【期間限定】特価商品!おそ松さん でふぉめくりっぷ 全6種(BOX)タカラトミーアーツおそ松くん / 赤塚不二夫デフォルメ/デフォメクリ..
【原作】:赤塚不二夫
【アニメの放送期間】:1966年2月5日~1967年3月4日
【放送話数】:全52話
【放送局】:NETテレビ系列
【関連会社】:チルドレンズ・コーナー、スタジオ・ゼロ
■ 概要
1960年代ギャグアニメの中でも特に大きな足跡を残した一本
1966年2月5日から1967年3月4日までNETテレビ系列で放送された第1作『おそ松くん』は、赤塚不二夫の代表的なギャグ漫画をテレビアニメへ移し替えた作品であり、のちの赤塚作品アニメ化の流れを考えるうえでも外せない原点です。原作そのものが、六つ子の松野兄弟を中心に、イヤミ、チビ太、トト子、ハタ坊、デカパン、ダヨーンといった強烈な脇役たちが入り乱れる騒々しい日常劇として人気を集めていましたが、アニメ版はその魅力を単なる漫画の再現にとどめず、「動き」と「声」と「間」によってさらに拡張しました。そっくりな顔をした六人が一斉に走り回るだけでも画面はにぎやかですが、そこへ癖の強い大人や子どもたちが加わることで、毎回の話が予測不能なドタバタへ膨らんでいく。その混沌こそが第1作『おそ松くん』の大きな魅力であり、当時の視聴者にとっては「何が起きても不思議ではない」自由な笑いの箱のような番組だったといえます。放送期間は約1年で、前後半の構成や再放送形式も交えながら積み上げられた内容は、後年のパッケージ商品で細かく数えられることもありましたが、何より重要なのは、一本ごとのギャグと群像の勢いで強い印象を残したことです。
在阪局制作のテレビアニメとして見ても重要な存在
この作品の価値は、人気漫画のアニメ化という一点だけでは語り切れません。『おそ松くん(第1作)』は、毎日放送がテレビアニメ制作へ本格的に踏み出す出発点に位置づけられる作品であり、日本のテレビアニメ史を見渡したときにも「制作体制の変化」を示す題材としてたびたび語られます。1960年代前半は、テレビアニメという表現そのものがまだ発展途上で、どの会社がどのような手法で量産し、どんな絵柄で視聴者をつかむのかが定まりきっていない時代でした。その中で本作は、毎日放送、チルドレンズ・コーナー、スタジオ・ゼロという組み合わせによって作られ、関西発のアニメ制作の流れを具体的な形にした先駆例になりました。つまり『おそ松くん』は、後年の名作群の前に置かれた試金石のような作品でもあり、テレビ局、制作会社、原作者側が手探りで最適解を探しながら作った実験精神の濃いシリーズでもあったのです。そのため本作を振り返ると、単に懐かしい白黒アニメという印象を超えて、日本のテレビアニメがどう産業化されていったのかを感じさせる生々しさが見えてきます。
白黒画面の制約を逆に武器へ変えたにぎやかな演出
第1作『おそ松くん』は白黒作品です。しかし、そのことは地味さに直結していません。むしろ色数に頼れないぶん、キャラクターの輪郭、表情の崩し方、集団での動き、画面のテンポの付け方が際立ち、ギャグアニメとしての勢いが強く感じられます。六つ子はもともと外見がそっくりという設定ですが、アニメでは声の違い、しゃべり方の調子、立ち位置のバランス、場面ごとの反応差によって、視聴者は自然と「今しゃべっているのは誰か」を見分けるようになります。この“似ているのに違って見える”面白さは、静止画中心の漫画とはまた別の、アニメならではの手応えです。また、イヤミの芝居がかった動きやチビ太の小気味よい乱暴さ、デカパンやダヨーンの存在感の出し方なども、白黒ゆえにシルエットやポーズの面白さが前面に出やすく、画面の情報量よりも笑いの輪郭がくっきり伝わってきます。だからこそ本作は、豪華な映像演出で押すのではなく、人物の性格そのものが動いて笑いになるタイプの作品として、今見ても骨太な魅力を失っていません。
原作の精神を生かしながら、テレビ向けの回し方を築いた構成
本作の面白さは、原作をただなぞるだけで終わっていない点にもあります。基本は六つ子たちの日常騒動なのですが、毎回の話は一本筋の物語をきっちり追うというより、騒ぎの火種があちこちに飛び、登場人物どうしの思いつきや勘違いが連鎖し、最後は収拾がつかないまま笑いに変わる、というギャグ漫画的な推進力で動きます。この作り方は、ホームドラマの安心感と不条理ギャグのハチャメチャさが同居しているのが特徴です。松野家という帰る場所があるので視聴者は安心して混乱を楽しめる一方で、イヤミやチビ太が入ってくるだけで空気が一気にひっくり返る。その繰り返しが、番組全体に独特のリズムを生んでいました。しかも後半になるにつれて、前後編や再構成的な放送形態も見られ、放送事情に応じた柔軟な作り方が試されていたこともうかがえます。完成されたフォーマットを機械的に回すのではなく、作品の勢いを保ちながら、その都度おもしろく見せる工夫を重ねていたからこそ、第1作は古い作品なのに妙に生き生きしている印象を残すのでしょう。
六つ子だけで終わらない、脇役の強さが世界を広げた
『おそ松くん』を語るとき、六つ子はもちろん中心ですが、作品世界の厚みを決定づけたのは脇役たちの異様な強さです。おフランス帰りを気取りながら見栄と虚勢で空回りするイヤミ、小さい体でやたらと気が強く、騒動の火薬庫になるチビ太、のんきさと間の抜けた愛嬌で場をかき回すハタ坊、包容力があるようでいて結局は妙な方向へ進むデカパンなど、誰をひとり切り取っても一本の話が成立するくらい個性が濃い。第1作は、六つ子が主役でありながら、実際には周辺人物がどんどん前に出て、時には主役を食うほど目立つ構造を早い段階で作り上げていました。これは赤塚作品らしい群像ギャグの強みであり、のちのシリーズや関連作にもつながる発想です。視聴者にとっては、六つ子の日常を楽しむだけでなく、「今日は誰が暴れるのか」「誰のペースで話が転がるのか」を見る楽しみがあったはずです。その意味で本作は、主人公一点集中型のアニメではなく、登場人物全員が笑いの発生装置として機能する群像劇だったといえます。
後年の再評価まで含めて“原点”と呼ぶにふさわしい作品
第1作『おそ松くん』は、放送当時の人気だけで完結した作品ではありません。後年にはVHS、DVD化が進み、2001年から2003年にかけてのDVD展開や、2016年の赤塚不二夫生誕80周年・テレビ放送50周年の節目に合わせた再発売などを通じて、改めてオリジナル版として見直されてきました。これは単なる懐古需要ではなく、現代の視点から見ても、この作品が日本のギャグアニメに与えた影響が小さくないからです。六つ子という設定を活かした集団芝居、脇役の爆発力、原作漫画の奔放さを映像へ持ち込む大胆さ、そしてテレビアニメ草創期ならではの挑戦的な制作姿勢。これらが重なった結果、第1作『おそ松くん』は、後続作品のための下地であると同時に、それ自体が独立した魅力を持つ歴史的作品になりました。今の目で見ると粗削りな部分もあるかもしれませんが、その粗削りさは欠点というより、笑いをまっすぐ画面へ叩きつけようとした時代の熱気そのものです。完成度だけで測ると見落としてしまう、挑戦の跡、試行錯誤の手触り、そして赤塚ギャグがアニメという媒体で大きく羽ばたいた瞬間の勢いが、この第1作には詰まっています。だからこそ『おそ松くん(第1作)』は、昔の人気番組というだけでなく、日本アニメ史のなかで何度でも立ち返る価値のある笑いの原点として語り継がれているのです。
[anime-1]
■ あらすじ・ストーリー
六つ子の毎日そのものが、物語の出発点になっている
『おそ松くん(第1作)』の物語は、壮大な冒険や一本の長い目的に向かって進むタイプではなく、松野家に生まれた六つ子たちの騒がしい日常そのものを舞台にした連作ギャグとして展開していきます。おそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松という六人は、見た目こそほとんど同じでも、集まったときの空気は驚くほどにぎやかで、家の中でも町の中でも、何かを思いつけばすぐに騒ぎが始まります。物語の核になっているのは、六つ子であること自体が生む混乱です。誰が誰だか分からなくなる取り違え、人数の多さを生かしたいたずら、兄弟どうしの妙な結束、そして一人が始めた悪ふざけが六人分にふくらんで手がつけられなくなる流れが、毎回の笑いの土台になっています。そこへ近所の変わり者たちが次々に絡むことで、ただの子どもたちの日常では終わらない、常に一段階上のドタバタへ発展していくのが本作の基本形です。
一話ごとに騒動が生まれ、笑いの火種が次の場面へ飛び移っていく
この作品のストーリー運びで印象的なのは、普通の出来事がほんの少しねじれるだけで、たちまち大混乱へ変わるところです。最初はごく小さな欲望や見栄、ちょっとした勘違いから話が始まります。たとえば褒められたい、目立ちたい、得をしたい、いたずらで相手を困らせたい、そんな子どもっぽい動機が発端になり、それが兄弟全員や町の住人を巻き込んで大きな騒ぎへ膨らんでいくのです。六つ子が同じ顔をしているため、誰かが何かをしでかすと別の兄弟まで疑われたり、逆に一人の失敗を全員でごまかそうとしてさらに事態が悪化したりする。こうした流れが繰り返されるため、視聴者は「今回は何が起きるのか」だけでなく、「どうやって収拾不能になるのか」を楽しむ構造になっています。また本作は、日常的な題材から突拍子もない題材まで幅広く扱われており、生活感とナンセンスが同居した話作りが持ち味でした。
六つ子が主役でありながら、実際には町全体が舞台装置になっている
