FC ファミコンソフト セタ 本将棋 内藤九段将棋秘伝テーブルゲーム ファミリーコンピュータカセット 動作確認済み 本体のみ【中古】【..
【発売】:セタ
【開発】:ランダムハウス
【発売日】:1985年8月10日
【ジャンル】:テーブルゲーム
■ 概要
ファミコン初期の将棋ソフトとしての立ち位置
1985年8月10日にセタから発売された『本将棋 内藤九段将棋秘伝』は、ファミリーコンピュータで遊べる将棋ソフトの草分けとして語られることが多い作品である。派手な演出や物語性で引っぱるタイプのゲームではなく、盤面そのものの緊張感、駒を進める一手一手の意味、そして家庭用ゲーム機の中で将棋を成立させようとした当時の技術的な工夫に価値があるタイトルだ。内藤國雄九段の名を前面に掲げていることもあり、単なる玩具的なボードゲーム移植ではなく、「家庭で本将棋を指す」という体験をできるだけ本格寄りに見せようとした意欲が感じられる。実際、本作はファミコン用の将棋ソフトとしてかなり早い時期に登場しており、後年の洗練された将棋ゲーム群の出発点として見ると、その存在感は想像以上に大きい。発売時点での内容はきわめてシンプルで、基本は1人用、相手は画面右側のロボット型コンピュータ、こちらは画面左側の人間側として対局する形になる。先手・後手や手合割は選べる一方で、CPUの強さを細かく調整する機能はなく、詰め将棋集のような学習モードも用意されていない。この割り切り方が、本作を“教材ソフト”というより“家庭用の対局機”として印象づけている部分でもある。
タイトルに込められた本格志向と時代性
本作のおもしろさは、現代の感覚で見るとむしろ不便にさえ見える設計が、1985年という時代を通すと強い個性に変わる点にある。まだ家庭用ゲーム機で思考ゲームをじっくり遊ぶという文化が十分に定着していなかった頃、アクションやシューティングではなく将棋そのものを前面に出したソフトを市販商品として成立させたこと自体が挑戦だった。タイトルに「本将棋」と付いているのも象徴的で、これは気軽なミニゲーム集ではなく、きちんと盤を挟んで勝負するための一本であるという意思表示に近い。さらに、内藤九段監修を大きく打ち出すことで、将棋に詳しくない子どもや家族にも「これはそれらしい本格品らしい」という説得力を与えていたはずだ。もっとも、ゲーム内で内藤九段がキャラクターとして大きく活躍したり、細かな解説役として登場したりするわけではない。そのため、現代のプレイヤーから見ると“監修の名前は強く出ているが、ゲームの中身は非常に無骨”という印象を受けやすい。しかし、この無骨さこそが初期の将棋ソフトらしさでもある。必要最小限の機能で対局を成立させ、見た目も演出も要点だけに絞り、盤面の読み合いを主役に置く。その姿勢は、豪華さではなく真面目さで勝負していた1980年代前半の家庭用ゲームらしい空気をよく映している。
操作系と独特の対局演出
操作方法は非常に明快で、十字キーでカーソルを動かし、Aボタンで駒を持って置く。ここまでは直感的だが、本作を強く印象づけているのはBボタンに割り当てられた「待った」の扱いだ。普通なら一度押せば取り消しが成立しそうなものだが、このゲームでは一回押しただけでは単に「待った」と主張するだけで終わらない。さらに連打を続けると、画面内の人間キャラクターがロボット相手に頭を下げる動作を繰り返し、何度も懇願した末にようやく手が戻るという、妙に芝居がかった仕掛けになっている。頭を下げる回数まで細かく決められているため、ただの操作ではなく、どこかコミカルな儀式のように感じられる。この演出は、将棋という静かな競技の中に、ファミコンらしい遊び心をねじ込んだ好例と言っていい。リアルな盤上表現を目指しながらも、完全に硬派一辺倒にはせず、ゲームならではの愛嬌を残しているのである。こうした仕様は、のちの高度な将棋ソフトではむしろ見られなくなっていく部分でもあり、本作をレトロゲームとして印象深くしている大きな理由のひとつだ。単に古い将棋ゲームというだけでなく、「将棋を題材にした1980年代ファミコン表現」の面白さが詰まっている。
機能の少なさが逆に見せる作品の輪郭
本作は現代の基準で見ると機能面がかなり限定されている。対局相手はコンピュータのみで、人間同士の対戦や、細かな段階別難易度設定、詰将棋問題集、棋譜並べ、手筋解説といった学習補助は備えていない。だが、この削ぎ落とされた設計によって、作品の輪郭はむしろはっきりしている。つまり本作は、「将棋を総合的に学ぶソフト」ではなく、「ファミコンの中に将棋盤を持ち込むソフト」なのである。盤面で相手と向き合い、指し手を考え、勝ち負けを楽しむ。その中核だけをまず家庭用ハード上に実装することを優先したからこそ、余計な寄り道が少ない。手合割が選べる点は、その素朴な構成の中でもきちんと将棋らしさを確保しようとした部分であり、初心者と経験者の差を埋める工夫として見ることができる。一方で、CPUの思考やルール処理には時代相応の粗さもあり、たとえば将棋本来の厳密な反則規定の一部が完全には再現されていない。このあたりは弱点でもあるが、初期の家庭用思考ゲームが持っていた限界と工夫の両方を教えてくれる。完成された将棋エンジンではなく、家庭用ソフトとして将棋を動かす第一歩だったからこそ、本作は資料的にも興味深い価値を持っている。
