 この版の面白いところは、画面が整うほど「嫌なものが嫌なものとして届く」点です。曖昧さで怖がらせるというより、輪郭が見えるから不安になる。たとえば、表情の差分や背景の空気がはっきりすることで、会話の温度差がより刺さる可能性があります。本作は“安心が削れる”タイプの恐怖なので、ビジュアルの説得力が上がるほど、安心の根拠が壊れたときの落差が強くなる。 一方で、画面が美しいと「作品として鑑賞できる距離」が生まれてしまい、PC-98版のような生々しさ(画面の素朴さゆえの現実味)が薄れる、と感じる人もいます。怖さが減るというより、“怖さの質が変わる”。X68000版はそこが最大の個性です。
●FM TOWNS版:CD-ROMの利点が「テンポ」と「演出のまとまり」を変える
FM TOWNS版はCD-ROM媒体で提供される形が整理されており、フロッピー中心の版とはプレイのテンポが変わりやすいです。 当時のCD-ROMは、場面切り替えの待ちが減ったり、素材管理が安定したりして、結果的に“止まるべきところで止まり、進むべきところで進む”体験になりやすい傾向があります。 本作のように、プレイヤーが文章を読んでいる時間そのものが緊張になるタイプだと、ロード待ちのような外的な「間」が減るのはメリットにもデメリットにもなります。メリットは、作品の意図したテンポに集中しやすいこと。デメリットは、古いADV特有の“待たされる間が不安を育てる”感覚が薄れ、恐怖の育ち方が変わることです。 また、FM TOWNSは音まわりの印象も比較的良いと言われやすい土壌があり、BGMや効果音の鳴り方が整うと、静けさが「ただの無音」ではなく「音の薄さ」として演出に変換されやすくなります。音が整うほど、逆に“無い音”が怖くなる、という逆説が起きるのもこのタイプの作品らしいところです。
●同じタイトルでも「UIの手触り」で怖さが変わる:入力・画面切替・テンポの差
コマンドADVの怖さは、ストーリーだけでなく“操作の反復”と結びついています。選択肢を押す、場面が切り替わる、文章が流れる――この単純なループが、緊張を維持するリズムになります。だから、機種ごとに入力遅延やキー反応の癖が違うと、同じ文章でも心理的な負荷が変わってしまう。 たとえば、操作が軽快だと「進めてしまう手」が止まらず、逃げ場のなさが増す。逆に、操作が重いと「進めたいのに進めない」苛立ちが勝ち、恐さよりストレスが先に立つ。どの版が優れているというより、作品の性質上、UIの質が印象へ乗りやすいという話です。ちなみに本作は快適機能が少ない(スキップやオートが無い等)と整理されるため、UIの好不調がそのまま体験に直結しやすいタイプでもあります。
●“どれで遊ぶべき?”の考え方:目的で選ぶと失敗しにくい
機種差の話は、結局「あなたが何を重視するか」に戻ります。 – **当時の標準的なADV体験に寄せたい**:PC-9801版が“基本形”として納得感を得やすい。 – **素朴さ・余白の怖さを味わいたい**:MSX2版の制約が、不安を増幅する方向に働く可能性がある。 – **ビジュアルの輪郭で刺してほしい**:X68000版は“見える怖さ”へ寄り、復刻でも触りやすい窓が作られている。 – **テンポを安定させたい**:FM TOWNSのCD-ROMで“外的な待ち”が減る利点が活きやすい。 こうして目的で選ぶと、「思っていた怖さと違った」というズレを減らせます。『狂った果実』は“怖さの質”が作品価値に直結するので、環境選びは単なる好みではなく、体験設計の一部だと考えるのがコツです。
[game-10]●同時期に発売されたゲームなど
1992年前後の“国産PCゲーム”は、ジャンルも温度差も振り幅が大きかった
1992年ごろの国産PCゲーム市場は、いわゆる「パソコン=仕事道具」という顔を保ちつつも、家庭内では“濃い趣味の器”として確実に浸透していた時期だった。特にPC-9801系はユーザー母数が大きく、歴史SLGや長編RPG、アドベンチャーなどが並び立ち、雑誌広告や店頭のフロッピー棚には、硬派な戦略タイトルと、刺激の強いサスペンス/アダルト作品が同居していた。X68000側は「家庭でアーケードの気配を触る」文化が強く、移植作の評価が購買動機になりやすい一方、対応メディアや音源、画面モードの扱いなど“マシンの性格”がそのまま遊び味に影響するのも特徴だった。MSX2は規模こそ絞られていくが、ROM/FDの差や拡張音源の活用で、独自の遊び場を維持していた。 こうした環境の中で『狂った果実』のような“一本道のコマンド選択型”が持つ意味は、単に仕掛けの多さではなく「読む体験の密度」や「見せ方の圧」で勝負していた点にある。同時期の人気作と並べると、当時のユーザーが何を求め、どんな衝撃を“新しさ”として受け取っていたのかが、より立体的に見えてくる。以下では1992年前後に発売された代表的なパソコンゲームを10本ピックアップし、当時の空気感が伝わるように要点を整理する(価格は資料にある定価表記を基本とし、税込・税別が明記されているものはそのまま記す)。
★三國志III
・販売会社:コーエー ・販売された年:1992年 ・販売価格:16,280円 ・具体的なゲーム内容:古代中国の群雄割拠を題材にした歴史シミュレーション。国力の育成、武将の運用、外交・計略、戦争の判断を積み重ねて勢力を伸ばしていくタイプで、時間をかけて「自国の手触り」を作るのが面白さの核。派手な演出よりも、数字と人材の配置で状況が変わる重厚さが売りで、遊び終わった後に“歴史の別解”が頭に残る。