本作のあらすじを単純にまとめるなら、「六つ子が毎回さわぎを起こす話」と言えます。けれど、実際に見えてくるのはそれよりもっと広い世界です。松野家の中だけで話が閉じることは少なく、町の路地、学校、空き地、よその家、イベントの場など、身近な生活空間のあちこちが騒動の現場になります。そのたびに、六つ子の周辺にいるイヤミ、チビ太、ハタ坊、デカパン、ダヨーン、トト子といった面々が、それぞれ自分勝手な思惑で話に入り込んできます。つまり『おそ松くん』のストーリーは、六つ子が前へ進めるというより、六つ子と周囲の人物がぶつかり合うことで横へ横へと広がっていくタイプの物語です。この横に広がる群像劇の感覚があるからこそ、特定の回を見ても窮屈さがありません。誰が主導権を握るかで空気が変わり、同じ町なのに毎回まるで別の舞台のように見えるのです。六つ子が中心にいながら、世界全体が騒ぎの装置になっている。そこにこの作品のストーリー面での強さがあります。
トト子をめぐる競争や見栄の張り合いが、笑いに恋の色を添える
『おそ松くん』の物語には、ただ暴れ回るだけではない可笑しみもあります。その代表が、トト子をめぐる気持ちの揺れです。六つ子たちは無邪気で子どもっぽい一方、かわいい相手の前では急に格好をつけたがったり、自分をよく見せようと無理をしたりします。しかも相手がトト子となると、兄弟でありながら小さな競争心が生まれ、そこにチビ太まで割り込むため、話はさらに騒々しくなります。本気の恋愛劇というより、子どもたちの見栄や背伸びがそのままギャグへ転化される感覚で、視聴者は甘酸っぱさよりも、むしろ必死さの可笑しさを味わうことになります。トト子自身も、ただの飾りではなく、男の子たちの勝手な熱意を軽やかに受け流したり、時には場をひっくり返したりする存在として、物語に華やかさを与えます。こうしたちょっと憧れて、でも全然うまくいかない展開が、作品全体に子どもらしい明るさを与えており、単なる乱痴気騒ぎでは終わらない親しみやすさにつながっています。
イヤミとチビ太が入ることで、日常劇は一気に事件へ変わる
ストーリー面でとくに重要なのは、六つ子だけでは生まれない種類の笑いを、イヤミとチビ太が持ち込んでいることです。イヤミは自分を大きく見せたがる人物で、思いつきも行動もどこか芝居がかっており、登場した瞬間に話の空気を自分色へ塗り替えます。何でも知っているような顔をしながら中身が伴っていなかったり、ずる賢く立ち回ろうとして結局ひどい目に遭ったりするので、彼が物語へ入ると計画の失敗という笑いが生まれます。一方のチビ太は、体は小さいのに気が強く、六つ子に対しても遠慮がありません。そのため、六つ子側の悪ふざけとチビ太の反発が正面衝突すると、話は一気に乱闘寸前のテンポへ変わります。この二人は、単なる脇役ではなく、ストーリーに異物感を持ち込む装置です。六つ子だけの場面が身内の騒ぎなら、イヤミやチビ太が入った瞬間に町ぐるみの騒動に変わる。だからこそ本作では、彼らが出てくるかどうかで回の手触りが大きく変わり、視聴者は毎回ちがう笑い方を楽しめるようになっています。
一話完結だからこそ、どの回からでもおそ松くんらしさが伝わる
『おそ松くん(第1作)』のストーリーを振り返ると、何か大きな伏線が最後に回収されるような作りではありません。しかしそれは弱点ではなく、むしろ本作の大きな武器です。どの回から見ても、六つ子のにぎやかさ、イヤミの空回り、チビ太との衝突、トト子への憧れ、町じゅうを巻き込む騒動という基本の味がしっかり出ているため、視聴者はすぐに作品世界へ入ることができます。一話完結型だからこそ、毎回の話はその回の面白さに集中でき、細かな設定説明を省いても勢いだけで見せられる。しかも、似たような構図の繰り返しに見えそうでいて、題材や発端を少し変えるだけで笑いの質が変わるため、長く続いても飽きにくいのです。六つ子の見分けがつかないことを利用した話、妙な発明や思いつきが暴走する話、季節行事にからめた話、見栄や金もうけが裏目に出る話など、基本構造は近くても中身はかなり多彩です。だから本作のあらすじを一言でまとめるのは簡単でも、その実態は非常に豊かなバリエーションに支えられています。『おそ松くん』のストーリーとは、一本の線で進む物語ではなく、六つ子と仲間たちが起こす無数の小さな爆発の集積なのです。そしてその爆発が、昭和ギャグアニメらしい強い生命力として今も記憶に残っているのだと思います。
[anime-2]
■ 登場キャラクターについて
六つ子は「六人でひとつ」ではなく、騒ぎ方の違いで個性を見せる主役陣
『おそ松くん(第1作)』の登場キャラクターを語るとき、まず中心になるのは言うまでもなく松野家の六つ子です。おそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松は、外見上はそっくりという前提で描かれながら、物語が進むほどにそれぞれの反応の差、場のかき回し方、言い出しっぺになりやすいかどうかといった細かな違いで印象を残していきます。この第1作では、後年のシリーズのように六人の性格差が明確に記号化されているわけではありませんが、それでも一人が調子に乗れば残りが便乗し、誰かが失敗すれば全員でごまかし、時には兄弟どうしで張り合うという流れの中で、同じ顔の集団であること自体が大きなギャグ装置になっています。見ている側は、最初は似た六人として受け取りながら、話数を重ねるうちに少しずつしゃべり方や立ち位置の差を感じ取り、六つ子が単なる数合わせではなく、それぞれ別の温度を持った存在だと分かってきます。第1作の配役では、おそ松とハタ坊を加藤みどり、カラ松とチョロ松を鈴木恵美子のちに山本圭子、一松とトド松を北浜晴子、十四松を東美枝が担当しており、この声の割り振りも六つ子の印象づくりに大きく貢献していました。
おそ松は長男らしさよりも、六つ子騒動の先頭に立つ顔として機能する
六つ子の中でおそ松は長男にあたりますが、第1作における彼の魅力は、いわゆる頼れる兄というよりも、騒動の入口に立ちやすい顔役としての働きにあります。何か妙な話を聞けば真っ先に首を突っ込み、面白そうだと思えば深く考えずに乗ってしまう。けれど、彼ひとりの判断で物語が進むというより、おそ松が走り出した瞬間に残りの兄弟もつられて動き出し、結果として六つ子全体の勢いが増していくのです。そのため視聴者の印象としては、厳密な意味での主人公というより、六つ子を代表する入口のような存在に近いかもしれません。おそ松が前に出ると、物語はまず松野兄弟の側から始まり、そこへイヤミやチビ太がぶつかってきて騒動が立体化する。この流れがとても分かりやすいため、彼は作品全体の導入役として記憶に残りやすい存在です。とくに六つ子がまとまって悪ふざけを始める場面では、おそ松の軽さや身軽さが先頭に立つことで、画面全体が一気にいたずらっ子の世界へ切り替わる感じがあります。だからおそ松は、個人の濃さよりも、六つ子という集団の顔としての明るさで効いてくるキャラクターだと言えます。
カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松は「同じ顔の別のノリ」を生み出す存在
第1作を丁寧に追うと、おそ松以外の五人も決して背景ではありません。カラ松とチョロ松は、場に応じて兄弟の中の勢いを補強する役回りが多く、誰かの思いつきをさらに煽ったり、逆に突飛な流れの中で妙に小器用な動きを見せたりして、六つ子集団のリズムを整えています。一松とトド松は同じ声優が担当していることもあり、並んでいるだけで双子的な近さが強まりますが、その分、ちょっとした仕草や空気の読み方の差が見えたときに独特の味が出ます。十四松は六つ子の中でも動きや反応が大きく出やすく、集団芝居のなかで一段テンポをずらすことで、場面に弾みをつける役割を果たします。つまり五人は、それぞれ単独で濃厚なドラマを背負うというより、六つ子全体の騒がしさを細かく変調させるパーツとしてとても重要なのです。視聴者の立場で見ると、六人が全員同じ方向を向いて暴走する回は圧力のある笑いになり、逆に兄弟内で反応が割れる回は掛け合いの妙が出る。この差が、六つ子ものとしての『おそ松くん』を単調にしない理由になっています。
トト子はかわいい憧れの相手で終わらず、騒動の空気を変える華やかな存在
トト子は、六つ子やチビ太たちから見れば憧れの対象であり、作品の中にほんのりしたときめきや見栄の要素を持ち込む存在です。ただし第1作のトト子は、ただ男の子たちに追いかけられるだけの人ではありません。彼女が登場すると、それまで悪ふざけで進んでいた場面に、急に格好をつけたい、いいところを見せたいという空気が差し込みます。そのせいで六つ子もチビ太も無理をし、結果としてますますみっともない失敗をするのですが、その過程こそが本作らしい笑いになっています。トト子は白石冬美が長く演じ、時期によって沢田和子も担当していましたが、声の印象も含めて、ただの美少女というより活発で存在感のあるみんなの気になる子として機能しています。視聴者の印象としても、トト子がいる場面は町の騒動に少しだけ華やかさが加わり、男の子たちの子どもっぽさがいっそう可笑しく見えてきます。だから彼女は恋愛要員ではなく、六つ子たちの虚勢や見栄を照らし出す鏡のようなキャラクターとして非常に大事です。
イヤミは作品の笑いを一段ひねる、最重要級のトラブルメーカー
第1作『おそ松くん』を見て印象に残る人物を挙げるとき、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは六つ子以外ではイヤミでしょう。おフランス帰りを自称し、気取った口ぶりと見栄で周囲を煙に巻こうとするこの人物は、単なる変人ではなく、物語全体の空気をひねる役割を担っています。六つ子だけの場面が子どもたちの悪ふざけだとすれば、イヤミが入った瞬間にそこへ大人のずるさ、見栄、背伸び、ハッタリが混ざり、笑いが一段ねじれます。しかも本人はいつも自信満々なのに、最後は結局ひどい目に遭いやすい。この落差がとても強く、視聴者はイヤミが出てきた時点で「どうせまた調子に乗って転ぶのだろう」と期待しながら見ることができます。小林恭治の声も、嫌味ったらしさと愛嬌を同時に感じさせる独特の調子で、ただ憎たらしいだけでは終わらない絶妙な人物像を作っています。彼のシェーが広く浸透したことを含め、イヤミは脇役というより、この作品の笑いを象徴する顔のひとつでした。六つ子が騒ぎの量を担うなら、イヤミは騒ぎの質を変える存在なのです。