後年に見えてきた歴史的価値
発売当時には、ひとつの将棋ゲームとして受け取られていた本作だが、時間がたつにつれて別の意味での重みも増していった。とくに注目されるのは、1990年の第1回世界コンピュータ将棋選手権に参加したという事実である。参加6ソフト中で2勝3敗、順位は4位という成績が伝えられており、しかも家庭用ゲーム機由来の将棋ソフトとしてはきわめて珍しい存在だった。この話は、単にレトロゲームとして懐かしむ以上の視点を本作に与えてくれる。つまり『本将棋 内藤九段将棋秘伝』は、家庭用ゲーム市場の商品であると同時に、コンピュータ将棋の発展史の片隅にも確かな足跡を残したタイトルなのである。もちろん、現在のAI将棋と比較すれば思考力や柔軟性には大きな差がある。しかし、それでもなお本作が語り継がれるのは、完成度だけではなく、時代の先頭で将棋を電子化しようとした先駆性があるからだ。ファミコン初期の限られた環境で、将棋という奥深いルール体系を遊べる形に落とし込んだ。その挑戦の結果として生まれたのが本作であり、だからこそ後年のプレイヤーはこのソフトを、単なる古い一本ではなく“始まりの一本”として見るのである。
■■■■ ゲームの魅力とは?
ファミコンで“将棋そのもの”を遊べる驚きが最大の魅力
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の魅力を語るうえで最初に外せないのは、やはり「ファミコンで本格的に将棋を指せる」という一点に尽きる。1985年当時の家庭用ゲームといえば、反射神経を使うアクションや、派手な画面変化を楽しむシューティングが主流だった。その中で本作は、盤面の読み、駒の価値、攻めと受けの兼ね合いといった、将棋ならではの思考の面白さをそのままゲーム機に持ち込もうとした。しかも、ただ将棋風の雰囲気をなぞっただけではなく、先手・後手や手合割を選びながら、コンピュータと正式な対局らしい形で向き合えるように作られている。この“真面目さ”が本作の第一の魅力であり、レトロゲーム好きから将棋好きまでを惹きつける理由でもある。後年の将棋ソフトと比べれば機能は控えめだが、そのぶん作品の芯がぶれない。あれもこれも盛り込むのではなく、「家庭のテレビの前で将棋を指す」という体験だけに集中しているので、プレイヤーは自然と盤面に意識を向けることになる。現代なら当たり前に見えるこの体験も、当時のファミコン市場では十分に新鮮で、将棋を知っている人には“家で気軽に相手が見つかる便利さ”を、将棋に詳しくない人には“ゲームを入り口に本将棋へ近づける入口”を提供していたと考えられる。こうした意味で本作は、豪華さではなく発想そのものに価値がある作品だった。
監修の看板が生む本格感と安心感
タイトルに大きく掲げられた「内藤九段」の名前も、本作の魅力を支える大きな柱である。内藤國雄九段監修という要素は、単に有名人の名前を借りただけの宣伝文句ではなく、このソフトを“きちんとした将棋ソフト”として印象づける役割を果たしていた。とくに1980年代半ばは、まだゲーム機で思考系の遊びをすること自体が珍しく、親世代から見ると「テレビゲームで将棋?」という見方もあったはずだ。そんな時代に、実在の有名棋士の名を冠していることは、それだけで商品への信頼感につながった。さらに、将棋を知らない子どもにとっても、「九段」という言葉や実在の棋士の存在が、ゲームの中にちょっとした権威や本物感を与えている。もちろんゲーム中に内藤九段が詳しく指導してくれるわけではないし、演出面で前面に出てくるタイプでもない。それでも、箱やタイトルの時点で漂う“将棋の正統派らしさ”はかなり強く、本作の空気を決定づけている。言い換えれば、本作の魅力は、ファミコンのカジュアルな遊びと、将棋という伝統競技の重みを結びつけたところにある。子ども向けの遊びとして手に取ってもよし、将棋盤の代用品として使ってもよし、という幅広さは、この監修の看板があったからこそ生きていた。作品全体のつくりが簡素であっても、安っぽく見えにくいのは、この“名前の強さ”が土台として機能していたからだろう。
硬派な題材なのに妙に愛嬌がある演出
