【中古】《ジャンク扱い》《レトロ》かぐや姫伝説 ソフトのみ 動作確認済み/ファミコン/FC/NES《ゲーム・山城店》R218
【発売】:ビクター音楽産業
【対応パソコン】:FM-7、PC-8801、PC-9801、X1、PC-6601
【発売日】:1984年11月
【ジャンル】:アドベンチャーゲーム
■ 概要
1984年の国産パソコンADVの中でも、かなり癖の強い一本として登場した作品
『新竹取物語』は、ビクター音楽産業から1984年に登場したグラフィックアドベンチャーで、のちにFM-7、PC-8801、X1、PC-6601、PC-9801といった当時の主要パソコンへ広がり、さらに1988年には『かぐや姫伝説』の題名でファミリーコンピュータ版も発売された作品である。単に昔話をゲーム化しただけの作品ではなく、当時のパソコンゲームらしい実験精神と、どこか脱力感のあるギャグ感覚、そして周回を促す設計思想が同居していた点に、この作品の独自性がある。80年代前半の国産アドベンチャーゲームがまだ手探りで独自性を競っていた時代において、本作はかなり異色の立ち位置を築いたタイトルだった。今あらためて振り返ると、本作は単なる珍作ではなく、国産アドベンチャーゲーム史の中で独特の足跡を残した一本として見直す価値がある。
題材は『竹取物語』だが、上品な古典ロマンではなく、パロディ色の濃い冒険活劇へ変換している
タイトルから受ける印象だけを頼りにすると、雅な和風伝奇もの、あるいは古典説話を忠実になぞる物語を想像しがちだが、本作の中身はかなり違う。ベースにあるのは確かに『竹取物語』だが、そこから導かれる世界は厳かな宮廷劇ではなく、珍妙な会話、下ネタまじりのギャグ、場面ごとの脱線、そして妙に俗っぽいセンスが入り混じったパロディアドベンチャーである。若干きわどい要素は含むものの、成人向けゲームそのものではなく、当時の中高生やパソコン少年層が「少し危ない冗談が多い、変わった冒険もの」として受け止めるタイプの作品だった。しかもこの軽薄さは単なる悪ふざけに終わらず、古典題材を堅苦しく処理せず、遊びとして再解釈する80年代パソコン文化の空気を強く反映している。つまり本作は、昔話を借景にしながら、実際には当時のマイコン少年文化へ向けて再編集された和製珍道中アドベンチャーと呼ぶほうが実態に近い。
最大の特徴は、テキスト入力型ADVにスコア競争と分岐の思想を持ち込んだこと
システム面で見ると、『新竹取物語』は単なるコマンド入力型アドベンチャーでは終わっていない。入力方式はカタカナ、ローマ字、英語の3種類から選べるうえ、ゲーム開始時には3段階の難易度も設定できる。これだけでも当時のADVとしては親切かつ珍しいが、さらに重要なのは、プレイヤーの行動に点数が与えられ、最高160点までのスコア制が導入されていた点だ。通常のアドベンチャーゲームであれば「真相に到達したら終わり」になりやすいが、本作ではエンディング到達そのものよりも、どの行動を選び、どれだけ効率よく、どれだけうまく寄り道し、どれだけ条件を拾っていけたかが腕前として可視化される。結果として、一度クリアしたあとも、もっと高い点を狙いたくなる。これは後年のマルチエンド作品ややり込み型ADVに通じる発想であり、当時のプレイヤーにとってはかなり新鮮だったはずだ。実際、本作の面白さは「クリアできるかどうか」だけでなく「どれだけ上手く遊べるか」にも広がっており、その設計が作品の寿命を伸ばしていた。
主人公設定や体調管理まで物語に絡める、当時としては野心的な構造
本作が「ただ変なゲーム」で終わらない理由は、物語の進み方そのものがプレイヤー条件に大きく左右されるところにある。開始時には主人公の性別を選択でき、女性を選んだ場合には催眠術で自分を男と思い込まされているという、いかにも本作らしいひねくれた導入でスタートする。この時点でもすでに普通ではないが、もっと面白いのは、その設定が後の展開や反応にちゃんと影響していくことだ。さらに体調、経験、難易度など複数の条件が並行して物語を変化させるよう作られており、本作は一本道の謎解きゲームではなく、プレイヤーの状態変化を細かく参照する関係性重視の冒険劇として設計されていた。ビジュアル面のインパクトばかりが語られがちだが、実際には条件分岐の組み方にかなり野心があり、それが本作を単なる色物で終わらせなかった。
最初からムチとロウソクを持たせるような、あえて品の悪い笑いが作品全体を支配する
『新竹取物語』を語るうえで避けて通れないのが、その妙にくだけた笑いの質感である。プレイヤーは冒険の開始時からムチとロウソクを所持しており、この時点で既に「まともな昔話ではない」と宣言されているようなものだ。作中でも、会話やイベントの端々に下ネタや脱力ギャグが差し込まれ、しかもそれが単発のネタではなく、世界観の呼吸そのものになっている。だがこのセンスは、単純な悪ノリだけでは説明しきれない。当時のパソコンゲームは、まだ映画的な重厚さよりも、作り手の個性や雑誌文化との距離の近さ、友人同士でネタにしたくなる珍妙さが価値になっていた。本作のユーモアはまさにその時代性を体現しており、後年の洗練されたシナリオADVとは別系統の魅力を持つ。格調高い文学性ではなく、ひっかかりのある悪ふざけと発想の飛び方で記憶に残る。だからこそ『新竹取物語』は、好き嫌いは分かれても、触れた人の印象から消えにくいタイトルになった。
対応機種の拡大と家庭用移植によって、“知る人ぞ知るPCゲーム”から一段広い作品になった
もともとの出発点はFM-7版だが、本作はその後にPC-8801、X1、PC-6601SR、PC-9801へと広がり、パソコンADVとしての認知を少しずつ伸ばしていった。さらにファミコン版『かぐや姫伝説』では、PC版のテキスト入力方式が選択式コマンドへ改められ、より家庭用向けの形に再調整されている。もちろん、入力の自由さやPC版特有の空気は薄れるが、その一方で家庭用機ユーザーにも触れやすくなり、タイトルとしての寿命は確実に延びた。また続編も登場しており、こちらでは別のモチーフへ接続しながら、新たな珍道中の空気を広げていった。こうして見ると、『新竹取物語』は単発の珍作ではなく、シリーズとして育てようという意識のあった企画だったことがわかる。結果的に巨大シリーズへ発展したわけではないものの、少なくとも当時の開発側は、この独特な世界観と仕組みに継続的な可能性を見ていたのである。
総じて『新竹取物語』は、初期国産ADVの実験精神を濃縮した変わり種の意欲作だった
総合すると、この作品の本質は「竹取物語を題材にした昔話ゲーム」ではない。むしろ、古典モチーフを借りながら、当時の国産アドベンチャーゲームがどこまで遊びの幅を広げられるかを試した意欲作として捉えるべきだろう。入力方式の選択、難易度設定、性別選択、体調や条件変化、最高160点のスコア、複数エンディング、そしてギャグを大量に混ぜ込んだ語り口。これらは一見バラバラに見えるが、実際には「一度解いて終わりではなく、何度か遊び、違いを味わい、よりうまく立ち回ることそのものを面白がらせる」という一つの設計思想でつながっている。だから本作は、名作と迷作の境界を危うく横断しながら、その危うさゆえに今も語られる。真面目一辺倒ではない、だが雑なだけでもない。『新竹取物語』とは、80年代国産パソコンゲームの自由さと未整理な熱気が、そのまま作品の形になったような一本なのである。
■■■■ ゲームの魅力とは?