★太閤立志伝
・販売会社:コーエー ・販売された年:1992年 ・販売価格:10,780円 ・具体的なゲーム内容:一国の君主ではなく「個人」の立場から戦国期を歩む出世シミュレーション。武将として手柄を立てるだけでなく、商や技能の伸ばし方が生き方の幅を作り、同じ時代でもプレイヤーの選択で別の人生が開く。歴史SLGの文法を保ちながら、RPG的な成長感を前面に押し出した点が当時として新鮮だった。
★同級生
・販売会社:エルフ ・販売された年:1992年 ・販売価格:9,680円 ・具体的なゲーム内容:日常の時間割と移動の積み重ねでイベントが変化していく、スケジュール管理型の恋愛アドベンチャー。単に選択肢を踏むだけではなく、「いつ・どこに行くか」が出会いと関係の進行に直結し、プレイヤーが街の生活圏を覚えていくほど攻略の解像度が上がる。会話と状況の連鎖で“学生生活の手触り”を作る設計が強み。
★グラディウスⅡ -GOFERの野望-(X68000版)
・販売会社:コナミ ・販売された年:1992年 ・販売価格:9,800円(税別) ・具体的なゲーム内容:アーケードで磨かれた横スクロールSTGを、高性能PC向けに移植した代表格。武装の組み立て、局面の読み、ボス戦の処理など“覚える楽しさ”が密度高く詰まっている。X68000版は当時「移植度」で語られやすく、完成度の高さがそのまま話題になったタイプ。
★サークⅡ -Rising of The Redmoon-(X68000版)
・販売会社:ブラザー工業タケル事務局(販売表記) ・販売された年:1992年 ・販売価格:6,800円(税込) ・具体的なゲーム内容:見下ろし型アクションRPGの続編で、探索と戦闘をテンポ良く回しながら物語を進める設計。難所はあるが“詰ませる”より“慣れさせる”方向のバランスで、装備更新やルート選択がプレイ感を変える。長編RPGの重さより、冒険のリズムを楽しむタイプの作品として支持されやすい。
★スタートレーダー(X68000版)
・販売会社:ブラザー工業タケル事務局(販売表記) ・販売された年:1992年 ・販売価格:4,800円(税込) ・具体的なゲーム内容:宇宙交易を軸に、航路選び・相場読み・リスク管理を回す経営寄りのシミュレーション。戦闘よりも「稼ぐための判断」が主役で、堅実に利益を積むか、一発狙いで危険地帯に踏み込むかの性格がプレイヤーに出る。短い判断の連続で自分の物語が立ち上がるのが魅力。
★スピンディジーⅡ(X68000版)
・販売会社:アルシスソフトウェア(販売表記) ・販売された年:1992年 ・販売価格:7,800円(税別) ・具体的なゲーム内容:独特の慣性と地形ギミックを相手にするアクション/パズル寄り作品。思い通りに動かない“もどかしさ”を理解に変えていく過程が面白く、ステージを読む力と操作の丁寧さが結果に直結する。派手さよりも、攻略の納得感で記憶に残るタイプ。
★テラクレスタ(X68000版)
・販売会社:電波新聞社(販売表記) ・販売された年:1992年 ・販売価格:4,900円(税別) ・具体的なゲーム内容:合体・分離を絡めた独自要素を持つシューティングの移植で、火力の作り方や被弾リスクの受け方に判断が出る。X68000は画面の情報量と操作レスポンスが強みになりやすく、移植作でも「遊びやすさの違い」が評価点として語られた。
★ストライダー飛竜(X68000版)
・販売会社:カプコン ・販売された年:1992年 ・販売価格:10,780円 ・具体的なゲーム内容:スピード感とアクロバティックな移動、演出の勢いで押し切るアクションの移植。単純な格闘というより、ステージ上の状況判断と前進力がゲームテンポを作る。家庭用の移植群の中でも、X68000の“アーケードに寄せる”方向性と相性が良い題材だった。
★龍の花園(MSX2)
・販売会社:ファミリーソフト ・販売された年:1992年 ・販売価格:7,800円 ・具体的なゲーム内容:MSX2の文法で組み立てられたアドベンチャー/物語系タイトルとして、場面の切り替えとテキストの牽引力でプレイヤーを前に進めるタイプ。MSX2はハード構成に個性が出やすいが、だからこそ“手元の環境で遊び切る”密着感があり、PC98やX68000とは違う層の熱量を支えていた。
この10本と『狂った果実』を同じ棚に置くと見えてくるもの
同時期の人気作を眺めると、1992年前後は「長く遊ばせる仕組み(歴史SLG・育成)」と「瞬間の強度(移植STG・アクション)」「読ませる圧(ADV)」が、同じ“パソコンゲーム”の看板で共存していたのが分かる。『狂った果実』が記憶に残りやすいのは、システムの複雑さではなく、一本道の枠内で“見せ方と展開の冷たさ”を徹底し、プレイヤーの感情に直接触る作りを押し出したからだ。だからこそ、重厚な戦略で自分の勝利を積み上げる作品や、移植度の高さで爽快さを担保する作品と並べたとき、逆に「救いの無さ」や「読後感の荒さ」が際立ってしまう。 ――そしてその際立ち方こそが、当時の雑誌広告や口コミの中で“話題になる力”へ転化していった、と考えると流れが繋がる。次章では、この系譜を踏まえたうえで『狂った果実』そのものの魅力(面白さ・怖さ・記憶への残り方)を、もう一段具体的に掘り下げていく。
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