本作を単なる地味な将棋ソフトで終わらせていないのが、独特の演出感覚である。特に有名なのが「待った」の扱いで、Bボタンを一度押しただけではすぐに手が戻るのではなく、さらに押していくと人間側キャラクターがロボット相手に頭を下げて頼み込み、何度も懇願した末にようやく取り消しが成立する。この一連の流れは、将棋という静かな競技の中に突然コミカルな芝居が挟まるようなもので、本作を語るときによく印象点として挙げられる部分だ。しかも、この演出は単に笑わせるためだけではなく、「待ったは本来そう簡単に許されるものではない」という空気を、ファミコン流のわかりやすいギャグに置き換えているようにも見える。つまり本作は、まじめに将棋を扱いながらも、完全な無表情シミュレーターにはなっていない。ロボットと人間が向かい合う構図や、動作の芝居っぽさによって、対局にちょっとした物語性が生まれているのである。この“硬派とユーモアの同居”は、初期ファミコンらしい魅力のひとつだ。現代の将棋ソフトの多くは、便利さや強さを重視するあまり、こうした無駄だけれど愛される演出を持たない。本作が今でも印象深く語られるのは、将棋ソフトでありながらどこか人間くさい、不器用な愛嬌を持っていたからだと言える。
見やすさとテンポのよさが生む“触っていて気持ちいい”感覚
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の魅力は、大きな機能や有名監修だけではない。実際に遊んでみると、駒の表示や盤面のわかりやすさ、操作時のテンポ感など、手触りの部分にしっかり気が配られていることがわかる。レトロゲームの将棋作品では、文字の潰れや視認性の悪さが遊びにくさへ直結しやすいが、本作はファミコンの制約の中でも駒の判別が比較的しやすく、成駒の区別も意識されていると評価されている。また、駒をつかんで置く一連の操作と効果音のリズムには独特の心地よさがあり、考える時間は静かでも、指し手を進める瞬間にはちゃんとゲームらしい快感がある。対局中にBGMを過剰に鳴らし続けない点も、結果として盤面への集中を助けている。派手な演出で盛り上げるタイプではなく、静けさそのものが緊張感に変わる設計なのだ。この静と動のバランスが、本作の味わい深さにつながっている。今の感覚で見れば簡素でも、当時のファミコン作品としては、ただ将棋のルールを入れただけでは終わらず、「盤面を追いやすい」「駒を動かす感触がよい」「手番が進む流れに気持ちよさがある」といった、ゲームとしての触感まで作ろうとしていたことが伝わってくる。こうした小さな丁寧さの積み重ねが、本作を単なる珍品ではなく、ちゃんと遊べる一本へ押し上げている。
強すぎないCPUが生んだ、初心者にも入りやすい間口
将棋ソフトとしての強さだけを求めると、本作のコンピュータは後年作品に比べて物足りなく感じられることがある。しかし、ここは見方を変えると別の魅力にもなる。強さを段階的に変えられない一方で、圧倒的に歯が立たないほどの存在ではないため、将棋を覚え始めたばかりの人でも「考えれば勝機がある」と感じやすい。棋力の高い人には単調さや弱さが指摘される一方、入口としては遊びやすいという受け止め方がされやすいのはそのためだ。これは、家庭用ゲーム機における入門ソフトとして考えると意外に大きな利点である。あまりに強い相手ばかりでは、初心者は何が悪かったのかもわからないまま心が折れてしまう。その点、本作は人間相手の練習台として完璧ではなくても、駒組みの感覚や取り合いの流れ、王を追い詰める手順の手触りをつかむには十分役立つ。つまり本作の魅力は、「将棋を極めた人を唸らせる強豪CPU」ではなく、「とりあえず盤を挟んで一局やってみよう」と思わせる敷居の低さにある。もちろん本格派には物足りない部分もあるが、ファミコン初の将棋ソフトとして多くの子どもや家庭に将棋の入り口を開いたという意味では、このほどよい難しさは決して欠点だけではない。これは後年の高性能AIとは別の価値であり、“初めての将棋ゲーム”としての親しみやすさこそが、本作の大事な魅力のひとつになっている。
今振り返ると、歴史そのものを遊べる作品でもある
現在の視点から『本将棋 内藤九段将棋秘伝』を遊ぶ魅力は、単にレトロだから懐かしいというだけではない。この作品は、ファミコン初の将棋ソフトとして知られ、さらに1990年の第1回世界コンピュータ将棋選手権に参加した家庭用ゲーム機ソフトとしても特異な位置を占めている。そのため、いま改めて触れると「昔の将棋ゲームを遊んでいる」という感覚以上に、「コンピュータ将棋の初期史を実際に操作している」ような気分になる。思考ルーチンの粗さも、ルール処理の甘さも、演出の素朴さも、すべてが当時の技術水準と挑戦の痕跡として見えてくる。完成度だけで測れば後発作品に譲る部分は多いが、それでも本作に独特の輝きがあるのは、歴史的な位置づけがゲーム体験そのものの面白さへつながっているからだ。現代の高性能将棋ソフトは強いが、そこへ至るまでの“試行錯誤の時代”を体感させてくれる作品はそう多くない。『本将棋 内藤九段将棋秘伝』はまさにその貴重な一例であり、今なお語る価値がある。将棋ゲームの魅力、ファミコン文化の魅力、そして技術の発展史としての魅力が一つに重なっている点こそ、本作が長く記憶に残る最大の理由だろう。