古典題材を借りながら、実際には“常識外れのパソコンADV”として成立しているところが面白い
『新竹取物語』の魅力を語るとき、まず押さえておきたいのは、この作品が単なる竹取物語のゲーム化ではないという点である。題材だけ見れば日本最古級の物語を下敷きにした和風アドベンチャーのように思えるが、実際に触れると印象はかなり違う。作中には古典的な情緒よりも、80年代前半の国産パソコンゲームらしい悪ノリ、ギャグ、脱線、そして妙なサービス精神が前面に出ており、プレイヤーは「かぐや姫を探す冒険」をしながら、同時にいかにもこの時代らしいヘンテコさそのものを楽しむことになる。ここが本作の第一の魅力である。つまり本作は、由緒ある昔話を厳粛に再現した作品ではなく、古典を素材にしながら、当時のマイコン文化の軽妙さと遊び心でまったく別の娯楽へ組み替えたタイトルなのだ。しかもその崩し方が中途半端ではなく、最初からムチとロウソクを持っているという時点で、作品側は「真面目な昔話を期待してはいけない」と堂々と宣言している。こうした破天荒さは、人を選ぶ一方で、一度ハマると忘れにくい。似た題材の作品が数多くあっても、本作のように古典の皮をかぶった異色パロディADVとして語り継がれるものはそう多くない。こうした唯一無二の立ち位置そのものが、『新竹取物語』の大きな吸引力になっている。
テキスト入力ADVなのに、解くだけで終わらず“腕前”を競わせる設計が新鮮だった
本作が単なる珍作では終わらないのは、システム面にきちんと独自性があるからだ。テキストアドベンチャーといえば、正しい単語を探し、必要な場所で正しい行動を入力し、ストーリーを前へ進めていくものという印象が強い。ところが『新竹取物語』は、そこにスコア制を持ち込み、最終的にどれだけ高得点でクリアできたかという要素を加えた。これは今振り返ってもかなり面白い発想である。通常のADVでは「解けたかどうか」が結果の大半を占めるが、本作では「どう解いたか」「何を拾って進んだか」「どこで遠回りしたか」までが成績として反映されるため、一度クリアしても終わりになりにくい。もっと高得点を狙いたくなるし、別の行動を試したくもなる。つまり本作は、ストーリーの到達だけでなく、プレイの過程そのものを遊びに変えているのである。さらに入力方式がカタカナ、ローマ字、英語の3通りから選べる点や、3段階の難易度設定まで備えていた点も、初期国産ADVとしてはかなり挑戦的だった。こうした工夫のおかげで、本作は「単語探しに苦しむだけのゲーム」ではなく、「自分なりの遊び方を試しながら最適解を探るゲーム」として記憶されやすい。
性別選択や体調変化など、物語とパラメータを絡めた生っぽさがある
『新竹取物語』の面白さは、奇抜なネタやギャグだけではない。プレイヤーの状態によって物語の流れや反応が変わる構造にも、このゲームならではの味がある。ゲーム開始時には主人公の性別を選択でき、しかもその選択が後の展開に影響する。女性を選んだ場合に催眠術で自分を男と思い込まされた状態で始まるという設定は、いかにも本作らしいトリッキーな導入だが、単なる冗談で終わらず、後々のシナリオ分岐に関わってくる点が面白い。さらに体調や行動の積み重ねによって展開が変わっていくため、プレイヤーは単にイベントを回収するだけではなく、「今の自分がどういう状態なのか」を意識しながら進めることになる。この状態を持った主人公という感触があるからこそ、物語が機械的な分岐表ではなく、少し生き物めいたものとして感じられるのだ。初期ADVの中には、フラグ管理が露骨で、ただ正解を順に踏んでいく印象の強い作品も多い。しかし本作は、条件の持たせ方に少しひねりがあり、プレイヤーの感覚としては「世界に働きかけている」という手触りが残る。コミカルで軽薄な見た目に反して、この状態変化を楽しむ設計は意外にしっかりしており、そのアンバランスさもまた魅力になっている。
下ネタや脱力ギャグが多いのに、不思議と嫌味より時代の熱として残る
このゲームを印象的なものにしている最大要因の一つは、やはり全編に漂う妙なユーモアである。今の視点で見るとかなり大らかで、場面によっては人を選ぶネタも多いが、それでも本作がただ下品なだけの作品として片づけられないのは、その笑いが時代の空気と密接につながっているからだ。当時の国産パソコンゲームは、まだ大作主義が完全に固まる前で、メーカーや開発者の個性がむき出しになった作品が数多く存在していた。『新竹取物語』もまさにそうした時代の産物で、整いすぎていないからこそ、作り手の「面白がらせたい」「驚かせたい」「変なゲームを作りたい」という熱量がそのまま伝わってくる。だからプレイヤーは、笑いの質が多少古くても、そこに宿る勢いに魅力を感じやすい。しかも本作のギャグは、シリアスな本筋を邪魔する異物というより、最初から世界全体のルールとして置かれているため、触れているうちに独特のテンポへ慣れていく。結果として、プレイ後に残るのは「感動的だった」ではなく、「なんだか妙に忘れられない」という感覚だ。この記憶への残り方こそ、カルト的人気を支える重要な魅力である。
機種ごとの広がりとFC移植によって、珍作で終わらず長く話題に残った
本作の魅力は、PCゲーム史の中での存在感にもある。FM-7版を皮切りに、PC-8801、X1、PC-6601SR、PC-9801へと展開され、さらに後年にはファミリーコンピュータ向けに『かぐや姫伝説』として移植されたことで、パソコン専用の小さな話題作にとどまらず、少し広い層へ名前が届くようになった。特にFC版では、PC版のコマンド入力が選択式へ変更され、家庭用らしい遊びやすさへ調整されている。この変更によって、PC版特有の自由入力の妙味はやや薄れるが、逆に変わった題材の物語ゲームとして入りやすくなった側面もある。つまり本作は、媒体が変わることで魅力の見え方まで変わる作品でもあった。さらに続編が作られたことからも分かるように、ビクター音楽産業側にとっても、本作は一回限りの思いつきではなく、広げる価値のあるシリーズの起点と見なされていた節がある。こうした展開の存在が、『新竹取物語』を単なる一発ネタではなく、80年代中盤の国産ADV文化を語るうえで触れておきたい一本へ押し上げている。
総合すると魅力の本質は、整い切っていないからこそ生まれる濃さにある
結局のところ、『新竹取物語』の魅力はどこにあるのかと問われれば、それは全部が少しずつ普通ではないことに尽きる。題材は古典なのに語り口は軽妙で、システムはADVなのにスコア競争の要素が強く、笑いは俗っぽいのに設計は案外凝っていて、移植されるとまた違う顔を見せる。ひとつひとつを抜き出せば荒削りに見える部分もあるが、それらが混ざり合うことで、ほかに代えがたい濃い味を生み出している。洗練された後年の名作ADVのような完成美ではない。だが、その代わりに、この作品には80年代の国産PCゲームが持っていた何をしでかすか分からない自由さが詰まっている。だからこそ、後から振り返ってもなお、ただの懐古では終わらず、「いま見ても発想が面白い」「変だけれど妙に筋が通っている」と再評価されやすいのである。『新竹取物語』は、完成品として美しいから残ったのではなく、妙な熱量と独自の遊び味を持っていたから残った。その時代の勢いが形になった面白さこそ、本作最大の魅力だと言ってよい。
■■■■ ゲームの攻略など
この作品の攻略は“最短で終わる道”を探すことではなく、“どう遊んで点を稼ぐか”を覚えることにある