チビ太は小さな体に反発心を詰め込んだ、子ども側の爆発装置
チビ太の魅力は、その小ささと負けん気の強さが完全に一致しているところにあります。体格では六つ子に押されそうなのに、気持ちでは一歩も引かず、むしろ自分から突っかかっていく。そのため、彼が出てくると物語はからかわれる側の抵抗という別の熱を帯びます。イヤミが虚勢と見栄で話をかき回すのに対し、チビ太はもっと直接的で、感情がすぐ行動に出るタイプです。怒れば飛びかかり、悔しければ意地になり、やられたらやり返そうとする。その一直線な反応が、六つ子とのぶつかり合いをとてもテンポの良いものにしています。しかも時期によって田上和枝、水垣洋子、沢田和子と声優が変わりながらも、キャラクターの核である生意気さと可笑しみは保たれており、作品後半まで存在感を失いません。視聴者から見ると、チビ太はいじめられ役でありながら、それだけで終わらず、自分の怒りや工夫で場面をひっくり返すこともあるため、妙な爽快感があります。彼が登場する話は、笑いの中にケンカの熱が加わるぶん、印象に残りやすいのです。
ハタ坊、デカパン、ダヨーンたちは、世界そのものを赤塚的な不条理へ広げる
『おそ松くん』のキャラクターの厚みは、メインどころだけでは生まれません。ハタ坊は頭に旗を立てた見た目だけでも十分に強いのに、そこへ独特の口調と妙な無邪気さが加わることで、画面の空気を一気に赤塚漫画らしい方向へ寄せます。しかも彼は単なる背景ではなく、場面によっては妙に図太く、時に六つ子やチビ太以上に好き勝手に振る舞うため、油断すると話の軸をさらっていきます。デカパンは包容力がありそうでいて、結局は本人もかなり変わっており、常識人のような顔で話を妙な方角へ押し流す面白さがあります。ダヨーンは出てきただけで空気がずれるタイプのキャラクターで、その存在自体が説明不能な面白さを持ち込む役目です。第1作ではハタ坊を加藤みどり、デカパンを神山卓三のちに和久井節緒、ダヨーンを神山卓三のちに大竹宏が担当しており、それぞれ声の質感が違うからこそ、同じギャグ世界の住人でありながら別種の不条理として立ち上がっています。視聴者の印象としても、こうした面々が出ると『おそ松くん』の世界は急に現実離れし、それがまた心地よい混乱になります。
印象的なキャラクター像は、「性格の説明」より「場面の暴れ方」で記憶される
第1作『おそ松くん』のキャラクターが今も語られやすい理由は、細かな設定資料を覚えているからではなく、画面の中でどう暴れ、どう失敗し、どう空回りしたかが強く残るからです。六つ子は集団で押し寄せる勢い、イヤミは見栄と転落の落差、チビ太は反発心、トト子は場面を華やかにする存在感、ハタ坊やデカパンやダヨーンは常識を少し壊してしまう妙さで、それぞれ記憶に残ります。つまり本作のキャラクターは、「この人はこういう過去を持つ」「こういう信念で動く」といった説明型ではなく、「出てきた瞬間に空気がこう変わる」という舞台装置的な強さを持っています。そのため印象的なシーンも、感動的な告白や劇的な転機というより、誰かの思いつきが全員を巻き込み、最後には全員がバタバタになって終わるような場面に集まりやすいのです。視聴者は人物の内面を読むというより、その人物が画面をどうかき回したかで好きになる。ここに『おそ松くん』第1作のキャラクター造形の面白さがあります。単純なのに忘れにくい。大げさなのに妙に人間くさい。その絶妙な加減こそが、この作品の登場人物たちを今なお魅力的に見せている最大の理由でしょう。
[anime-3]
■ 主題歌・挿入歌・キャラソン・イメージソング
第1作の音楽は曲数の多さより主題歌の強さで記憶される
1966年版『おそ松くん』の楽曲まわりを振り返ると、現代のテレビアニメのように多数のキャラクターソングや劇中挿入歌が体系的に整理されているタイプではありません。むしろこの作品の音楽的な魅力は、番組全体の空気を一気に決めてしまう主題歌の強さにあります。実際、テレビアニメ第1作で確認しやすい中心楽曲は、前半で使われた「おそ松くんのうた」と、後半で差し替えられた「おそ松くんのうた2」の二本柱です。どちらも赤塚不二夫自身が作詞を手がけており、作品の生み手がそのまま番組の歌の言葉にまで関わっている点が、このアニメの音楽を特別なものにしています。つまり本作の歌は、単なる宣伝用の主題歌ではなく、赤塚ギャグの匂いそのものを音に移し替える役割を担っていたのです。第1話から第50話までは「おそ松くんのうた」、第51話から最終話までは「おそ松くんのうた2」が用いられ、番組全体に二つの音の表情を与えました。
「おそ松くんのうた」は、六つ子たちの騒がしさをそのまま歌にしたような主題歌
前半の主題歌「おそ松くんのうた」は、赤塚不二夫作詞、渡辺浦人作曲による楽曲で、六つ子たちに加えてイヤミ、チビ太、さらにセリフ参加として松代まで加わる、非常ににぎやかな構成で歌われています。この時点で、すでに曲の作りそのものが『おそ松くん』らしいのです。ひとりのスター歌手が作品世界を代表して歌い上げるのではなく、登場人物たちがそのまま番組の表口に飛び出してきたような作りになっているため、曲を聴くだけで六つ子がわらわら集まり、イヤミやチビ太が横から口を挟み、家の中まで騒々しい作品の景色がすぐに立ち上がります。しかもオープニングでは1番と2番、エンディングでは3番が使われていたとされ、同じ曲でも入口と締めくくりで見せ方を変えていた点も興味深いところです。視聴者の感覚としては、番組が始まる前からすでに騒動の渦の中へ放り込まれるような感じがあり、作品の明るさ、雑然とした元気さ、そして子どもっぽい勢いをそのまま耳で受け取れる主題歌だったと言えるでしょう。
後半の「おそ松くんのうた2」は、主題歌交代によって番組の表情を少し変えた
第51話以降は「おそ松くんのうた2」に切り替わり、作詞は引き続き赤塚不二夫、作曲は三保敬太郎、歌唱は藤田まことが担当しました。前半の曲がキャラクター総出のにぎやかさを正面から押し出した歌だとすれば、後半の主題歌は、同じ作品でありながらも少し別の色合いを与える役目を果たしています。歌い手がキャラクター群ではなく藤田まこと単独になったことで、曲全体の見え方も変わり、作品世界を外から包み込むような主題歌へと姿を変えた印象があります。とはいえ、そこで作品の本質が変わるわけではありません。むしろ、画面の中では相変わらず六つ子たちが騒ぎ続けるからこそ、主題歌の変化が番組の後半に独特のリフレッシュ感をもたらしています。また、エンディングではAメロを省いたインストルメンタルが使われていたとされ、前半とはまた違う締め方が意識されていたことも分かります。こうした主題歌交代は当時のテレビアニメとしても印象的で、作品に二つの顔を与えた重要な要素でした。
視聴者の印象に残るのは、曲の巧さ以上に作品との一体感である
『おそ松くん(第1作)』の楽曲について語るとき、現代のアニメソングのように壮大さや洗練を競う見方だけでは、この作品の良さはつかみにくいかもしれません。本作の歌が強いのは、旋律の美しさだけで押してくるからではなく、番組そのものの性格とぴったり重なっているからです。六つ子が何人もいるというだけで情報量が多く、イヤミやチビ太が入ればさらに混線する、そんな作品にふさわしいのは、きれいに整理された歌よりも、聞いた瞬間にキャラクターの顔が並ぶ歌です。前半主題歌のにぎやかな歌い方にはまさにその力があり、後半主題歌にはテレビアニメの看板として作品をまとめる役割がありました。だから視聴者の感想としては、名曲だから記憶に残るというより、『おそ松くん』と切り離せないから残るという感覚のほうが近いはずです。主題歌を聞くと、六つ子が走り出し、イヤミが調子に乗り、チビ太が怒り、松野家の騒がしい朝が始まる。そうした連想がごく自然に起こる時点で、この作品の歌は十分に成功しているのです。
挿入歌や関連曲は、放送本編よりもソノシート文化の周辺で広がっていた
第1作の放送本編そのものに関しては、主題歌以外の劇中歌情報が大きく体系化されているわけではありませんが、『おそ松くん』という作品の音楽世界を少し広く見ると、放送前後の関連音源やソノシート作品に目を向けることで面白い広がりが見えてきます。たとえば1960年代半ばの朝日ソノラマ関連音源には、「おそ松くん」「おそ松くん音頭」「おそ松くんのうた」「おそ松くん ボクサー・マーチ」「おそ松くんかぞえ歌」といったタイトルが確認でき、ドラマと歌がセットになったかたちで展開されていました。ただし、これらがすべてそのまま1966年テレビアニメ第1作の放送用主題歌・挿入歌だったわけではなく、同じ題名でもテレビ版の主題歌とは作詞・作曲や歌手が異なるものがあります。つまり『おそ松くん』は、テレビ放送の主題歌二本が中心にありつつ、当時らしいソノシート文化の中で関連歌謡が増殖していった作品でもあったのです。
キャラソンというより、キャラクターが前に出る歌がこの時代の魅力だった
現代の感覚でキャラソンという言葉を当てはめると、第1作『おそ松くん』には後年のようなソロ名義の大量展開はほとんど見られません。けれども、前半主題歌のように六つ子、イヤミ、チビ太、松代といった人物たちが歌の中へそのまま入ってくる構造を考えると、本作は別の意味で非常にキャラクター色の強い歌を持っていたと言えます。歌手が作品の外部にいて主題歌を担当するのではなく、登場人物の声がそのまま番組の看板になる。その感覚は、まさにキャラクターと音楽が一体化した初期的なスタイルです。また、朝日ソノラマ版の関連音源では、六つ子やチビ太、イヤミといったおなじみの面々がドラマパートと歌の双方で作品世界を作っており、単なるレコード商品ではなく、声の芝居と歌を通じてキャラクター人気を支えるメディアとして機能していました。だから『おそ松くん(第1作)』のキャラソン性は、商品点数の多さではなく、番組の入口からすでに登場人物たちの騒ぎ声が聞こえてくるような近さにある、と考えるとこの作品らしさがよく見えてきます。