■■■■ ゲームの攻略など
まず理解しておきたい、本作ならではの前提条件
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』を攻略するうえで最初に大切なのは、現代の将棋ソフトと同じ感覚で向き合わないことである。本作はあくまで1985年のファミコン用将棋ゲームであり、後年の高性能AIのように柔軟で深い読みを毎回返してくるタイプではない。その代わり、先手・後手の選択、さらに駒落ちの条件を変えて遊べるため、自分の腕前に応じて対局の入口を調整しやすい。また時間制限ありの対局では持ち時間5分、その後は一手15秒という設定が用意されており、のんびり考える遊び方と、ある程度の緊張感を持った遊び方を切り替えられるのも特徴だ。攻略面で重要なのは、こうした設定をただの飾りとして見ないことだろう。将棋に慣れていない人がいきなり平手で勝ちにいくと、相手の弱さより先に自分のミスで崩れることが多い。そこで最初は時間制限なしにして盤面を見る癖をつけ、必要に応じて駒落ち条件も試しながら、駒の交換と王の安全を意識するところから始めるのがよい。本作には詰め将棋モードのような練習専用機能がないぶん、対局そのものを練習の場に変える発想が重要になる。さらに、本作は将棋のルールをおおむね再現しながらも、一部に現代の感覚では違和感のある処理が残っている。代表的なのが打ち歩詰めで、通常の将棋では反則になる場面でも、この作品では詰みとして扱われることがある。つまり、本作を攻略するには“将棋そのものの基本”と“このゲーム独自の癖”を分けて考える必要があるのである。まずはその前提を受け入れるだけで、無駄な戸惑いがかなり減り、勝ち筋も見えやすくなる。
初心者が勝率を上げるための基本方針
本作で安定して勝ちたいなら、奇抜な手を狙う前に、玉を守りながら飛車と角を働かせるという将棋の基本を徹底するのが一番近道である。レトロ将棋ソフトだからといって、無理攻めだけで何とかなるわけではない。むしろ、自玉が薄いまま前のめりに攻めると、少ないミスでも一気に形勢を損ねやすい。特に序盤は、歩の突き方を雑にせず、角道や飛車の通り道を意識しながら、どの駒を主役にして戦うかを早めに決めると指しやすくなる。本作のCPUは、後年のAIのように複雑な罠を何重にも仕掛けてくるわけではないため、こちらが陣形を落ち着かせて大駒を自然に使える形へ持ち込むだけでも優位を築きやすい。たとえば、飛車先や角道を巡る攻防を丁寧に見て、無理なく一枚ずつ駒を前へ進めるだけでも、相手の対応にはある程度の型が見えやすくなる。逆に、序盤から王の守りを後回しにして細かい駒得ばかりを狙うと、攻めの継続力が足りず、せっかくの優勢を決め切れないこともある。初心者にとって本作が遊びやすいのは、強さ設定が一段階しかない反面、盤面の基本を覚えていけば勝機が見えてくるところにある。だからこそ攻略の第一歩は、裏技を覚えることよりも、飛車・角・金銀を無理なく連動させる普通の将棋を丁寧に指すことだ。王を囲う、駒損を避ける、と金や成駒を作れる局面では確実に得を広げる。この積み重ねが、本作では驚くほどそのまま勝率につながる。
「待った」は救済機能だが、気軽には頼れない
本作を語ると必ず話題になる「待った」機能は、攻略の観点から見ても独特である。Bボタンを押せばすぐ一手戻せるわけではなく、何度もボタンを押し続け、画面内の人間キャラクターがロボットへ頭を下げる動作を重ねた末に、ようやく手が戻る。この仕様は見た目にはコミカルだが、実際のプレイではかなり重要な意味を持っている。つまり、本作の「待った」は便利なやり直し機能というより、“本当にその一手を取り消したいのか”をプレイヤーへ問い直す装置なのだ。現代のゲームなら気軽にリセットや巻き戻しを使いがちだが、本作ではその手間があるぶん、一手を指す前に少し立ち止まって考える習慣がつきやすい。攻略面で見ると、この機能は初心者にとって大きな助けになる一方、頼りすぎると読みの甘さが改善しにくい。おすすめなのは、序盤の大きな見落としや、うっかり駒を取り逃した場面だけに使うことだ。毎回のように待ったを使うとテンポが崩れ、対局の流れそのものをつかみにくくなる。また、何度も頭を下げる演出を挟む関係で、緊張感のある終盤では使う気力そのものが削られやすい。だから本作の攻略における「待った」は、失敗を帳消しにする万能技ではなく、学習のための非常口として捉えるのがちょうどいい。ミスを完全に消すためではなく、「なぜこの手が悪かったのか」を一度だけ見直すために使う。そう考えると、この妙に手間のかかる機能も、意外と理にかなった練習道具に見えてくる。
有名な15手勝ちは“必勝法”というよりCPU研究の入り口