『新竹取物語』を普通の初期アドベンチャーゲームと同じ感覚で始めると、意外なほど拍子抜けすることがある。なぜなら本作は、単にかぐや姫に会えればそれで終わり、という設計ではないからだ。目的そのものはかぐや姫の発見だが、実際の面白さはそこへ至る途中の行動履歴にあり、プレイヤーがどの場面で何を選び、どれだけ寄り道し、どれだけ有利な展開を拾えたかが点数として積み上がっていく。最高160点のスコア制があるため、初回でエンディングに届いたとしても、それは解けたに過ぎず、極めたとはまったく別物である。ここが本作攻略の第一歩だ。つまり、最短クリア志向で突っ走るよりも、「ここは何か得点になるイベントが隠れていそうだ」「この会話は後の条件に関わるのではないか」と考えながら進めた方が、作品の本質に近づける。だから攻略の基本姿勢は、一本道の正解探しではなく、周回で理解を深めるゲームとして向き合うことに尽きるのである。
初見プレイでは、難しい正解探しよりも入力に慣れることを優先した方が進めやすい
本作はテキスト入力型ADVでありながら、コマンド入力方法をカタカナ・ローマ字・英語の3種類から選べる。加えて、難易度も3段階で設定できるため、当時の作品としてはかなり間口が広い。ここで大事なのは、最初から格好よく英語入力で遊ぼうと気負わないことだ。実用面で見れば、ローマ字入力はかなり扱いやすく、カタカナ語をそのままローマ字で打ち込めるため想像以上に楽である。初見で詰まりやすいのは、謎そのものよりも「どう入力すれば通るのか」「どの言い回しが認識されるのか」をつかむ部分なので、まずは自分がもっとも自然に入力できる方式を選ぶのがよい。また、難易度設定がある以上、最初の一周では無理に高い難易度へ挑む必要もない。このゲームは一度で完全攻略するより、まず流れと癖を覚え、次の周回で効率を上げる方が合っている。最初のプレイでは物語の骨格を知ることを優先し、その後に高得点狙いへ移行する方が、結果としてずっと気持ちよく攻略できる。
序盤は“簡単に進める道”と“点を稼げる道”が一致しないことを理解すると伸びやすい
本作で重要なのは、ラクに進める選択肢が必ずしも得ではないということだ。序盤には、簡単だが得点が稼ぎにくい道と、少し難しい代わりに点が入るルートが存在するような作りが見られる。これは本作全体の攻略思想を象徴する部分で、プレイヤーは常に安全で単純な進行と、得点の見込める行動の間で判断を迫られる。つまり、攻略のコツは失敗を恐れて無難な手ばかり打つことではなく、「少し面倒でも、この場面は触れておく価値がある」と見抜くことにある。初見では安全策を選びたくなるが、本作に慣れてくると、どの寄り道が単なる遠回りで、どの寄り道が得点源なのかが少しずつ見えてくる。この理解が進むほど、プレイは解答の再現ではなく、効率の最適化へ変わっていく。だから序盤で大事なのは、場面ごとに楽な方へ逃げることではなく、「このゲームは意地悪なだけではなく、挑戦した分だけちゃんと報いてくる」と知ることだ。
会話や寄り道を軽く扱わず、“意味のありそうな人物”には粘って反応を見るのが基本になる
『新竹取物語』では、物語進行のための鍵が露骨なアイテムや大事件だけに置かれているわけではない。むしろ会話の扱いに、このゲームの攻略らしさが表れている。高得点の秘訣として特定の人物との会話が重要だというヒントが当時から強調されていたように、本作は人物とのやりとりを単なる演出ではなく攻略資源として扱っていた。初期ADVでは、情報収集の会話が単なる前振りで終わる作品も少なくないが、本作では誰にどう接触し、どの反応を引き出すかが得点や展開の質につながると考えた方がよい。そのため攻略上は、怪しそうな人物、印象に残る人物、妙に会話が長い人物ほど軽く流さず、言い回しを変えて反応を見る姿勢が重要になる。特に本作はギャグ会話が多く、一見するとただの脱線のように感じられる場面もあるが、そうした場面の中に得点や条件変化の手がかりが紛れている。つまり本作の会話は読み飛ばしてよい文章ではなく、プレイヤーの観察力を試す攻略パートでもある。
性別・体調・難易度が物語を変える以上、“一回で全部見よう”としない方がかえって攻略しやすい
本作では、性別選択、体調、難易度など複数の条件がストーリー変化に影響し、エンディングも複数用意されている。ここでありがちな失敗は、「一周目から全部の条件を最適化しよう」として、かえって何が効いたのか分からなくなることだ。攻略の考え方としては、まず一周目は大まかな流れと主要イベントを把握する。二周目は会話や寄り道を増やして得点源を確認する。三周目以降で性別や難易度を変え、分岐や反応の差を見比べる。このように、周回ごとに目的を分けた方が理解しやすい。もともと本作は、行動の違いを何度も試して遊ばせる設計であり、すべてを一回で把握するタイプの作品ではない。だから取りこぼしを恐れないことも立派な攻略法になる。一周で完璧を目指すより、各周回でひとつずつ検証項目を増やした方が、このゲームの構造はずっと見えやすい。
“謎を全部解く”より“重要な場面を逃さない”ことが、結果として高得点への近道になる
本作は、特定場面を除けば謎を全部解かなくても比較的先へ進みやすく、初回でもかぐや姫に出会える可能性がある。これは一見すると親切だが、逆に言えば進めてしまうせいで大事な場面を飛ばしやすいということでもある。多くのプレイヤーは、ゲームが先へ進んでしまうと「いまの選択で正しかったのだろう」と思いがちだが、本作ではそこが落とし穴になる。なぜなら進行可能であることと、高得点や良い展開に結びつくことが同義ではないからだ。したがって攻略上は、「進めたからOK」と考えず、あとで振り返って薄味だった場面を重点的に見直す姿勢が重要になる。何も起きなかったように見える選択、すぐ通り抜けてしまった地点、適当に済ませた会話ほど、次回は意識して掘る価値がある。こうした見直しを繰り返すことで、初回では素通りした場面が、実は得点源だった、条件分岐の起点だった、と気づけるようになる。
裏技というより、“知っているだけで得をする知識”を積み上げるタイプのゲームである
『新竹取物語』については、広く知られた隠しコマンドや派手なチート技よりも、どの入力方式が扱いやすいか、どの分岐が高得点につながりやすいか、どの会話が後の評価に関わるか、といった知識そのものが武器になる攻略の方が中心である。つまり、いわゆる裏技の快感より、プレイヤー経験がそのまま上達へ変換される種類のゲームなのだ。この点は、スコア制と非常に相性が良い。なぜなら一度知った情報が、そのまま次の周回で点数に反映されるからである。入力方式の選択、難易度の合わせ方、重要人物との会話、少し難しいが得点になるルートの把握――こうした小さな知識の束が、結果として得点差を生み、エンディング体験の濃さまで変えていく。だから本作の攻略でいちばん大事なのは、派手な抜け道を探すことではなく、「前回より少し賢く遊ぶ」ことだと言える。1回目は物語を知る、2回目は点を伸ばす、3回目は条件差を見る。この積み重ねこそが、『新竹取物語』における最大の攻略法であり、同時にもっとも本作らしい楽しみ方でもある。
■■■■ 感想や評判
発売当時の受け止められ方は、まず“普通の竹取物語ではない”という驚きから始まっていた
『新竹取物語』が当時のパソコンゲーム好きに与えた第一印象は、上品な古典物語の再現ではなく、むしろ「とんでもなく妙な方向へ突き抜けたアドベンチャーが出てきた」という種類の驚きに近かったと考えられる。実際、本作は行動ごとに点数が加算される仕組みを持ち、しかもムチやロウソクを最初から持たせるような脱力気味のギャグや、場面ごとに妙なお色気まじりの会話を差し込むなど、当時でもかなり異色だった。つまり当時の評価は、「変なゲームだ」で終わるものではなく、「変だが、他とは違う仕掛けがある」という驚き込みの注目だったのである。
ゲーム雑誌での扱いを見ると、少なくとも“埋もれた無名作”ではなかったことが見えてくる
当時の雑誌掲載状況を追うと、本作は決して完全な日陰作品ではなかった。複数のパソコンゲーム誌で取り上げられ、見開きで紹介された時期もあり、画面写真を多く使ってゲーム内容を分かりやすく伝えていたことが知られている。しかも高得点の話題や、ファンクラブ会員のような遊び心ある打ち出しまで行われており、単に発売情報が流れただけではなく、誌面側が「ネタとしても面白いし、作品としても個性が強い」と感じていたことが伝わってくる。つまり本作は、雑誌側が紹介したくなる個性派タイトルとして認識されていたのである。