イメージソング的な広がりは、後年の再発見によってさらに見えやすくなった
『おそ松くん』第1作の歌は、長い時間の中で埋もれていったわけではありません。2000年代以降には赤塚アニメ関連のコンピレーションにもつながる音源が整理され、後年のファンが赤塚アニメの音の系譜としてまとめて触れられるようになりました。こうした再収録によって、当時の番組をリアルタイムで知らない世代でも、主題歌が持つにぎやかさや、キャラクターが前面に出る昭和アニメソング独特の肌ざわりを感じ取りやすくなっています。視聴者やリスナーの感想としては、洗練され尽くした完成品というより、画面の外へそのまま飛び出してくるような元気さ、いかにも昭和のテレビ漫画らしい雑多な楽しさに魅力を見いだす声が多いはずです。『おそ松くん(第1作)』の楽曲群は、主題歌二本を核にしながら、関連レコードや再編集盤を通じて作品のイメージそのものを長く支える音の財産になってきました。だからこの作品の音楽は、曲数の少なさを惜しむより、限られた歌がいかに強く作品と結びついていたかを見るほうが、ずっと面白いのです。
[anime-4]
■ 声優について
第1作の声優陣は、まだ六つ子の個性が固定化される前の時代に、声だけで見分けやすさを作っていた
1966年版『おそ松くん』の声優について語るとき、まず注目したいのは、六つ子という非常にややこしい設定を、音の演技でどう成立させていたかという点です。見た目がほとんど同じ六人の兄弟をテレビアニメとして動かす以上、ただ台本を読ませるだけでは誰がしゃべっているのか分かりにくくなってしまいます。そこでこの第1作では、加藤みどり、鈴木恵美子、山本圭子、北浜晴子、東美枝といった複数の声優を組み合わせ、さらに一部は二役も担当することで、六つ子の混線しやすさを逆手に取ったような音づくりが行われていました。おそ松とハタ坊を加藤みどりが兼ね、一松とトド松を北浜晴子が兼ねるなど、配役だけを見るとかなり大胆ですが、実際にはそれぞれの口調やテンポの差で聞き分けやすさが保たれていたのが面白いところです。後年の『おそ松さん』のように六人をくっきり別人格として押し出す以前の作品だからこそ、この第1作ではそっくりな兄弟が入り乱れる騒がしさと、それでも不思議と誰が話しているか分かる演技が両立しており、その土台を支えたのが当時の声優陣だったと言えます。
加藤みどりのおそ松は、主役として前に出すぎず、六つ子全体の入口になる自然さがある
おそ松役を務めた加藤みどりの演技は、この作品の顔として非常に重要です。おそ松は長男ではあるものの、重々しい主人公ではなく、六つ子騒動の先頭に立ちやすい、軽くて身近な存在として描かれます。そのため声にも押しつけがましい主役感より、子どもらしい元気さと、どこか抜けた親しみやすさが求められます。加藤みどりの声にはそのバランスがあり、目立ちすぎず、それでいて番組の入口としてしっかり耳に残ります。しかも同じ加藤みどりがハタ坊も担当しているため、単なる少年役のうまさだけでなく、作品世界そのものに溶け込みながら別の変わり者まで演じ分ける器用さも感じられます。視聴者の印象としては、おそ松が何かを言い出すと六つ子の騒ぎが始まる、という感覚が自然に成立しており、その自然さは加藤みどりの押しつけない芝居があってこそです。主役だから強く張るのではなく、集団劇の先頭に立つ軽さを保つ。その加減が、この第1作のおそ松の聞き心地をとても良くしています。
六つ子の配役分担は、似ている兄弟を「少しずつ違って聞こえる集団」に変える工夫だった
カラ松とチョロ松は鈴木恵美子から山本圭子へと引き継がれ、一松とトド松は北浜晴子、十四松は東美枝が担当しました。この並びを見ると、第1作の六つ子は一人ひとりを完全に独立したスターとして押し立てるというより、数人単位の音色のまとまりで全体像を作っていたことが見えてきます。つまり六つ子は、六本の完全に別個の線ではなく、似た者同士の群れとして聞かせながら、その中に少しずつ違う温度を混ぜていたのです。カラ松とチョロ松を同系統の声でまとめることで兄弟感を強め、一松とトド松を同一声優で処理することで見分けづらささえ作品の味として取り込む。十四松だけを独立した響きで置くことで、動きや反応の弾みが出やすくなる。この構成はかなり合理的で、六つ子という設定がギャグとして機能するための音響設計にも見えてきます。視聴者は厳密な名前を全部覚える前でも、集団としての六つ子の勢いを耳から理解できるわけで、その意味でも声優の分担は単なる配役表以上の意味を持っていました。なおカラ松には白石冬美が代役として入った時期もあり、長期放送ならではの柔軟な運用も感じられます。
白石冬美のトト子は、かわいさ一辺倒ではなく、場面を軽やかにひっくり返す力がある
トト子役として印象的なのは白石冬美で、第5話、第10話から第41話、第63話から最終話まで担当し、一部の話数では沢田和子が演じています。トト子は六つ子やチビ太たちにとって憧れの相手ですが、第1作ではただ守られるだけのヒロインではありません。周囲が勝手に熱くなるのを、やや引いた位置から受けたり、時にはさらりといなしたりする軽快さがあり、その存在があるだけで男の子たちの見栄や空回りが際立ちます。白石冬美の声は、そのトト子のかわいさとさっぱりした強さの両方を感じさせやすく、甘すぎないため、六つ子の世界にうまくなじみます。だから視聴者も、トト子をただのマドンナとして見るのではなく、騒動の空気を切り替える人物として受け取りやすかったはずです。配役変更があってもキャラクター性が崩れにくいのは、トト子という役が場面の華であると同時に、男の子たちの滑稽さを照らす役として機能していたからでしょう。
小林恭治のイヤミは、嫌味な人物をただ嫌なだけで終わらせない名演の代表格
イヤミ役の小林恭治は、第1作『おそ松くん』の声優陣の中でも特に作品の印象を決定づけた存在です。イヤミは見栄っ張りで気取り屋で、自分を大きく見せようとしては失敗する人物ですが、こうした役は演じ方を間違えると単に鼻につくだけになりかねません。ところが小林恭治の芝居には、いやらしさの中に妙な愛嬌と間の良さがあり、視聴者はイヤミに腹を立てるよりも、むしろ「また調子に乗っている」「どうせ最後は転ぶだろう」と期待しながら見られるようになります。声に含まれる大げささ、ハッタリ、滑稽さが絶妙で、イヤミがしゃべった瞬間に場面の空気が変わるのです。第1作のイヤミは、キャラクターの設定だけで人気になったのではなく、小林恭治が嫌味な男を楽しい見世物に変えたからこそ、六つ子に匹敵する記憶の残り方をしたのだと思います。
チビ太の声の交代は、長期放送の中でキャラクターの勢いを保つ変化にもなっていた
チビ太は第1話から第50話を田上和枝、第51話から第76話などを水垣洋子、その後の複数話数を沢田和子が担当しており、第1作の中でも比較的はっきりした交代が見られる役です。チビ太というキャラクターは、小柄で生意気で、すぐ怒って反発し、六つ子とも真っ向からぶつかるエネルギーが魅力です。そのため声にも、可愛らしさだけではなく、短気さ、反射的な反抗心、意地っ張りな熱が必要になります。演者が変われば当然ニュアンスも少しずつ変わりますが、この役ではむしろそれが長期シリーズの中で細かな温度差を生み、チビ太の勢いを保つ結果にもつながっていたように見えます。どの時期でもチビ太は押されるだけでは終わらない子として成立しており、六つ子に対する抵抗感の強さがきちんと残っています。視聴者にとっても、チビ太の声はただ高いだけの少年声ではなく、怒りや悔しさがすぐ吹き出す音として記憶されやすく、その感情の直線性がキャラクターの魅力を支えていました。
両親や脇役たちの声が変わっても、作品世界の調子が崩れにくいのは役の機能が明確だから
第1作では六つ子やメイン脇役だけでなく、かあさん、とうさん、デカパン、ダヨーンといった周辺人物にも交代があります。かあさんは麻生みつ子から近藤高子へ、とうさんは八奈見乗児から一時期小林恭治、のちに鈴木泰明へ、デカパンは神山卓三から和久井節緒へ、ダヨーンは神山卓三から大竹宏へと受け継がれています。それでも作品全体の印象が大きく壊れないのは、それぞれの役どころが非常に明快だからです。かあさんは家庭の土台としての温かさ、とうさんは少し頼りない家長らしさ、デカパンは大らかさと妙な脱線、ダヨーンは出てきただけで空気をずらす不思議さ、というように、役の機能が先にはっきりしているため、声質が多少変わってもキャラクターの芯が見えやすいのです。むしろ視聴者は、細かな差よりもこの人が出てきたらこういう空気になるというほうを強く覚えるので、長期放送の中でも世界観が保たれやすかったのだと思います。こうした構造は、声優の個人技だけでなく、キャラクター設計と演出のわかりやすさがしっかりかみ合っていたことを示しています。
視聴者の印象に残るのは、有名声優が出ていること以上に声で騒ぎが見えること
『おそ松くん(第1作)』の声優について最終的に言えるのは、この作品が声優名鑑的な豪華さで記憶されるというより、声を聞くだけで騒がしい場面が頭に浮かぶタイプのアニメだということです。六つ子のわらわらした押し寄せ方、イヤミの大げさな自己主張、チビ太の反発、トト子の軽やかさ、ハタ坊やダヨーンの妙なズレ。これらが全部、まず声で分かるように作られていました。しかも第1作は白黒作品であり、現代のような情報量の多い映像演出で押す時代ではないからこそ、音の印象がキャラクターの存在感に直結していました。その意味で本作の声優陣は、キャラクターを演じるというより、赤塚ギャグの混線した世界を耳から成立させる役目を担っていたのです。視聴者が後年この作品を思い出すとき、単に誰が演じていたかだけでなく、あのしゃべり方、あの言い回し、あの騒がしさが一緒によみがえるのは、その仕事が非常に的確だった証拠でしょう。第1作の声優陣は、後世のシリーズに先立って、おそ松くんはこう聞こえる作品だという原型をしっかり作り上げたのです。