本作には、平手でプレイヤーが先手、しかも時間制限なしという条件下で、15手でコンピュータに勝てる手順が存在することで知られている。この話だけを聞くと「それさえ覚えれば攻略完了」と思いたくなるが、実際にはこの15手勝ちは単なる裏技というより、本作のCPUがどんな応手の癖を持っているかを学ぶための教材として見るほうが面白い。相手が一定の手順にかなり素直についてくるからこそ成立する短手数勝利であり、そこには現代の将棋AIには見られない、初期コンピュータ将棋らしい読みの偏りが表れている。攻略としての価値はもちろん高いが、本質は「このゲームでは相手がどの筋をどう受けるのか」を観察することにある。実際、定番の15手勝ちでは、こちらが変則的な進行を見せても、相手は特定の形を優先するように応じ、その結果として急所に無理が生じる。ここから学べるのは、最短手順そのものより、CPUが局面全体よりも局所的な対応を優先しやすいという傾向である。つまり、短手数撃破を丸暗記するだけでなく、なぜその形が成立するのかを理解すると、別の局面でも応用が効く。たとえば相手の玉が特定の筋へ寄ったとき、飛車や角の通り道を作れば急所を突きやすい、といった感覚が養われるわけだ。裏技として楽しむだけでなく、CPUの思考を読む材料として使えば、本作の攻略は一段と奥深くなる。15手勝ちはゴールではなく、このゲームの弱点と面白さを同時に知るための入口なのである。
本作では“本来の禁じ手”やルール差も戦い方に影響する
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の攻略を考える際に見落とせないのが、将棋本来の厳密なルールと、ゲーム内処理とのずれである。特に打ち歩詰めが許される点は、終盤の詰ませ方に大きく関わってくる。通常の将棋を知っている人ほど、この仕様には戸惑うかもしれないが、本作ではこの差を知らないまま終盤に入ると、勝てるはずの局面で遠回りをしてしまうことがある。逆に、この仕様を理解していれば、持ち駒の歩を詰めの決め手として使える場面が増え、終盤の見通しがかなり楽になる。もちろん、これは本格将棋の勉強としては癖がつきそうな部分でもあるため、リアル将棋の感覚と混同しない意識は必要だ。しかし“ゲームとして勝つ”ことを優先するなら、作品固有のルールを使いこなすのも立派な攻略である。また、こうしたルール差は単なる欠点として片づけるより、当時の技術的制約と設計思想の一部として受け取ると納得しやすい。本作は完全無欠の将棋再現を目指すより、家庭用ゲーム機の限界の中で対局を成立させることを優先している。だからこそ攻略では、現代の常識に合わせるのではなく、「このソフトの盤上では何が有効か」を見極める姿勢が求められる。打ち歩詰めの扱いを知るだけでも、本作での終盤力はかなり変わる。これはズルではなく、この作品のルールを理解した者だけが得られる実戦的な知識だと言ってよい。
難易度の捉え方と、このゲームを長く楽しむための遊び方
本作の難易度は、将棋の熟練者から見ると決して高すぎるわけではないが、初心者にとっては十分に手応えがある。そのため攻略のコツは、“最強の敵に挑む”感覚ではなく、“相手の癖を掴みながら自分の将棋を整える”という発想を持つことにある。最初の数局では、勝ち負けよりもどの局面で飛車が使いやすかったか、どこで玉が危険になったか、歩をどこで無駄にしたかを振り返ると上達しやすい。時間制限なしでじっくり考えるのもよいし、慣れてきたら持ち時間ありの設定で指して、読みの速度を上げる練習にしてもいい。駒落ち戦を利用して“有利な形から攻めを覚える”という遊び方も、本作には向いている。こうして見ると『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の攻略は、単純な必勝テクニック集というより、初期将棋ソフトと対話しながら読みの癖を掴んでいく過程そのものに面白さがある。短手数勝利のような有名手順を試すのもよし、あえて普通の将棋として腰を据えて指すのもよし。どちらを選んでも、この作品は「昔のCPUと盤を挟んで知恵比べをする」楽しさをちゃんと返してくれる。最終的に勝つための一番確実な方法は、奇策に頼り切ることではなく、相手の応手の傾向を見抜き、こちらの陣形を崩さず、終盤で確実に寄せ切ることだ。その基本を学ぶには、本作は思いのほか良い教材になっている。
■■■■ 感想や評判
全体としては「歴史的価値の高い初期作」として好意的に見られやすい