プレイヤー側の反応は、笑える珍作としての面白さと、思った以上に手強い内容への驚きが同居していた
後年の回顧で繰り返し語られているのは、本作が単なるおふざけゲームではなく、遊んでみると意外に歯ごたえがあるという点である。下ネタやギャグがあちこちに仕込まれているため、当時中高生だった層には面白おかしく受け止められたであろう一方、難易度もそれなりに高く、その笑えるけれど甘くはないバランスが当時として評価されたのではないかと考えられる。さらに、入力方式を選べる点や、行動の結果がスコアに反映される点も、ただ進めるだけでは終わらない手応えを生み出していた。つまりプレイヤーの感想は、「バカっぽくて笑える」だけにも、「難しい本格ADV」だけにも収まらなかった。むしろその両方が同時に存在していたからこそ、妙に印象へ残る作品になったのである。
後年の再評価では、“一度解いて終わりではないADV”だった点が特に高く見られている
今あらためて本作が語られるとき、もっとも好意的に評価されやすいのは、スコア制によって繰り返し遊ぶ意味を生み出していたところだ。初期アドベンチャーゲームには、解法が分かった瞬間に価値がかなり減ってしまう作品も多いが、『新竹取物語』は「もっと上手く遊ぶ」という目的を後から生み出せる。だからこそ後年の再評価でも、単なる色物や時代の徒花ではなく、システム的にも面白い実験作として位置づけられやすい。奇抜な見た目だけでなく、遊びの設計まで含めて記憶されている点が、この作品の強みである。
一方でファミコン版『かぐや姫伝説』の評価は、PC版ほど素直に持ち上げられてはいない
ファミリーコンピュータ版『かぐや姫伝説』になると、評判の色合いは少し変わる。PC版のテキスト入力方式が選択式へ変更されたことで、家庭用らしい遊びやすさは増したが、自由入力やPC版特有の空気はやや薄れた。その結果、珍妙さは残っていても、尖った魅力がやや均されて見えたと考えられる。家庭用移植版としての評価は、突出して高い絶賛作というより、癖の強い内容を踏まえた中堅評価に近い。つまり家庭用版は、PC版の熱烈な支持とは少し違い、「変わった作品だが好みは分かれる」という評判に落ち着いたのである。
総合すると評判の本質は、万人向けの名作というより“忘れがたい異色作”だったことにある
『新竹取物語』の感想や評判を総合すると、この作品は王道の意味で広く愛された優等生ではない。むしろ、ギャグと下ネタが強く、展開も妙で、しかしシステムは意外に先進的で、雑誌でも取り上げられ、後年にはスコア制の妙味が再評価される――そんなふうに、良くも悪くも引っかかりの強い作品として受け止められてきたと考えるのがしっくりくる。PC版は珍作と意欲作の中間に立つ存在として記憶され、FC版はやや評価が割れながらも、その異様な個性ゆえに埋もれず残った。爆発的な国民的ヒットとまでは言いにくいが、少なくとも「当時のパソコンADVを語るなら一度は名前が出る変わり種」として生き残ったことは確かである。整った傑作だから残ったのではなく、妙な味と遊びの仕掛けがあったからこそ語り継がれた。その意味で本作の評判は、賛否を含めて成功していたと言える。
■■■■ 良かったところ
まず高く評価したくなるのは、題材の選び方と崩し方がとにかく独特だったところ
『新竹取物語』を実際に遊んだ人、あるいは後年になって内容を知った人がまず「これは面白い」と感じやすいのは、やはり竹取物語という誰もが知る古典を、そのまま厳粛に扱わず、思い切って崩して見せた大胆さである。昔話をゲーム化するだけなら無難な作品にもできたはずだが、本作はそうしなかった。主人公の性別選択からしてすでに一筋縄ではいかず、しかも最初に持たされる道具がムチとロウソクという時点で、作品の方向性がはっきり示される。ここには、ただ原作を借りただけで終わらせず、古典を素材にしながら新しい遊びへ変えるという当時の作り手の姿勢が見える。真面目一辺倒ではなく、むしろ軽口や脱線を武器にしているのに、単なる悪ふざけで片づかない。そこが良かったところの第一である。
一度クリアしただけでは終わらない、スコア制の導入が非常に優れていた
本作の長所として特に評価しやすいのは、アドベンチャーゲームに行動の質を問うスコア制を導入していた点である。普通の初期ADVは、謎を解いて結末を見れば一区切りになりやすく、もう一度最初からやり直す動機が弱くなりがちだった。ところが『新竹取物語』では、行動一つひとつに点数が与えられ、最高160点までの評価が蓄積されるため、単にエンディングへ到達しただけでは「まだ遊び尽くしていない」という感覚が残る。つまり本作は、笑って終わるだけの珍作にはなっていない。遊んでみると意外に歯ごたえがあり、しかも一度で終わらず、もっと高得点を狙いたくなる。そのうえ、場面やネタが強く記憶に残る。こうした要素がすべて重なった結果、後年になっても「ただの変なゲーム」ではなく、「80年代国産ADVの中でも独自の魅力を持った一本」として語り直されているのである。
変なゲームに見えて、条件分岐の作り込みが思った以上にしっかりしている
『新竹取物語』の良さは、見た目のインパクトだけではない。むしろ本当に感心させられるのは、ギャグの多い外見の裏で、分岐構造がきちんと組まれているところである。性別、体調、経験、難易度など多数の条件を参照しながらストーリーが進むため、本作は単に正解コマンドを打ち込んで進むだけの平板なゲームではなく、プレイヤーの状態を細かく見ながら世界の反応を変える生きたアドベンチャーを目指していた。ここはかなり良かったところだ。なぜなら、当時のゲームにはアイデアは面白くても、実際に遊ぶと一本道で終わってしまうものも少なくなかったからだ。その中で本作は、行動の積み重ねが違いとして返ってくる楽しさを持っていた。だから一見するとふざけた場面にも意味がありそうに思えてくるし、何気ない選択肢にも緊張感が生まれる。
会話やイベントの癖が強く、良くも悪くも忘れにくいキャッチーさがある
プレイヤーの印象に残りやすいというのも、本作の良かったところの一つである。これは単に有名だからではなく、ゲーム中のイベントや会話が強い癖を持っているからだ。セイコさんとのやりとり、妙に印象へ残る珍妙な場面、奇抜なイベントの応酬など、いずれも普通の昔話ゲームにはまず出てこない要素である。こうした場面は上品一辺倒ではないが、そのぶん一度見たら頭に残りやすい。ゲームにおける忘れがたさは立派な長所であり、特に80年代の作品では、完成度と同じくらい個性の強さが価値になっていた。本作はその点で非常に成功している。場面場面のノリが独特だから、プレイヤーは「次に何を見せられるのか」という興味を持って進めやすいし、ただ解法を追うだけの作業になりにくい。
入力方式の選択や難易度設定など、当時としては遊び手に優しい配慮も見逃せない
奇抜な内容ばかりが先行しがちな本作だが、操作面での工夫も良かったところとして挙げておきたい。コマンド入力はカタカナ・ローマ字・英語の3通りから選べ、難易度も3段階から設定できる。しかもローマ字入力では、カタカナで考えた命令をそのまま打ち込む感覚で扱えるため、慣れてしまえば想像以上に快適だ。初期のテキストADVは、入力の自由度が高い反面、どんな言葉が通るのか分かりにくく、それ自体がストレスになることが多かった。しかし『新竹取物語』は、その不便さを少しでもやわらげようという工夫が見える。難易度設定がある点も同様で、ただ理不尽に難しくするのではなく、入口を広げたうえでやり込みを促そうとしている。このプレイヤーに寄り添う部分があるからこそ、本作は癖が強くても遊び始めやすい。