[anime-5]
■ 視聴者の感想
昔の作品だから見るのではなく、勢いのあるギャグとして今でも見られている
『おそ松くん(第1作)』に対する視聴者の感想をたどっていくと、まず目立つのは「古典だからありがたく見る」という受け止め方よりも、「今見ても単純に楽しい」「頭を空っぽにして見られる」という率直な反応です。白黒作品で、テンポや絵の作りも現代のテレビアニメとはかなり異なるにもかかわらず、六つ子が一斉に騒ぎ出すだけで画面のエネルギーが立ち上がり、そこへイヤミやチビ太が加わることで、時代差を飛び越えるような笑いが生まれています。後年のレビューでも、理屈抜きで見られること、そして見始めると意外なほど引き込まれることが繰り返し触れられており、本作が単なる資料的価値だけで残っているのではなく、ちゃんと娯楽として機能する昭和ギャグアニメとして受け止められていることが分かります。加えて、この作品は六つ子とイヤミやチビ太たちが巻き起こす大騒ぎが中心なので、見る側も難しく構えず、キャラクターの勢いをそのまま楽しみやすいのです。
視聴者が特に面白がるのは、六つ子の似ているのに違って見えるところ
第1作を見た人の感想の中で、非常に『おそ松くん』らしいものとして挙げられるのが、「六つ子の見分けが最初はつかないのに、見ているうちに何となく違いが分かってきて面白い」という反応です。もともとこの作品は、そっくりの兄弟が六人いることそのものをギャグの出発点にしており、外見上の区別のつかなさが、いたずら、取り違え、集団行動の可笑しさへとつながっています。ところが実際に映像で見ると、声の調子やリアクションの向き、場面での立ち位置の違いから、視聴者は少しずつ「ただ同じ顔が六つ並んでいるだけではない」と感じ始めます。この作品がキャラの深い設定説明なしに、動きと声だけで違いを感じさせるアニメとして成功していることが、こうした感想からもよく分かります。
実質的な主役はイヤミではないかという見方が出るほど脇役が強い
『おそ松くん(第1作)』の感想でとても象徴的なのが、「六つ子が主人公のはずなのに、見ているとイヤミの存在感がものすごい」という見方です。これは単なる冗談ではなく、本作の視聴体験そのものをよく表しています。六つ子が騒ぎを起こす物語である一方で、イヤミが登場すると話の方向が急にねじれ、見栄、ハッタリ、空回りといった別種の笑いが加わります。そのため、視聴者の印象としては、六つ子が物語の土台を作り、イヤミが毎回そこへ強烈な味付けをするように見えやすいのです。こうした感想は決して六つ子の存在感が弱いという意味ではなく、それだけ脇役たちが強烈で、群像ギャグとしての完成度が高いという評価につながっています。
チビ太にはかわいそうではなく、かわいい、放っておけないという声が集まりやすい
チビ太に対する視聴者の感想も、この作品の特徴をよく表しています。普通なら、乱暴に扱われたり、六つ子やイヤミに振り回されたりする小柄なキャラクターは気の毒な役として見られがちです。ところが『おそ松くん』では、チビ太はただやられるだけの存在ではなく、すぐ怒り、すぐ反発し、しぶとく食い下がるため、見ている側に妙な愛着を抱かせます。チビ太をかわいいと感じる声や、チビ太が中心の回を特に好きだとする反応が出やすいのも、彼が単なる被害者役で終わっていないからです。むしろ視聴者は、チビ太が怒りながらも懸命に抵抗する姿に、この作品ならではの小気味よさを感じているのでしょう。こうした評価は、六つ子とチビ太の関係が一方的ないじめではなく、毎回ちゃんとぶつかり合う笑いとして成立しているからこそ生まれるものです。
不条理で雑然としているのに、なぜか見続けたくなるという感想が多い
第1作に対する感想を読んでいると、「不条理」「雑多」「まとまりすぎていない」といった印象がしばしばにじみます。しかし興味深いのは、それがマイナス評価としてだけ働いていないことです。たしかに本作は、現代の脚本術で整理された起承転結が毎回きれいに積み上がるタイプではなく、思いつき、横入り、脱線、勢いで押し切る場面が多くあります。けれど、そのまとまりきらなさこそが昭和ギャグアニメらしい魅力として受け止められており、視聴者は、整いすぎた笑いではなく、少し乱暴で、でも妙に勢いのある世界に惹かれているのです。だからこそ、「古いのに見やすい」「雑だけど面白い」という一見相反する感想が同時に生まれやすい作品になっています。
好きな回の感想を見ると、単なるドタバタ以上の妙な情感が残ることも分かる
『おそ松くん(第1作)』は基本的にはギャグアニメですが、視聴者の感想を見ていくと、ただ笑っただけでは終わらない回が記憶に残っていることも分かります。たとえばチビ太が中心になる話を特に推す声があったり、いつもの作品らしさから少し外れたようなエピソードが印象に残るという反応が見られたりします。これは本作が単純な一発ギャグの連続ではなく、キャラクターへの愛着や、場面ごとのちょっとした温度差をきちんと残している証拠です。六つ子やイヤミがどれだけ騒いでも、視聴者はただうるさいだけとは感じず、その中から自分なりの好きな場面や好きな回を見つけている。そうした感想の積み重ねは、この作品が長い年月を経ても語られる理由のひとつでしょう。古い作品なのにどの回が好きかという話になりやすいのは、それだけ各話に独自の手触りがあるからです。
総合すると、視聴者は第1作を完成された名作より勢いと個性の塊として愛している
視聴者の感想を総合すると、『おそ松くん(第1作)』は、洗練された脚本や精密なキャラクター造形のアニメとして褒められているというより、勢いがすごい、キャラが強い、理屈抜きに見てしまう作品として愛されていることがよく分かります。六つ子のやんちゃさ、イヤミの異様な存在感、チビ太の反発心、白黒画面ならではのシンプルな見やすさ、そして昭和のテレビ漫画独特の雑然とした熱気。そうした要素が混ざり合って、現代の視聴者にも「昔の作品なのに意外と見やすい」「今のアニメにはない味がある」という感想を抱かせているのです。つまり視聴者はこの作品を、教科書的な名作としてではなく、今なお元気に暴れ回る昭和ギャグの生きた標本として楽しんでいるのでしょう。
[anime-6]
■ 好きな場面
六つ子が一斉に動き出した瞬間に生まれる、他の作品にはない騒がしさ
『おそ松くん(第1作)』を見た人が好きな場面としてまず思い浮かべやすいのは、やはり六つ子がそろって画面の中を走り回り、ひとつのいたずらや思いつきが一気に膨れ上がる場面です。この作品では、誰か一人の名場面というより、六人が同時に動くことで初めて成立する面白さが非常に大きく、そこが視聴者の記憶にも強く残ります。見た目がほとんど同じ兄弟たちが、同じ方向へ突進したり、途中でバラバラに散ったかと思えばまた集まったりするだけで、画面には独特の圧力が生まれます。現代のアニメのように細かくキャラクターごとの感情線を追わなくても、集団で騒ぎを起こす勢いそのものがひとつの見どころになっているのです。だから『おそ松くん』の好きな場面を語る人の多くは、「この回のここで感動した」というより、「六つ子が全力でバカをやっている場面がたまらない」という感覚で作品を思い出しやすいのでしょう。六人のそっくりな顔が一斉に表情を崩し、一斉に失敗し、一斉に逃げ回る。そんな場面には、整いすぎていないからこそ生まれる生々しい可笑しさがあり、第1作全体の魅力を最もわかりやすく体現しています。
イヤミが調子に乗り、結局は転がり落ちていく場面は何度見ても強い
視聴者の好きな場面として非常に挙がりやすいのが、イヤミが得意げに登場し、場をかき回し、最後にはきれいに失敗する一連の流れです。イヤミはただ嫌味なだけの人物ではなく、自分を大きく見せようとする見栄と妙な自信が常に先走っているため、彼が出てきた瞬間に「今回は何をしでかすのか」という期待が生まれます。そしてその期待はたいてい裏切られません。口先だけで格好をつけたかと思えば、六つ子やチビ太にやり返され、時には自分の立てた計画に自分で巻き込まれ、最後にはみじめで滑稽な姿に落ち着く。その一連の過程が視聴者にとって大きな快感になっています。好きな場面として印象に残るのは、彼が成功する瞬間ではなく、むしろ調子に乗っている最中の芝居がかった態度と、それが崩れた瞬間の落差です。第1作のイヤミは、悪役らしい悪役というより、転ぶことが予定されている道化に近く、その転び方の気持ちよさが名場面を作っています。だからこそ、イヤミが前に出る回はそれだけで見どころがはっきりし、視聴者の印象にも残りやすいのです。彼の存在は単なる脇役の味付けではなく、好きな場面を量産するためのエンジンのような役割を果たしていました。
チビ太が怒って向かっていく場面には、笑いと応援したくなる気持ちが同時にある
『おそ松くん(第1作)』の好きな場面を語るうえで、チビ太が見せる反発の瞬間も外せません。体が小さく、六つ子の人数にも押されそうなのに、それでも黙ってやられているだけでは終わらない。悔しければ怒り、からかわれれば食ってかかり、自分なりの意地でやり返そうとする。その場面には、単なるドタバタではない感情の熱があり、視聴者は笑いながらもついチビ太の側に気持ちを寄せてしまいます。面白いのは、彼が完全な勝ち組になることは少なくても、反発する姿そのものが見どころになっていることです。やられてもすぐ立ち直り、口では負けず、しぶとく画面の中へ食い込んでくるので、チビ太が前に出た場面は独特の強さを持ちます。視聴者の好きな場面として挙がりやすいのも、彼が大きく状況を変える瞬間というより、理不尽な相手に向かっていくその姿勢そのものです。六つ子の騒ぎが集団の圧なら、チビ太の見せ場はひとりで逆らう小さな爆発です。この対比が非常に気持ちよく、だからこそチビ太の怒り顔や必死さを含んだ場面は、第1作を思い出すときの大きな記憶の核になります。