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の評判をまとめると、圧倒的な名作として持ち上げられるというより、「ファミコン初の将棋ソフトとしてよくここまで形にした」と感心されるタイプの作品である。現在振り返られる際には、まず“家庭用ゲーム機で将棋をきちんと遊べる形に落とし込んだ先駆作”である点が高く評価されている。とくに後年の視点からは、ファミコン発売からまだ間もない時期に、漢字表示や駒の視認性、操作のしやすさまで考慮した将棋ソフトを成立させたこと自体が大きな長所として受け止められている。言い換えれば、本作の評価は単純な強さや機能の多さだけで決まっているのではなく、「1985年のファミコンでここまでできた」という時代補正込みの再評価によって支えられている部分が大きい。つまり、単なる珍品ではなく、基礎のよくできた初期作品として見られているのである。
遊んだ人の感想では、見やすさと手触りの良さが意外に強く残っている
実際のプレイ感に関する評価で目立つのは、駒や文字の見やすさ、操作時のテンポ、そして指し手を進めるときの感触の良さである。一字駒の採用で盤面が認識しやすいこと、成駒が区別しやすいこと、自分と相手で効果音が違うことなど、細部の配慮が長所として語られやすい。対局中のBGMを控えめにしている点も、地味ではあるが盤面への集中を助ける方向に働いており、「静かな緊張感」がこの作品らしい味だと受け止められている。また、駒を持って置く一連の動作が軽快で、CPUの応答も比較的早いため、古い将棋ソフトにありがちなもたつきで苛立たされにくいという印象もある。派手さより手触りの良さが印象に残るタイプの作品であり、そこがレトロゲームとしての好感度につながっている。現代の高性能将棋ソフトとは別の意味で、「触っていて心地いい」という評価を得ている点は、本作の評判を語る上でかなり重要だ。
一方で、将棋ソフトとしての強さや深さにははっきり限界があると見られている
好意的な評価がある一方で、厳しめの感想もかなりはっきりしている。もっとも多いのは、やはりCPUの棋力に関する指摘だ。本作のコンピュータは思考時間が短くテンポが良い反面、先読みの深さに乏しく、とくに終盤で弱さが露呈しやすい。採る戦法にも偏りがあり、基本的には一定の形に寄りやすいため、慣れてくると攻略の糸口を見つけやすいという見方が多い。「九段の名を冠しているのに相手がそこまで強くない」というズレは、ある意味でこの作品らしい愛嬌でもあるが、純粋な実力勝負を求める人には物足りなさへ直結する。現代の将棋ファンや中上級者が本作を遊ぶ場合、純粋に“強い相手との本格勝負”を期待すると肩透かしを感じやすいだろう。そのため評判は、「初期作として立派」と「対局相手としては物足りない」が同時に成り立つ、やや二重構造になっている。
“待った”やロボット演出は、賛否が分かれつつも強い印象を残している
本作ならではの特徴である「待った」の演出については、評価がきれいに二分されるというより、驚きと愛嬌が混ざった形で受け止められていることが多い。ボタンを押せばすぐ戻るのではなく、連打して人間側がロボットに何度も頭を下げて頼み込むという仕様は、将棋ソフトとして見ればかなり珍妙である。しかし、その妙な手間がかえって忘れがたい個性になっており、作品を象徴する要素としてしばしば語られる。実用面だけ見れば煩わしいが、作品の記憶に残る要素としては非常に強い。まじめな将棋ソフトでありながら、少しだけ変な愛嬌を持っていることが、本作の印象をただの地味な盤上ゲームで終わらせていないのである。
近年のレトロゲーム界隈では、純粋な対局作以上に“語れるソフト”として愛されている
近年の評判を見ていくと、『本将棋 内藤九段将棋秘伝』は単に将棋を指くためだけのソフトとしてよりも、ファミコン文化やコンピュータ将棋の黎明期を語る上で面白い一本として扱われる傾向が強い。ファミコン初の将棋ソフトという肩書きそのものが話題性を持っており、さらに15手勝ちの存在や、独特な「待った」演出まであるため、普通の将棋ゲーム以上に“いじりがいのある歴史的ソフト”として知られている。強さやモードの豊富さでは後発作に及ばなくても、初期ファミコンらしい設計思想、ユニークな演出、そして将棋ゲームの始まりとしての重みがあるため、レトロゲーム好きの間ではむしろ話題にしやすい作品になっている。こうした意味で本作の評判は、実用品としての将棋ソフトから、歴史を楽しむためのレトロ作品へと、時間とともに少しずつ重心を移してきたといえる。
総じて、評判は「完成度への驚き」と「時代相応の限界」の両方で成り立っている
最終的に『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の感想や評判を一言でまとめるなら、「今の基準では不足も多いが、初期作品としては驚くほどよくできている」というところに落ち着く。高く評価されるのは、将棋ソフトとしての基礎をしっかり整え、見た目や操作、テンポの部分にも丁寧さがある点だ。逆に不満として挙がりやすいのは、CPUの弱さ、内藤九段らしさの薄さ、対戦相手やモードの乏しさである。けれど、その長所と短所を含めてこそ本作の個性になっており、後年のプレイヤーはそこに“初期ファミコンの味”を見ている。つまり、誰にでも無条件で薦められる万能作ではないが、将棋ゲームの歴史やレトロゲーム文化に興味がある人にとっては、十分に触れる価値のある一本として好評を保っているのである。