機種性能を見せつけるようなグラフィックや演出も、当時のユーザーには大きな魅力だった
とくにパソコン版について語るなら、グラフィックや演出面の良さにも触れないわけにはいかない。タイトル画面の音楽や、一部の揺れやスクロールの表現、画面構成の派手さなど、当時のハード上で「見せる」ことを強く意識していた点は大きな魅力だった。もちろん、機種や描画方式によっては待たされる場面があるという弱点はあるが、それでも当時の環境でこれだけ画面演出に力を入れていたのは見どころだった。つまり本作は、シナリオやギャグだけでなく、見せるゲームとしてもかなり意識的に作られていたのである。レトロPCゲームでは、スペックの制限上、システムの妙味だけで勝負せざるを得ない作品も多いが、本作はビジュアルと演出でも印象を残せた。
総合すると、良かったところは“変さ”と“作り込み”が同居していたことに尽きる
最終的に『新竹取物語』の良かったところを一言でまとめるなら、それは妙なゲームなのに、妙なだけでは終わっていない点にある。古典題材の崩し方は大胆で、会話やイベントは強烈、下ネタやギャグも多い。そこだけを見ると色物に見えるが、実際にはスコア制、複数条件の分岐、入力方式の工夫、難易度設定、演出面の力の入れ方など、ゲームとして褒められる要素がしっかり詰まっている。だから本作は、笑って終わるだけの珍作にはならなかった。遊んでみると意外に歯ごたえがあり、しかも一度で終わらず、もっと高得点を狙いたくなる。そのうえ、場面やネタが強く記憶に残る。奇抜さと設計の丁寧さ、その両方を持っていたこと。そこが、本作のいちばん良かったところだと言ってよい。
■■■■ 悪かったところ
最大の弱点は、独特な個性がそのまま人を選ぶ遊び味にもなっていたこと
『新竹取物語』の悪かったところを挙げるなら、まず真っ先に触れなければならないのは、その強烈な個性が長所であると同時に、かなりはっきりした短所にもなっていた点である。本作は古典の『竹取物語』を下敷きにしながら、実際にはギャグ、脱線、軽い下ネタ、妙な小道具、少し悪ふざけ気味の会話まわしなどで独自の空気を作っている。これを面白いと感じる人にとっては唯一無二の魅力になるが、逆に落ち着いた物語性や純粋な伝奇色、あるいは丁寧な昔話風アドベンチャーを期待していた人にとっては、かなり肩透かしになりやすい。つまりこの作品は、最初から好みを強く試してくる。笑える人には強く刺さるが、笑えない人にはただ落ち着きのないゲームに見えてしまうのである。
テキストアドベンチャーとして見ると、入力の面倒さや反応の読みにくさはやはり無視できない
本作はカタカナ、ローマ字、英語の三通りでコマンド入力が可能という、当時としては親切な工夫を備えている。しかし、それでもテキスト入力型アドベンチャーである以上、現代的な感覚で遊ぶと、入力そのものの煩雑さは避けられない。何をすればよいか分かっていても、適切な語彙で打ち込めなければ反応が返ってこないことがあるし、発想としては近い命令でも、ゲーム側が想定した表現から外れると空振りになる。これは当時のADVでは珍しくない弱点だが、本作は分岐やスコア制があるぶん、単に進めばいいだけではなく、細かい試行錯誤が重要になるため、入力の引っかかりが余計にストレスへ変わりやすい。さらに本作はギャグ調の作品であるため、真面目に攻略したい場面でも妙な反応が返ってきて、プレイヤーが「いまのはヒントなのか、ただのネタなのか」を判断しにくいことがある。この曖昧さが味になる部分もあるが、攻略面だけを見れば、素直に情報整理しにくい原因にもなっている。
スコア制は魅力でもあるが、裏返すと初回では満足しにくい設計でもあった
本作の看板要素であるスコア制は、確かに他のアドベンチャーとの差別化に成功した面白い仕組みである。だが、悪かったところとして見れば、この仕組みは初回プレイの達成感をやや薄める原因にもなっている。普通のADVなら、苦労してエンディングへたどり着けば、それだけで十分な満足が得られる。しかし『新竹取物語』では、たとえ結末まで到達しても、得点が低いと「まだ本当に遊び切れていないのではないか」という感覚が残りやすい。これはやり込み好きには長所だが、逆に一周で濃い物語体験を求める人には、どうにも収まりが悪い。しかも、高得点のためにはただ正解を踏むだけでなく、どこで寄り道し、どの会話を拾い、どの順序で条件を整えるかまで考えなければならないため、初見時には何をもって上手いプレイなのかが見えにくい。
分岐や条件変化は凝っている反面、全体像が見えにくく、手探り感が強すぎる場面もある
『新竹取物語』は性別、体調、難易度、経験的な積み重ねなど、複数の要素が絡み合って展開が変わる点が特徴である。これは当時としてかなり意欲的だが、その意欲がそのまま分かりにくさへつながっていることも否定できない。プレイヤーから見える情報と、内部で処理されている条件のあいだに距離があるため、なぜその結果になったのかが直感的に理解しにくい場面が出てくる。特に初見では、どの行動が単なるネタで、どの行動が本当に重要な分岐条件なのか判別しづらく、結果として攻略が曖昧な手探りになりやすい。こうした不透明さは、作品に神秘性を与える一方で、プレイヤーによっては「理不尽」「分かりにくい」と感じる原因にもなる。複雑であることと、遊びやすいことは同じではない。その意味で本作は、発想の豊かさに対して、伝え方や導き方が少し荒かったと言える。
ギャグの勢いが強いぶん、物語としての感情移入や重みは薄くなりやすい
本作をアドベンチャーゲームとして見たとき、もう一つ弱点として挙げられるのが、物語のトーンがかなり軽く、ドラマとして深く入り込みにくいことである。もちろんこれは作風でもあり、狙ってそうしている面も大きい。しかし、竹取物語という題材が本来持っている神秘性、切なさ、幻想性、あるいは人ならざる存在との距離といった情緒を期待すると、本作の語り口はかなり違う方向へ進んでいる。会話の節々で笑わせに来るため、せっかく盛り上がりそうな場面でも空気が軽くなり、結果としておかしさは残っても深い余韻は残りにくい。この点は、人によってはかなり大きな欠点に映るだろう。
機種ごとの差や移植時の変化によって、魅力が均一ではなかったところも惜しい
本作は複数のパソコン機種に展開され、のちにファミコン版『かぐや姫伝説』としても移植されたが、この広がりは同時に「どの版でも同じ魅力が味わえるわけではない」という弱点を生んでいる。もともとのパソコン版は、自由入力の感触や、機種ごとのグラフィック・演出の違いも含めて作品の味になっていた。しかし家庭用版では選択式コマンドへ変わったことで、遊びやすさは増した反面、PC版が持っていた独特の空気や、入力による手探りの面白さは薄れやすい。つまり広く遊ばれるための調整が、そのまま個性の一部を削る結果にもなっていた。さらに、機種によって見た目や快適さの印象が変わると、作品評価そのものが安定しにくい。ある版では面白く感じても、別の版では平凡に見えることがあり得る。
総合すると、悪かったところは自由すぎる設計が整理不足と紙一重だったことにある
『新竹取物語』の悪かったところをまとめると、結局は自由さや濃い個性が、同時にまとまりの弱さにもつながっていた点へ行き着く。ギャグは強いが人を選ぶ。入力方式には工夫があるが、それでも煩雑さは残る。スコア制は斬新だが、一周目の爽快感を削る。条件分岐は意欲的だが、何が効いているのか見えにくい。物語は軽妙だが、そのぶん重厚な感情移入はしにくい。こうした要素はどれも、本作の長所の裏返しになっている。だからこそ、このゲームは欠点が多いから駄目なのではなく、尖った魅力を守るために、あえて整理され切らなかった作品だとも言える。ただし、ユーザー目線で見れば、その未整理さが遊びにくさや評価の分かれやすさを生んでいたことは事実である。
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■ 好きなキャラクター