トト子が現れたとたんに空気が変わる場面は、子どもらしい背伸びの可笑しさが詰まっている
好きな場面として語られやすいものの中には、六つ子やチビ太、イヤミたちがトト子の前で急に格好をつけ始める場面もあります。普段は無茶苦茶なことばかりしている面々が、トト子がいるだけで急に自分をよく見せようとし、張り切りすぎたり、見栄を張ったり、結局は失敗したりする。この流れには、『おそ松くん』ならではの子どもっぽい可笑しさが凝縮されています。恋愛ドラマのような本格的な感情の揺れではなく、好きな子の前で少しでもよく見られたいという単純な気持ちが、かえってその人物の滑稽さを強く見せてしまうのです。視聴者はトト子そのものの華やかさを楽しみながら、同時に彼女の前で妙に落ち着かなくなる男の子たちの幼さにも笑わされます。トト子が出ると場面が少し明るくなり、六つ子やチビ太のいつも通りのバカ騒ぎが別の色を帯びるため、好きな場面としても印象に残りやすいのでしょう。派手なアクションや大きな事件がなくても、ただ登場人物たちの態度が変わるだけで面白くなる。そこにこの作品の群像劇としての強さがあります。
日常の小さな出来事が、ありえない規模の騒動へ変わる瞬間がたまらない
『おそ松くん』の名場面は、何か特別な設定が入った回だけにあるわけではありません。むしろ、最初はごく普通の出来事から始まるのに、それがどんどん妙な方向へ転がっていく瞬間に、この作品の面白さがもっとも濃く出ます。ちょっとした見栄、ちょっとした金もうけの発想、ちょっとした勘違い、ちょっとしたいたずら。そんな小さな火種が、六つ子の数の多さと周囲の人物たちの濃さによって、あっという間に大騒ぎへ変わっていくのです。視聴者が好きな場面として記憶しやすいのも、話の最初の発端より、「あ、ここからおかしくなるぞ」と感じるあの転換点ではないでしょうか。話が一段階おかしくなり、もう普通には戻れないとわかったとき、画面には独特の高揚感が生まれます。その感覚は非常に気持ちよく、毎回似た構造のようでいて、どこで爆発するかが少しずつ違うから飽きません。好きな場面というのは、必ずしも結末ではなく、騒ぎが本格化した瞬間に宿るのだと、この作品はよく分からせてくれます。
ハタ坊やダヨーン、デカパンが出てきたときの説明不能なズレも印象に残る
第1作『おそ松くん』の好きな場面を深く語ろうとすると、六つ子やイヤミやチビ太だけでなく、ハタ坊、ダヨーン、デカパンといった面々が出てきた場面の独特な味も無視できません。彼らは必ずしも毎回話の中心になるわけではありませんが、出てきただけで画面の空気を少しずらしてしまう力を持っています。ハタ坊の妙にのんきな存在感、ダヨーンの姿そのものが持つ不条理、デカパンの包容力があるようでいて妙に話を変な方向へ運んでしまう感じ。これらは説明しようとすると少し難しいのですが、見た人の記憶にはかなり強く残るタイプの見どころです。つまり彼らの名場面は、何か大事件を解決することではなく、画面の調子を突然おかしくすることにあります。視聴者はそのズレを理屈で理解する前に、感覚的になんだか面白いと受け取ります。そして、その感覚的な面白さこそが昭和ギャグアニメらしい魅力でもあります。後年の作品と比べても、第1作にはこうした説明不能だけど忘れにくい場面が多く、それが作品の後味をより豊かにしています。
最終回付近に感じるのは感動の大団円より、この騒がしさが続いてきたことへの愛着
『おそ松くん(第1作)』の好きな場面や印象に残った場面を語るとき、最終回そのものに特別な感動を見出す人もいれば、むしろ終盤に至るまでの空気全体を好きだと感じる人もいます。この作品は、一本の大きな物語がついに完結するタイプではないため、最後に劇的な別れや強い感動が置かれているわけではありません。けれどその代わりに、六つ子たちとその周囲の面々が、これまでずっと同じように騒ぎ続けてきたことへの親しみが残ります。最終回付近の印象は、「ついに物語が終わった」というより、「このにぎやかな連中を見られなくなるのが少し寂しい」という感覚に近いのです。視聴者にとっての好きな場面も、特別に泣けるシーンというより、最後まで変わらずバタバタしているその調子そのものに宿っているのかもしれません。だから『おそ松くん』の終わり方には、強い締めくくりというより、長く続いた騒がしい日常に区切りがつくような余韻があります。そしてその余韻があるからこそ、好きな場面を振り返ったとき、個々のギャグ以上に「この世界全体が好きだった」と感じる人が多いのでしょう。
結局いちばん好きな場面は、誰か一人ではなく、みんなが一緒に騒いでいる瞬間に集約される
いろいろな視点から『おそ松くん(第1作)』の好きな場面を考えていくと、最後にはやはり、この作品の魅力は特定の名シーンだけにあるのではなく、六つ子、イヤミ、チビ太、トト子、ハタ坊、デカパン、ダヨーンたちが入り乱れて一斉に騒いでいる瞬間そのものにあるのだと分かります。誰かが目立っているように見えても、実際には別の誰かが横から入り、さらに第三の人物が場面をひっかき回し、最後にはみんなが巻き込まれて収拾がつかなくなる。この全員参加型の混乱が、本作を唯一無二のものにしています。視聴者が記憶する好きな場面も、細かく切り取ればいくらでもあるはずですが、それらはすべてこの作品特有の騒がしさへ戻っていきます。つまり『おそ松くん(第1作)』における名場面とは、何かひとつの決定的な瞬間ではなく、騒ぎの渦の中でキャラクターたちがそれぞれの役割を全力で果たしている時間そのものなのです。その意味でこの作品は、好きな場面をひとつに絞りにくい代わりに、「この感じがたまらない」と言いたくなる瞬間が何度も訪れるアニメでした。そして、その何度も訪れる楽しさこそが、半世紀以上を経てもなお語られる理由になっているのだと思います。
[anime-7]
■ 好きなキャラクター
この作品は主人公人気が一極集中しないところが面白い
『おそ松くん(第1作)』の好きなキャラクターについて考えると、この作品には他のアニメとは少し違う特徴があります。それは、主役である六つ子に人気が集まるだけでは終わらず、イヤミやチビ太、さらにはトト子、ハタ坊、デカパンのような周辺人物まで含めて、視聴者の推しどころがかなり分散しやすいことです。普通なら主人公が中心に愛され、脇役はその補助として記憶されやすいものですが、『おそ松くん』ではむしろ、誰がいちばん好きかという問いに対して答えが割れやすい。それは作品全体が群像ギャグとしてできていて、誰か一人だけが長く画面を支配するのではなく、場面ごとに目立つ人物が入れ替わるからです。六つ子のいたずらっぽさに惹かれる人もいれば、イヤミの厚かましさと転落の気持ちよさを好む人もいる。チビ太の反発心に愛着を抱く人もいれば、トト子の明るさやハタ坊の妙な存在感に心をつかまれる人もいる。この好きが割れる豊かさこそが、第1作『おそ松くん』のキャラクター人気の面白さです。
六つ子が好きだという人は、ひとりより六人でいる感じに惹かれている
六つ子を好きなキャラクターとして挙げる視聴者の感覚は、後年のシリーズのように「この兄弟のこの性格が好き」と細かく分かれるものとはやや違っています。第1作では、六つ子は個別の性格づけがまったくないわけではありませんが、それ以上に六人でいることそのものが魅力になっています。見た目がほとんど同じ兄弟がわらわらと集まり、誰かひとりが悪ふざけを始めると全員の勢いになり、いたずらも失敗も六倍に膨れ上がる。この集団としてのにぎやかさに惹かれて、「誰が好きかと聞かれたら六つ子全体が好き」と感じる人は少なくありません。つまり六つ子人気とは、ひとりのスター性に対する好意ではなく、兄弟がまとまって騒いでいるときの空気そのものへの愛着なのです。画面いっぱいに同じ顔が並んで走り回るだけで面白く、しかも見ているうちに何となく反応の違いも感じられてくる。この似ているのに違って見える面白さが、六つ子という集団の人気を支えています。主役として特別に格好いいわけでもなく、立派でもなく、むしろやんちゃで落ち着きがないからこそ、視聴者はそこに子どもらしい自由さを感じ、好きになっていくのでしょう。
おそ松が好きな人は、代表者なのに偉そうではない軽さに惹かれやすい
六つ子の中でもおそ松を好きだと感じる人は、長男らしい威厳よりも、六つ子の顔として前に立ちながら偉そうには見えない、その気軽さに魅力を見いだしていることが多いはずです。おそ松は、いかにも主役然とした大人物ではなく、ちょっと調子がよく、面白そうなことがあればすぐに首を突っ込み、兄弟たちを巻き込みながら騒動の入口になる存在です。そのため、見ている側も彼に対して距離を感じにくく、「いちばん先に何かやりそう」「この兄弟たちの代表としてしっくりくる」と感じやすいのです。誰かを引っ張るというより、最初に走り出すから結果的にみんながついてくる。そんな軽い先頭役としてのおそ松は、第1作の空気にとてもよく合っています。好きなキャラクターとしておそ松を選ぶ感覚には、個性の強烈さを求めるよりも、六つ子という作品世界の入口をもっとも自然に担っている人物への親しみがあるのでしょう。彼は目立ちすぎないのに、いないと六つ子のまとまりが少し弱く感じる。そういう意味で、おそ松は派手な人気というより、作品全体を好きな人ほどじわじわ愛着を持ちやすいキャラクターだと言えます。
イヤミが好きだという声は、嫌なやつなのに見てしまう快感そのものを示している
第1作『おそ松くん』で好きなキャラクターとして非常に強く挙がりやすいのがイヤミです。これは少し不思議な現象でもあります。なぜならイヤミは、性格だけを見れば見栄っ張りで、鼻につき、金に細かく、自分を大きく見せたがる、決して素直に好かれやすい人物ではないからです。それでも視聴者がイヤミを好きになるのは、彼が単なる嫌味な人物ではなく、嫌味さそのものが見世物として完成しているからでしょう。自称おフランス帰り、独特の言い回し、いちいち芝居がかった振る舞い、そして調子に乗ったぶんだけきれいに転ぶ流れまで含めて、イヤミは非常に完成度の高いトラブルメーカーです。視聴者は彼に共感するのではなく、彼が出てきた瞬間に場面が面白くなることを知っているからこそ惹かれます。好きなキャラクターとしてイヤミを選ぶ人は、たぶん良い人だから好きではなく、出てくると絶対に面白いから好きという感覚で彼を支持しているのです。