■■■■ 良かったところ
ファミコン初の将棋ソフトとは思えないほど、土台がしっかりしていたこと
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の良かったところを最初に挙げるなら、やはり「最初期の作品なのに、将棋ソフトとして最低限どころか、それ以上の形がきちんと整っていた」という点に尽きる。ファミコン初の将棋ソフトでありながら、ただ盤と駒を画面に置いただけの試作品のような仕上がりではなく、対局をひとつのゲーム体験として成立させるための骨格がかなり真面目に作られている。将棋はアクションゲームのように見た目の派手さで押し切れる題材ではなく、盤面の読みやすさ、駒の区別、操作時の誤認の少なさといった基本設計がそのまま遊びやすさへ直結する。その意味で本作は、後年の基準では素朴でも、1985年の家庭用ゲーム機という条件を踏まえると驚くほど着実な作りだった。単に“古いから珍しい”のではなく、“古いのによく遊べる”というのが本作の大きな長所なのだ。これはレトロゲームとして非常に重要なことで、歴史的価値だけしかない作品は実際に遊ぶと辛さが目立ちやすいが、本作はきちんと対局の楽しさを体験できる。将棋ゲームの始祖に近い立場でありながら、単なる資料で終わっていないところが、本作のまず素晴らしい点である。
駒の見やすさと盤面の分かりやすさに、想像以上の気配りがあること
本作の美点として特に評価されやすいのが、駒表示の見やすさである。ファミコンの解像度や表現力には厳しい制約があったにもかかわらず、本作の駒は判別しやすく、一字駒を用いたことで視認性を優先した作りになっている。さらに成駒の表示も区別しやすく、盤面を追っていて混乱しにくい。このような細かな配慮は、実際に対局を始めるとじわじわ効いてくる。将棋ゲームは、一手ごとの派手さよりも「今どこに何があるか」がすぐ把握できるかどうかが重要であり、その点で本作はかなり堅実だ。複雑な漢字を無理やり潰して表示しているのではなく、限られた表現の中で“見てわかる形”へ落とし込んでいるため、将棋に慣れていない人でも駒の判別で躓きにくい。これは一見地味だが、遊び続けるうえでは極めて大きい長所である。盤面が見づらい将棋ソフトは、それだけで思考より先に疲れてしまう。その点、本作は操作する前から「ちゃんと将棋を遊ばせよう」という設計意図が伝わってくる。見栄えより実用性を優先し、その実用性が結果として作品の信頼感につながっているのである。
静かな題材なのに、操作のテンポと音まわりが心地よいこと
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』は地味なゲームだと思われがちだが、実際に触ってみると、駒を動かすテンポや効果音の気持ちよさがかなり印象に残る。駒を持って置く一連の動作がリズミカルで、コンピュータの思考速度も相まって快い操作感がある。また、自分と相手の指し手で効果音が変えられている点も細やかな工夫であり、目だけでなく耳でも手番の流れがわかるようになっている。これは派手な演出ではないが、将棋のような静かな題材では非常に効く。対局中にBGMを過剰に流さず、むしろ静けさを活かしている点も、本作の雰囲気づくりに成功している。無音に近い空気の中で盤面と向き合うからこそ、一手指す瞬間の音や間が際立ち、緊張感が生まれるのだ。こうした“静かな気持ちよさ”は、アクションゲーム的な爽快感とは別種の魅力であり、本作ならではの良さだと言える。
初心者でも将棋らしい勝負を楽しめる、間口の広さがあったこと
将棋ソフトとしての強さだけを見れば本作のCPUは突出しているわけではないが、そのことが逆に良かったと感じる人も多い。強すぎる相手は上級者には手応えがあっても、初心者にとっては何も学べないまま終わってしまいやすい。その点、本作は“将棋に少し触れたばかりの人でも勝機を見出しやすい”という意味で、家庭用ゲームらしい間口の広さを持っていた。厳密な強豪ソフトというより、将棋の入口として遊びやすい存在だったことが、本作の評価の底を支えている。ファミコンという家族向けハードで発売されたことを考えれば、誰でも一局指してみようと思える敷居の低さは明確な長所だった。特に当時は、家で将棋相手がいつでも見つかるとは限らなかったから、相手の強弱はさておき、ゲーム機に向かえば盤を挟んだような気分で勝負できるだけでも価値があったはずだ。本作は“本格”を名乗りながらも、排他的ではない。そのバランスが良かったからこそ、将棋ファンだけでなく、ゲームをきっかけに将棋へ触れる層にも届いたのである。