いちばん名前が挙がりやすいのは、やはり物語の中心であり到達点でもあるかぐや姫である
『新竹取物語』という作品で、好きなキャラクターは誰かと聞かれたとき、もっとも自然に名前が挙がるのは、やはりかぐや姫だろう。本作の目的そのものが彼女を見つけ出すことに置かれている以上、かぐや姫は単なる登場人物ではなく、プレイヤーの行動を最後まで引っ張る物語の磁石として機能している。しかも本作のかぐや姫は、古典の『竹取物語』が本来持っている高貴さや神秘性を下敷きにしながらも、ゲーム全体の軽妙でどこかおかしみのある空気の中に置かれているため、ただ近寄りがたい理想の姫君としてだけでは終わらない。遠い存在でありながら、このゲーム世界の妙なノリの中にちゃんと存在している、そのアンバランスさが非常に魅力的なのである。好きなキャラクターという観点で見れば、出番の長さ以上に最後まで追いかけるに値する存在感を持っていることが大きい。だからこそ彼女は、本作の中で最も王道に人気を集めやすいキャラクターだと言える。
プレイヤー自身を投影しやすい主人公も、このゲームならではの愛着が湧く存在になっている
本作ではゲーム開始時に主人公の性別を選択でき、しかもその選択が単なる見た目の違いではなく、後のストーリー展開にも影響していく。女性を選んだ場合には、催眠術によって自分を男性だと思い込まされた状態で冒険が始まるという、かなりねじれた導入になっているが、この時点で主人公は既に普通のアドベンチャーの無個性な分身ではなく、設定そのものにクセを持った人物として立ち上がっている。ここが好きなキャラクターとして主人公を挙げたくなる大きな理由である。多くの初期アドベンチャーゲームの主人公は、プレイヤーが入り込みやすい代わりに印象が薄くなりがちだが、『新竹取物語』の主人公は、最初からムチとロウソクを持たされるような世界へ放り込まれ、体調や行動の積み重ねによって物語の見え方まで変えていく。つまりこの主人公は、ただの操作対象ではなく、本作の珍妙な世界を真正面から受け止めていく体験そのものを体現している。
通好みの人気を集めそうなのは、攻略と会話の要になるセイコさんである
本作の好きなキャラクターを語るうえで、外せないのがセイコさんである。彼女は、作品を象徴する絶対的ヒロインというより、このゲームを深く知るほど重要性が増していく人物として印象に残るタイプだ。攻略の勘所と密接に結びついた存在であり、単なる色物の脇役ではなく、作品独自の会話が武器になる構造を体現した人物と言える。しかも当時らしい華やかさや軽みを背負った存在としても受け取られやすく、本作の空気を象徴するキャラクターの一人でもある。好きなキャラクターとしてセイコさんを挙げる人は、おそらく単純な可愛さだけでなく、「このゲームの攻略とノリを同時に象徴しているのが彼女だから」という理由で惹かれているのだろう。
本作では、個別名よりも道中で出会う変な人物たち全体に愛着を持つ人も多いはずである
『新竹取物語』の好きなキャラクター論を普通のRPGやアニメ作品と同じ感覚で語ろうとすると、少しズレが生まれる。なぜなら本作の魅力は、明確なレギュラー陣の厚みよりも、むしろ道中で遭遇する妙な人物や、会話の一瞬だけ強い印象を残す存在たちの集合体によって支えられているからだ。ルートの途中で出会う相手、妙な条件で反応してくる相手、攻略の糸口をちらつかせる相手、あるいはただその場のノリで強烈な印象だけを残していく相手――そうした脇役の濃さが、このゲームの空気を作っている。だから好きなキャラクターを挙げるときも、「誰それ一人が最高」というより、「このゲームに出てくる変な人たち全体が好きだ」と感じる人がかなり多いのではないかと思う。
ファミコン版から入った人にとっては、コミカルに再調整されたかぐや姫像の印象も強い
1988年のファミリーコンピュータ版『かぐや姫伝説』では、PC版の自由入力型から選択式コマンドへ変わったことで、物語やキャラクターの受け取り方も少し変化している。この調整によって、PC版よりもキャラクターの珍妙さが前に出て見えやすくなった面は確かにある。とくにかぐや姫は、神秘の象徴である一方で、このどこかヘンな世界観の中心にもいるため、家庭用ゲームとして触れた人には、シリアスな姫君より妙な物語を締めるヒロインとして印象づけられた可能性が高い。好きなキャラクターの感じ方は、どの版から入ったかでもかなり違う。本作の場合、PC版では攻略目標としてのかぐや姫、FC版ではコミカルな世界の中心人物としてのかぐや姫、という具合に見え方が変わる。この違いもまた面白く、同じキャラクターでもハードの文脈によって好きになり方が変わる作品だと言える。
総合すると、本作で好きになりやすいのは高貴さと珍妙さの両方を背負った人物たちである
『新竹取物語』の好きなキャラクターを総合的に考えると、この作品で愛されやすいのは、単純に格好いい、かわいい、美しいだけの人物ではない。かぐや姫のように物語を引っ張る象徴性を持ちながらも、この妙なゲーム世界の空気にしっかり馴染んでいる人物。主人公のようにプレイヤー自身の試行錯誤を背負いながら、ただの駒では終わらない存在。セイコさんのように攻略面でも印象面でも独特の位置を占める人物。あるいは名前すら強く記憶しなくても、あの変な場面にいたあの人として忘れられない脇役たち。こうしたキャラクターはみな、本作の高貴な昔話を題材にしながら、実際にはかなりおかしな冒険劇として走り切るという性質を、そのまま体に宿している。だから本作における好きなキャラクター論は、人気投票的な序列よりも、この作品らしさを一番よく体現しているのは誰かという視点の方がしっくりくる。そしてその問いに対する答えは、ひとりに絞れない。かぐや姫、主人公、セイコさん、そして道中の妙な人々。その全員がそろって初めて、『新竹取物語』のキャラクターの魅力は完成するのである。
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●対応パソコンによる違いなど
まず整理しておくと、この作品はアーケード展開よりもパソコン版の横展開とファミコン移植で語るべきタイトルである
『新竹取物語』は、FM-7版を出発点に、PC-8801版、X1版、PC-6601版、PC-9801版が登場し、さらに『かぐや姫伝説』としてファミリーコンピュータへ移植された。一般的に語られるのはこのPC群とFC版であり、アーケード版との比較で語る作品ではない。したがって本作の機種ごとの差を考えるときは、どのパソコンで遊ぶか、そして最後に家庭用向けへどう再設計されたかを見るのが筋になる。つまりこの作品は、同じ物語をどのハードへどう載せ替えたかで個性を見せるタイプのタイトルだったのである。
FM-7版は、いちばん原液に近い出発点としての面白さがある
最初に発売されたFM-7版は、本作のオリジナルにあたる存在であり、後の各機種版を考えるうえでの基準になる。カタカナ・ローマ字・英語の3系統から入力方法を選べ、しかも難易度まで3段階で調整できるという、当時のテキストアドベンチャーとしてはかなり意欲的な仕組みがすでに整っていた。主人公の性別選択、鞭とロウソクで始まる導入、行動ごとに点数が加算される最高160点のスコア制、体調や条件による複数分岐といった、本作の核はこの時点で完成している。だからFM-7版の価値は、単に最初の版だから偉いというだけではない。むしろ、シリーズ全体を見たときにもっとも新竹取物語らしい妙な熱気が濃い形で残っている出発点だと言える。
PC-8801版は、知名度を広げた代表格として見られやすい