チビ太を好きになる理由は、かわいさより先に意地っ張りの愛おしさにある
チビ太を好きなキャラクターとして挙げる視聴者は、とても多いはずです。ただし、その好意は単純に小さくてかわいいからというだけではありません。チビ太の魅力は、むしろ小さいのに一歩も引かず、六つ子に対してもイヤミに対しても、自分の不利を分かったうえで反発し続ける意地の強さにあります。背が低く、見た目にも弱そうで、周囲からからかわれやすい立場にいるのに、本人はまるで負け犬の顔をしない。むしろ「やれるものならやってみろ」というような勢いで突っかかっていくので、見ている側は自然と応援したくなります。だから視聴者がチビ太を好きになるのは、守ってあげたいからというより、しぶとくて面白くて、見ていて飽きないからです。やられてもへこたれない、怒ってもどこか可笑しい、しかも時々妙に可愛い。この複雑な手ざわりがあるからこそ、チビ太は第1作の中でもかなり強い人気を保ち続けるキャラクターになっています。
トト子が好きだという人は、ヒロイン性より空気を変える明るさを見ている
トト子を好きなキャラクターとして挙げる人の感覚も、とても『おそ松くん』らしいものです。彼女はたしかに六つ子やチビ太にとって憧れの相手であり、作品の中で華のある存在ですが、単にかわいい女の子として記憶されているわけではありません。トト子が出てくると、それまでただの悪ふざけだった場面に少しだけ背伸びや見栄が入り、男の子たちの子どもっぽさがいっそう際立ちます。つまり彼女は、恋愛対象として画面にいるというより、周囲の人物の滑稽さや未熟さを自然に引き出す役目を持っています。そのため、トト子が好きだという人は、見た目の可愛らしさよりも、場面に明るさを足し、ギャグの質を少し変えるその存在感に惹かれていることが多いでしょう。視聴者から見たトト子は、ただ追いかけられるだけのマドンナではなく、騒がしい男の子たちを軽やかに翻弄する空気の持ち主です。そうした軽さと華やかさがあるから、作品全体が男の子どうしの乱暴な騒ぎだけで終わらず、少しだけ柔らかく、親しみやすいものになっています。
ハタ坊やデカパンが好きな人は、理屈を超えたいるだけで面白い感じを愛している
好きなキャラクターという話になると、どうしても六つ子、イヤミ、チビ太、トト子が中心になりがちですが、『おそ松くん』らしさを深く味わっている人ほど、ハタ坊やデカパンのような一見わき役に見える人物へ強い愛着を示しやすい印象があります。彼らの魅力は、何か大きなドラマを背負っていることではなく、出てきた瞬間に作品世界の空気を赤塚的な不条理へ寄せてしまうところにあります。ハタ坊は見た目からして妙なのに、さらに独特の口調とのんきさが重なることで、理屈抜きの可笑しさを作ります。デカパンは包容力があるようでいて、結局は本人も変で、常識人のような顔をしながら話を妙な方向へずらしていきます。こうしたキャラクターを好きになる人は、派手な活躍よりも、「この人がいると世界が少しおかしくなる」という作用そのものに惹かれているのです。説明は難しいけれど、出てくると嬉しい。何かをしたわけでもないのに印象に残る。そうした場の味としての人気があるのも、第1作『おそ松くん』のキャラクターの層の厚さを感じさせます。
結局、いちばん好きなキャラクターを決めにくいこと自体が、この作品の強みになっている
『おそ松くん(第1作)』の好きなキャラクターについて最後に言えるのは、「誰がいちばん好きか」をひとりに決めにくいことそれ自体が、この作品のキャラクター造形の成功を物語っているということです。六つ子には集団としての元気さがあり、イヤミには場を支配する強烈さがあり、チビ太には意地っ張りの愛嬌があり、トト子には華があり、ハタ坊やデカパンたちには理屈抜きの妙味がある。どの人物にも、別の誰かにはない役割がきちんとあり、しかもそれが単なる設定ではなく、画面の中での動きや空気の変え方として見えてきます。だから視聴者は、主人公だけを追いかけるのではなく、その日の気分や見返した回によって好きな人物が揺れやすい。あるときはイヤミが最高に思えても、別の回ではチビ太が愛おしくなり、また別の回では六つ子全体のバカっぽさがたまらなくなる。そういう揺れ方が許されるのが、『おそ松くん』という作品のとても豊かなところです。好きなキャラクター論が割れる作品は、たいていキャラクター全体の出来がいい。第1作『おそ松くん』もまさにその典型で、誰を好きになってもちゃんとその理由が見つかる、懐の深い群像ギャグアニメだったのです。
[anime-8]
■ 関連商品のまとめ
映像関連商品
『おそ松くん(第1作)』の関連商品を語るうえで、いちばん筋道を追いやすいのは映像ソフトです。第1作は放送終了からかなり長い時間を置いてから家庭向け商品として再評価されており、まずVHS化、その後2001年には『おそ松くん オリジナル版 DVDコレクション』が発売され、原画やインタビュー系の特典を含んだ保存版として展開されました。さらに2002年から2003年にかけて単巻系のDVDが追加され、2016年には赤塚不二夫生誕80周年とテレビ放送50周年の節目に合わせて、全104話を全6巻へ再編成した再発売も行われました。つまり映像商品は、放送当時のリアルタイム商品というより、後年になってから昭和ギャグアニメの名作をきちんと手元に置くための保存版・再整理版として厚く育ってきたジャンルだと言えます。豪華BOX、特典付き初期DVD、記念年の廉価再版という流れがあるため、映像関連はコレクター需要と視聴需要の両方を支えやすい分野になっています。
書籍関連
書籍関連については、第1作アニメ単独のムックや設定資料が大量に整備されたというより、まず原作漫画そのものの単行本展開が長く土台になってきたと見るほうが自然です。『おそ松くん』は曙出版版で大きな全集としてまとまりがあり、長期にわたり読み継がれてきました。つまり書籍商品としては、アニメの副読本より先に原作を読んで世界観を補完する流れが強かった作品です。そのうえで、後年になるとテレビ絵本系や児童向けの読み物も周辺商品として見られるようになり、アニメ絵だけで閉じるよりも、原作コミックス、再録本、児童向け派生本へと幅広く伸びたタイプと言えます。キャラクターの顔が強い作品なので、読む本も物語の解説書より、キャラをもう一度味わう本に寄りやすく、イヤミやハタ坊、チビ太など脇役が表紙や巻タイトルに前へ出やすいのも、この作品らしいポイントです。
音楽関連
音楽商品は、第1作『おそ松くん』の関連商品群の中でもかなり個性的です。テレビ本編の中心楽曲は「おそ松くんのうた」と後期主題歌ですが、商品として目立つのは当時の朝日ソノラマ系音源や、その復刻盤です。実際に知られている音源には、「おそ松くんのうた」「おそ松くん音頭」「おそ松くんボクサー・マーチ」「おそ松くんかぞえ歌」「シェーの歌」などが並び、ソノシート文化の中で『おそ松くん』がかなりにぎやかに音盤化されていたことが分かります。また、後年の赤塚不二夫アニメ関連コンピレーションや生誕記念盤にも『おそ松くん』楽曲が収録されており、単独サントラ型ではなく、赤塚ワールドの音楽遺産として再編集される傾向が強いのも特徴です。つまり音楽関連商品は、ひとつの豪華アルバムに集約されるより、主題歌・ソノシート・記念コンピ盤という形で断続的に残ってきたジャンルです。歌そのものが作品のにぎやかさを担っているため、レコードやCDの魅力も、名曲としての完成度だけではなく、あの騒がしさを耳で持ち帰れることにあります。
ホビー・おもちゃ
ホビー・おもちゃの分野では、第1作の時代感と赤塚キャラの強さがそのまま商品化の形に出ています。確認しやすいのは、ソフビ系、キーホルダー系、おしゃべり人形系の立体物です。こうした玩具は、単独フィギュアというよりも昭和キャラ玩具の文脈で並べて集めたくなる商品が多く、リアル造形や高級フィギュアよりも、顔の記号性、ポーズの可笑しさ、キャラ名だけで通じる親しみを前面に出した商品と相性がいいのが特徴です。しかもイヤミ、チビ太、ハタ坊などは輪郭だけでも判別しやすいため、小さな玩具でも成立しやすい。結果として、おそ松本人だけが中心になるより、脇役を含めた赤塚キャラ群として展開される傾向が強くなります。玩具としての豪華さより、見た瞬間に笑ってしまうキャラの強さが勝つ。この作品のホビー商品の魅力はそこにあります。
ゲーム
ゲーム関連は、放送当時の1960年代商品よりも、後年のキャラクター展開として見たほうが分かりやすいジャンルです。代表例としては1989年発売のファミリーコンピュータ用『おそ松くん バック・トゥ・ザ・ミーの出っ歯の巻』があり、同系統でゲームボーイ版も知られています。つまり『おそ松くん』は、かなり後の時代になってから家庭用ゲーム機へ展開されたタイプで、アニメの商品展開が長命だったことを示しています。また、より軽い遊びのジャンルでは、トランプやポンジャンのようなアナログゲーム系商品も見られます。こうした傾向から言えるのは、『おそ松くん』のゲーム商品は本格的なシリーズ大量展開よりも、キャラの顔立ちやネタ性を生かして家族で遊ぶ玩具ゲームやファン向けの単発タイトルとして残りやすいということです。六つ子やイヤミ、チビ太といった顔の強いキャラクターは、カードやボード、パッケージイラストに載った時点で十分に商品価値を持つため、ゲーム性そのもの以上におそ松くんの世界を遊び道具にしたことが魅力になりやすいジャンルだと言えます。
食玩・文房具・日用品