PC-8801版は、実際のところ本作の中でかなり重要な位置にある。PC-8801は当時の国産パソコンゲーム文化の中心的な機種の一つであり、この版が出たことで『新竹取物語』はより広い層のマイコンユーザーへ届きやすくなった。もちろん、基本構造そのものはFM-7版と共通で、内容がまったく別物になるわけではない。しかし、当時の市場感覚で言えば、PC-8801版は珍しいFM-7専用ADVを、広く知られるPCアドベンチャーへ押し上げた役割を持っていた。だから機種別の違いを語るとき、PC-8801版は性能差以上に、この作品がマニア内輪の一本で終わらなかった理由として意味を持つ版だと見ることができる。
X1版とPC-6601版は、同時期移植でもかなり印象が違って見える
X1版とPC-6601版は発売時期が近くても、受け取られ方は一様ではない。機種の特性やメディア環境、画面の見え方、音の印象によって、同じ作品でも当時の所有環境ごとに「自分のマシンに来た新作」としての意味合いが変わった。とくにPC-6601版は、色数や音の華やかさが印象に残りやすい一方、描画テンポに独特のもたつきを感じさせる場面もあり、見た目の豪華さと快適さがきれいに両立したというより、機種の持ち味が前面に出た版として記憶されやすい。きれいだが待たされる、豪華だが少しもどかしい。そのアンバランスさまで含めて、この機種版らしさだった。こうした差は、同じ『新竹取物語』でも、どのハードで触れたかによって作品の第一印象がかなり違ったことを物語っている。
PC-9801版は、少し遅れて登場したぶん8ビット的な空気を別の市場へ持ち込んだ版だった
PC-9801版は発売時期だけを見るとやや後発である。PC-9801は当時すでにビジネス用途でも存在感が大きく、国産PCゲームでも独自の強い市場を持っていた。そのため、この版の意味は単なる追加移植というより、もともと8ビット機で育った変わり種ADVを、より広い国産PCゲーム文化の本流へ差し出したところにある。ストーリーや根幹システムが劇的に変わったわけではなく、タイトルとしての本質は維持されている。ただ、1984年発の作品が1986年のPC-9801環境まで延命しているという事実そのものが、本作の企画が単発で終わらず、一定の広がりを見せたことを示している。言い換えればPC-9801版は、この作品は一部の変わったユーザーだけの遊びではなかったと証明する移植でもある。
ファミコン版『かぐや姫伝説』は、いちばん遊びやすい代わりに、いちばん空気が変わった版でもある
ファミコン版『かぐや姫伝説』は、単なる移植ではなく、かなりはっきり家庭用向けの再設計が施された版である。最大の違いは、PC版の自由入力コマンドが選択式へ変更されたことだろう。これによって、テキストアドベンチャーに不慣れな人でも遊び始めやすくなり、何を打てば認識されるのか悩む必要は大きく減った。その一方で、PC版特有の言葉を探りながら世界へ触る感覚は薄くなり、ゲームとしての印象はかなり変わった。さらにFC版では、難易度、得点に加えてライフの概念まで持ち込まれており、アドベンチャーゲームでありながら少しゲーム的な緊張感を強めた調整になっている。つまり『かぐや姫伝説』は、入口の広さと引き換えに、PC版の得体の知れない怪しさを少し整えた版なのである。遊びやすさでは優位だが、クセの濃さではオリジナル群に及ばない。そこがこの移植版の面白いところでもあり、惜しいところでもある。
結局、機種による違いの本質は内容の差より遊び味の差にある
総合すると、『新竹取物語』の各機種版は、RPGの完全版のように大幅追加要素を競う関係ではない。むしろ、FM-7版が原液、PC-8801版が知名度拡大型、X1版とPC-6601版が各機種文化に強く染まった版、PC-9801版が市場拡大型、そしてFC版『かぐや姫伝説』が家庭用向け再構成版という具合に、同じ核を持ちながら味わい方が変わるタイトルとして捉える方がしっくりくる。PC版群では自由入力と機種ごとのグラフィック・テンポ感が魅力になり、FC版では選択式コマンドと分かりやすさが前に出る。だからこの作品は、どの版が絶対の決定版かよりも、どの環境で触れると自分に合うかの方が大事な作品だと言える。
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■ 当時の人気・評判・宣伝など
発売当時の『新竹取物語』は、大ヒット作というよりかなり目立つ変わり種として注目を集めた
『新竹取物語』の当時の立ち位置をひと言でまとめるなら、国民的ヒット級の看板作というより、パソコンADVが乱立していた時代に「これは何か妙だぞ」と目を留めさせる異色作だった、という表現がいちばん近い。1984年当時のアドベンチャーゲーム界は、コマンド入力型の作品が次々と現れ、各社が独自性を競っていた時期だった。その中で本作は、竹取物語という古典題材を使いながら、下ネタまじりのギャグ、主人公設定のひねり、スコア制によるやり込み、複数条件で変化する展開を組み合わせており、ただの昔話ADVには見えなかった。つまり当時の人気は、誰もが知る王道の売れ線としてではなく、雑誌や口コミで「妙に気になる一本」として広がっていったタイプだったと考えるのが自然である。
宣伝の打ち出し方もかなり独特で、何を売りにしたいのかが一目で分かる広告が多かった
本作の宣伝で面白いのは、ただ「感動の物語」や「美しい世界観」を押し出すのではなく、ゲームそのもののクセの強さと攻略性を前面へ出していた点である。高得点のヒントに触れたり、プレイヤー条件によって展開が変わることを打ち出したりと、普通なら隠しておきそうな攻略の勘所まで宣伝のネタとして使っていた。しかも本作は、ただの入力型ADVではなく、プレイヤーの条件や行動が絡み合って変化する新しい体験として売り出そうという意識が感じられる。宣伝文句の段階から既に、「これはよくある竹取物語ゲームではない」と伝える工夫があったのである。こうした広告の作り方は、パッケージの印象やゲーム内容の奇妙さとも噛み合っており、本作の名前を記憶に残しやすくしていた。
ゲーム雑誌での扱いを見ると、少なくとも埋もれた無名作ではなかったことが分かる
当時の雑誌掲載状況をたどると、『新竹取物語』は少なくとも複数誌に取り上げられており、完全な日陰作品だったとは言いにくい。画面写真を多用した紹介記事や、攻略のコツ、高得点の話題などが掲載され、見開きで大きく扱われた時期もある。なかでも「高得点をどう取るか」が記事として成立していたことは、本作が単なるストーリーADVではなく、やり込み性まで含めて注目されていた証拠である。つまり本作は、発売直後に一部の雑誌編集部から「誌面を割いて見せる価値がある変わり種」と判断されていたのである。もちろん、雑誌掲載の多さだけで人気を断定することはできないが、少なくとも編集側が紹介したくなるだけの話題性と絵面の強さを持っていたのは確かだろう。
人気の実感は、販売本数よりも複数機種へ展開されたことと誌面で話題にされたことから読み取れる
本作については、確認しやすい公的な販売本数データが見当たらず、どれほど売れたのかを数字で断言するのは難しい。しかしその一方で、FM-7版から始まり、PC-8801、X1、PC-6601、PC-9801へ展開され、さらに1988年にはファミリーコンピュータへ『かぐや姫伝説』として移植された事実は重い。もし最初の段階でまったく反応が薄ければ、ここまで横展開する意味は小さかったはずである。したがって本作の当時人気は、ミリオン級の爆発ではなくとも、メーカー側が「別機種へ広げる価値がある」と見なす程度には、手応えのあるタイトルだったと見るのが妥当だろう。ブランド初期の顔として扱われていたことを考えても、単なる数合わせではなく、期待を背負った一本だったことがうかがえる。
当時の評判で特に目を引くのは、高得点狙いを作品の遊び方として前面に押し出していたこと