この分野は、『おそ松くん』らしさが最も生活に近い形で現れる商品群です。水筒、弁当箱、シール、消しゴム、定規などの当時物・昭和レトロ品が確認されており、学校や家庭で使う持ち歩けるキャラ物として浸透していたことがうかがえます。とくにこの作品は、六つ子だけでなくイヤミやチビ太の顔も非常に分かりやすいため、文具や小物にしたときの訴求力が強い。難しい説明を添えなくても、「あ、イヤミだ」「チビ太だ」と一目で通じるので、子ども向け日用品との相性が良かったのでしょう。現在でもアルミ弁当箱、水筒、シール、消しゴムなど、まさに日用品寄りのものが目立ちます。これは本作の関連商品が、高級鑑賞物より日常で使ってこそ楽しいキャラクター商品として広がっていたことを示しています。しかも実用品は使われて傷みやすいため、今残っているだけでも希少性が出やすく、作品の親しみやすさとコレクション性の両方を背負うジャンルになっています。
お菓子・食品関連
お菓子・食品関連については、映像や書籍のように整理されたカタログが残っているというより、今の流通に残るおまけや販促の痕跡から傾向を読み取るのが現実的です。『おそ松くん』の食品系商品は、菓子そのものよりも、封入おまけ、景品、シール、ミニ玩具のような周辺部分が記憶されやすいタイプだったと考えられます。これは昭和キャラクター商品全般に共通する傾向でもあり、箱菓子や駄菓子は消費されて消えていく一方、付属していた小物だけが残って、後年のコレクターに発見されるからです。『おそ松くん』もまさにその流れに乗っており、食品ジャンルでは何を食べたかより何のおまけが付いていたかのほうが記憶と現物の両方で強く残る作品だと言えるでしょう。
総合すると、関連商品の魅力は六つ子の人気より赤塚ワールド全体の濃さにある
『おそ松くん(第1作)』の関連商品を全体で見ると、もっとも面白いのは、商品展開が六つ子だけに閉じず、イヤミ、チビ太、ハタ坊などを含めた赤塚ワールド全体で広がっていることです。映像は保存版、書籍は原作再読、音楽はソノシート文化、玩具は顔の強い立体物、ゲームは後年の単発展開、日用品は学校と家庭への浸透、お菓子はおまけ文化の名残というように、ジャンルごとに残り方がまったく違います。それでも共通しているのは、どの商品もキャラの輪郭が強いから成り立つという点です。きれいな設定画や壮大な物語がなくても、イヤミのシェーやチビ太の生意気さ、六つ子のわらわら感があるだけで、商品はちゃんとおそ松くんらしくなる。そこがこの作品の関連商品の最大の強みです。つまり本作の商品群は、単なる懐かしグッズの寄せ集めではなく、赤塚ギャグのキャラクター性が、映像・本・レコード・玩具・日用品へそれぞれ別の顔で染み出していった記録そのものなのです。
[anime-9]
■ オークション・フリマなどの中古市場
映像関連商品
映像関連商品は、中古市場の中では比較的見つけやすく、しかも価格差がかなり出やすいジャンルです。単巻やレンタル落ち系はかなり手に取りやすい一方、BOX物やオリジナル版表記のまとまったセットは一段高くなりやすい傾向があります。実際、中古市場では単巻DVDが数百円台から動くこともあれば、セット物や保存状態の良いまとまりは数千円台後半から一万円前後まで幅が出ることがあります。つまり映像ソフトは、視聴用なら安く拾いやすいが、きれいな揃い物や初期BOXはしっかり値が付くというのが今の中古市場の基本的な流れです。見るための実用品としての価値と、持っておくためのコレクション価値が同居しているため、同じ作品名でも価格がばらつきやすいジャンルだと言えます。
書籍関連商品
書籍関連は、映像よりも何を買うかで値動きがはっきり分かれます。原作コミックスや復刻系の流通量は比較的多く、普及版や読み直し用は比較的探しやすい部類です。一方で、1960年代当時の雑誌掲載号や古い別冊少年サンデー系の現物は別格で、保存状態や特集内容によって価格がかなり跳ねやすくなります。要するに本の中古市場では、読むための単行本は動きやすく、雑誌現物や古い掲載誌ほどプレミア感が出やすい、という二層構造になっています。全集ものや初期版は、ありふれてはいないが極端な一点物でもない中間の立ち位置にあり、状態や巻揃いで評価が変わりやすいのも特徴です。
音楽関連商品
音楽関連は、いわゆる高額CD市場というより、ソノシートや当時盤の昭和アニメ資料として動いている印象が強いです。出品数そのものは多すぎないものの、完全に途切れているわけでもなく、ソノシート付き本や当時物の小型盤がぽつぽつ現れます。このジャンルは再生して聴くためというより、紙物と盤が揃っているか、ジャケットや冊子が生きているかが価値を左右しやすく、盤面以上に完品性が重視されがちです。したがってレコード・ソノシート系は、相場そのものよりも、付属の欠けと紙の保存状態を見て判断する市場だと考えるのが自然です。少額で拾えるものもありますが、きれいに揃ったものは昭和アニメ文化の実物資料として一段高く見られやすいです。
ホビー・おもちゃ関連商品
玩具系は中古市場で最も振れ幅が大きいジャンルです。ソフビ、小型キーホルダー、おしゃべり人形のような立体系アイテムは、同じ『おそ松くん』でもキャラ、箱の有無、状態によって見え方がまるで変わります。箱付きの大きめソフビや、ギミック付きの玩具はかなり強い価格で出されることがある一方、裸の小物や小サイズのフィギュアは比較的現実的な価格で拾えることも少なくありません。とくにイヤミやチビ太のように造形として分かりやすいキャラは人気が安定しやすく、箱付き・未使用・作動要素ありの品はかなり強気に出される傾向があります。逆に、気軽な昭和レトロ集めとして楽しめる小物も同じ市場に並んでいるため、このジャンルは本気の一点狙いと、手頃なキャラ玩具集めが同時に成立する分野だと言えます。
ゲーム関連商品
ゲーム関連は、第1作アニメ放送当時の品というより、後年の家庭用ゲーム展開が中古市場で動いている形です。ファミコン版やゲームボーイ版は、ソフトのみなら比較的手に入れやすく、箱説付きや美品になるとぐっと価格が上がる、非常にわかりやすい市場です。さらにアナログ寄りの玩具ゲームでは、ポンジャンのような卓上系の商品もあり、こちらは出物自体が少なく、牌や説明書など付属品の揃いで評価が変わりやすいタイプです。つまりゲーム系は、家庭用ソフトのような実用品寄りの価格帯と、ボード・麻雀風玩具のような希少品寄りの価格帯が分かれていて、総じて完品かどうかが非常に重要です。とくに箱付きのファミコン系やアナログゲーム完品は、作品人気というより保存状態そのものが相場を大きく押し上げます。
食玩・文房具・日用品関連商品
食玩・文房具・日用品は、相場の高さそのものよりも、同じ物が二度と出ない感じが強いジャンルです。未使用タグ付きの水筒、未使用に近い弁当箱、シール、消しゴム、雑貨などがぽつぽつ現れ、価格よりもまず出会えるかどうかが大きなポイントになります。この手の品はDVDやゲームのように定番在庫になりにくく、生活用品が単発で現れるため、価格以上に出会い運の要素が強いです。しかも未使用やデッドストックに近い品は、使用前提の商品だけに残存率が低く、普通の中古と倉庫在庫のような美品で見え方が大きく変わります。この分野は、コレクターが高いから買うのではなく、次にいつ出るか分からないから押さえるタイプの商品群だと考えると実感に近いでしょう。
ヤフオクとフリマで見え方が少し違う
同じ『おそ松くん』関連でも、Yahoo!オークションとフリマ系では流れ方がやや違います。Yahoo!オークションは終了相場や比較がしやすく、DVDやファミコンのような数がある商品では相場をつかみやすい一方、ソフビや雑誌のようなコレクター品も強気の一点ものが出やすいです。それに対してフリマ系は、単巻DVD、ソフトのみFC、ソノシート付き本、水筒のような生活雑貨が細かく並びやすく、即売価格で感覚的な相場をつかみやすい反面、現行シリーズや別時代の商品が混ざりやすいので見極めが必要です。本当に第1作や昭和当時物を狙うなら、「1966年度版モノクロ作品」「オリジナル版」「昭和レトロ」「朝日ソノラマ」「チビ太」「イヤミ」などの補助語を入れて絞ると探しやすくなります。中古市場の傾向そのものだけでなく、検索語の選び方で見える景色が変わる作品だと言えます。
総合すると、中古市場で強いのは完品、当時物、キャラの濃さがそろった品
総合的に見ると、『おそ松くん(第1作)』の中古市場は、何でも極端に高騰しているタイプではありません。むしろ単巻DVDや読み用コミック、ソフトのみゲームのような実用品寄りのものは比較的入りやすく、一方で当時雑誌、ソノシート完品、箱付きソフビ、未使用の水筒や文具のように保存されにくかった物がきれいに残っているケースにだけ強く値が付きやすい市場です。しかも人気の軸は六つ子全員より、イヤミ、チビ太、昭和レトロ雑貨として映える顔の強いキャラへ寄りやすく、同じ『おそ松くん』でも作品を見たい人向けと昭和キャラ物を集めたい人向けで欲しい品が分かれています。だからヤフーオークションやフリマで狙う場合は、安く手に入る物が多いジャンルと、出たら押さえたい一品物のジャンルを分けて考えるのが大事です。作品そのものの知名度だけで相場が決まるのではなく、昭和資料性とキャラクター商品の濃さが値段を押し上げる。今の『おそ松くん』中古市場は、そういう非常にらしい動き方をしているのです。
[anime-10]■ 現在購入可能な人気売れ筋商品です♪
おそ松くん(1) 完全版 (竹書房文庫) [ 赤塚不二夫 ]




評価 5おそ松くん 全巻セット(文庫版全22巻)
【中古】おそ松くん 【完全版】 1/ 赤塚不二夫
おそ松くん(17) 完全版 (竹書房文庫) [ 赤塚不二夫 ]




評価 5おそ松くん(22) 完全版 (竹書房文庫) [ 赤塚不二夫 ]




評価 5【中古】おそ松くん 【完全版】 3/ 赤塚不二夫
おそ松くん(21) 完全版 (竹書房文庫) [ 赤塚不二夫 ]




評価 5


