『新竹取物語』の評判を語るとき、発売当時からすでにどうやって高得点を取るかが話題になっていた点は見逃せない。攻略の勘所として、怪我を避けることや、特定人物とのやり取りをうまくこなすことなどが当時から取り沙汰されていたように、本作はただストーリーを終わらせるだけでなく、より上手く遊ぶことをプレイヤーへ意識させていた。さらに一定以上の点数を取ることを、半ばファン文化のように見せる遊び心ある打ち出しもあり、作品の宣伝と攻略文化がかなり近い距離にあった。単に謎解きの難しさを誇るのではなく、「君はどれだけうまくこの変な冒険をこなせるか」と煽る売り方だったわけで、これは80年代パソコンADVの中でもかなり個性的な評判の立ち方だった。
ファミコン移植の頃には、PC版のカルト的人気を引き継ぎつつも、評価はやや中堅寄りに落ち着いた
ファミコン版『かぐや姫伝説』になると、作品の受け取られ方は少し変わる。PC版特有の自由入力はコマンド選択式へ変更され、難易度・体力・得点といった要素を残しつつ、より家庭用向けの形へ整えられた。そのぶん入りやすさは増したが、同時にPC版の怪しさや実験臭は薄まり、評判も少し現実的な位置に収まった。つまりFC版は、当時の家庭用市場では「相変わらず変だが、評価は人を選ぶ」という位置づけだったと考えられる。これは悪いことばかりではなく、PC版の濃すぎる個性を一般向けに再調整しようとした結果でもある。
総合すると、当時の人気は数字で圧倒した作品ではなく、記憶に強く残った作品として成立していた
『新竹取物語』の当時の人気・評判・宣伝をまとめると、この作品は販売本数の大記録で語られるタイプではない。むしろ、PCゲーム展開の初期を支えた看板作として出発し、広告では攻略の勘所までネタにし、雑誌では大きく紹介され、機種をまたいで移植され、後年にはスコア制を軸にした変わり種ADVとして再評価される――そういうふうに、強い個性で記憶へ食い込んだタイトルだった。派手なメガヒットの証拠は確認しにくいが、複数誌での露出、複数機種への展開、FC移植までの流れを見る限り、少なくとも当時のゲーム好きのあいだで「ちょっと気になる一本」として存在感を持っていたのは確かである。宣伝も評判も、すべてがこの作品の普通ではなさを中心に回っていた。その意味で本作は、売れ方よりも残り方が印象的だったゲームだと言える。
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■ 総合的なまとめ
『新竹取物語』は、古典題材のゲーム化ではなく、80年代国産ADVの自由さを凝縮した異色作として見ると本質が分かりやすい
『新竹取物語』を総合的に眺めたとき、いちばん重要なのは「竹取物語をゲームにした作品」という説明だけでは、このタイトルの実像をとても語り切れないという点である。たしかに題材の入口は古典説話だが、実際の中身は、ギャグ、軽い下ネタ、ひねくれた設定、妙に癖の強い会話、そして当時のパソコンゲームらしい実験精神が濃密に混ざり合ったアドベンチャーだった。本作は1984年にビクター音楽産業からPC向けに発売され、のちに複数機種へ展開され、1988年には『かぐや姫伝説』としてファミコンにも移植されているが、その長い寿命を支えたのは、古典題材の知名度そのものよりも、他にあまり似たものがない遊び味だったと考えるほうが自然である。つまり本作は、昔話の再現作ではなく、80年代日本のパソコンADV文化が持っていた奔放さと未整理な熱気を、かなりむき出しのまま作品化した一本だったのである。
単なる珍作で終わらなかった理由は、見た目の変さの裏でゲーム設計にきちんと芯が通っていたからである
この作品が今も語られるのは、ただ変なネタが多かったからではない。本作には、カタカナ・ローマ字・英語から選べる入力方式、3段階の難易度、主人公の性別選択、体調や条件による展開の変化、そして最高160点のスコア制といった、当時としてはかなり意欲的な仕組みが盛り込まれていた。特にスコア制は重要で、単にエンディングを見るだけでなく、「どれだけ上手く遊んだか」を評価する構造によって、初期ADVにありがちだった一度解けば終わりを崩していた。奇抜な雰囲気のせいで色物に見られやすいが、実際にはかなり明確なゲームデザインの意思があり、その芯の強さが作品を長持ちさせたのである。
評価が割れやすいのも事実だが、それは欠点の多さというより尖り方がはっきりしているからである
一方で、本作が万人向けの名作かといえば、そこはかなり慎重に見たほうがいい。ギャグの質感は時代色が濃く、下ネタも含めて好みを強く分ける。テキスト入力型ならではの煩雑さや、分岐条件の見えにくさ、初見では高得点へ結びつく行動が分かりにくい点もあり、素直な快適作とは言いがたい。またファミコン版『かぐや姫伝説』では遊びやすさが増した一方で、PC版独特の怪しさや自由入力の手触りはやや薄れ、評価も中堅寄りに落ち着いている。つまり『新竹取物語』は、整った優等生ではなく、長所も短所も派手に出るタイプの作品だった。だが、その尖り方こそが、後年まで忘れられなかった理由でもある。好きな人には非常に強く刺さり、合わない人には妙なゲームとして通り過ぎる。その両極端さまで含めて、この作品の個性なのだろう。
当時のパソコンゲーム文化の中では、雑誌で目立つ変わり種として確かな存在感を持っていた
販売本数のような分かりやすい大ヒット記録は確認しにくいが、当時誌での扱いや複数機種への展開を見る限り、本作が埋もれた無名作だったとは考えにくい。複数のゲーム誌で取り上げられ、高得点のコツやユニークな打ち出しが確認されていることは、単にソフト一覧へ載っただけではなく、誌面でいじりがいのある個性派タイトルとして見られていたことを示している。つまり本作の人気は、圧倒的な数で市場を席巻したというより、ゲーム好きの記憶へ強く残るタイプの広がり方をしたのだと考えられる。広告、雑誌紹介、口コミ、そしてのちの移植展開まで含めて、本作は80年代PCゲーム文化の中で確かな輪郭を持っていた。
機種ごとの違いを含めて見ると、この作品はどの版で触れたかまで含めて語る価値がある
FM-7版を出発点に、PC-8801、X1、PC-6601、PC-9801へ広がり、最終的にファミコン版『かぐや姫伝説』へ至る流れを見ると、本作は一つの完成形だけで評価し切れる作品ではないと分かる。オリジナルに近い版では自由入力と得体の知れない空気が濃く、色数や音の印象が強い版もあり、ファミコン版では選択式コマンドに変わることで入口が広がった。つまり本作は、RPGのようにどの機種でも大筋同じと割り切るより、各ハードで少しずつ異なる遊び味を持つアドベンチャーとして見た方が面白い。ゲーム内容そのものの珍妙さに加え、80年代の機種文化と結びつきながら姿を変えていったところまで含めて、『新竹取物語』はかなり興味深い存在なのである。
最終的には、完成度の高さではなく唯一無二の濃さによって生き残った作品だと言える
総合評価としていちばんしっくりくるのは、『新竹取物語』を完璧な傑作として持ち上げることでも、単なるバカゲーとして笑って済ませることでもない。その中間にある、欠点も多いが、ほかでは代えがたい濃い味を持った作品という位置づけである。古典を大胆に崩した発想、スコア制による周回の意味づけ、分岐と条件変化の多さ、妙な会話やイベントの記憶への残り方、そして機種ごとに異なる手触り。これらが全部合わさった結果、本作は洗練された名作とは別の座標で長く記憶されるタイトルになった。だから『新竹取物語』を振り返る価値は、単に懐かしさに浸るためだけではない。国産アドベンチャーゲームがまだ形式を固め切っていなかった時代に、どこまで自由に、どこまで妙な方向へ、どこまで遊びの幅を広げられたのか――その一つの答えとして、この作品は今見ても十分に面白い。『新竹取物語』とは、名作と奇作の境界を危うく横切りながら、結局その危うさごと愛される側に残った、80年代らしさ全開の異色作だったのである。
[game-8]






