「待った」の演出が、欠点にもなり得るのに強い個性として愛されていること
普通なら、余計に手間のかかる仕様は短所になりやすい。だが本作の「待った」は、その手間そのものが愛される珍しい例である。Bボタンを一度押しただけでは取り消しにならず、人間側がロボットへ頭を下げ続け、何度も懇願した末にようやく手が戻るという演出は、実用一点張りでは考えにくい。けれど、この妙に回りくどい仕掛けが本作の記憶に残る最大級の個性になっている。まじめな将棋ゲームの中へ、ほんの少しだけユーモアを差し込んだことで、本作はただの地味なテーブルゲームではなくなった。しかも、この仕様には「待ったは軽々しく使うものではない」という感覚も自然に乗っており、結果として対局の重みを損ねすぎていない。便利さより印象深さが勝っている好例であり、作品を象徴する味として今も強く記憶されている。ゲームというものは、完成度だけでなく“どこか変で忘れられない部分”を持つと一気に存在感が増す。本作における「待った」はまさにそれで、弱点と紙一重でありながら、最終的には長所として語られることの多い、非常に面白い要素になっている。
今では“歴史を遊べる作品”としての価値がはっきり見えること
最後に挙げたい良かったところは、現在の視点から触れたとき、本作が単なる昔の将棋ソフトではなく、“将棋ゲーム史の始まりを遊べる一本”になっていることだ。ファミコン初の将棋ソフトという肩書きだけでも十分に特別だが、さらに後年にはレトロゲーム界隈で独自の遊ばれ方が生まれたこともあり、普通の将棋カートリッジ以上の存在感を持つようになった。これは、単に古いからではなく、作品としての個性が今でも通用するからこそ起きた現象である。古い将棋ソフトの多くは資料的価値だけで見られがちだが、本作はそこから一歩進んで、“遊ぶとちゃんと面白さが見える歴史的作品”として生き残っている。昔の技術、昔の発想、昔の遊び心が、そのまま現代のプレイヤーにとっての新鮮さへ変わる。そうした時間の超え方ができる作品は意外に少ない。その意味で『本将棋 内藤九段将棋秘伝』は、弱点も抱えながらなお、良かったところを確かに多く持つ一本だと言える。
■■■■ 悪かったところ
将棋ソフトとして見ると、やはりCPUの弱さが一番大きな不満になりやすい
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の悪かったところとして、もっとも多く挙げられやすいのは、やはりコンピュータの棋力に関する問題である。本作はファミコン初の将棋ソフトとして大きな意義を持つ一方、純粋に“強い将棋ソフト”を求める人の期待には応えきれない部分がある。CPUは手の選び方に偏りがあり、似たような展開へ流れやすいこと、受けるべき場面で受けが甘いこと、終盤で明らかに不自然な手を指しやすいことなどがよく指摘される。実際、同じ手順に対してかなり似た応手を返しやすい傾向があり、相手の癖を把握すると一気に攻略しやすくなる。有名な短手数勝ちの存在そのものが、CPUの読みの浅さを象徴する話として扱われるのもそのためだ。これ自体はレトロゲームとしての面白さにもなっているが、将棋の真剣勝負を期待して遊ぶと、どうしても物足りなさが先に立つ。初心者にとっては入りやすさにつながる一方で、少し慣れた人や実戦経験のある人には、対局相手としての粘りや奥行きが不足して見えやすいのである。つまり本作の最大の弱点は、ゲームとして成立していても、将棋ソフトとして長く付き合うにはCPUの実力差が気になりやすい点にある。これは時代的には仕方のない限界ではあるが、現代の視点でははっきり短所として映る部分だ。
対局モードが少なく、遊びの幅がかなり狭いこと
本作は対局の骨格こそしっかりしているが、遊び方の広がりという意味ではかなり限定的である。1人用でコンピュータと指すことが基本になっており、2人対戦はできない。さらに、CPUの強さを段階的に変える機能もなく、詰め将棋のような練習モードも備えていない。つまり、将棋をいろいろな角度から楽しむというより、“ひたすら同じ相手と盤を挟む”タイプの設計になっているわけだ。これが発売当時にはシンプルでわかりやすい長所にもなり得たが、長く遊ぶと単調さへつながりやすい。たとえば初心者なら「もう少し弱い相手から練習したい」と思うかもしれないし、逆に経験者なら「もっと強い設定で勝負したい」と感じやすい。しかし本作にはその中間調整がない。将棋の学習ソフトとして見ても、局面練習や詰め将棋がないため、弱点を部分的に鍛えることが難しい。その結果、対局そのものが楽しいかどうかで評価が大きく分かれてしまう。もし相手の棋力や手順に飽きてしまえば、他に気分を変えるモードがほとんどないからである。初期作ゆえの割り切りとはいえ、このモード不足は明確な弱みであり、当時のプレイヤーにとっても、今のレトロゲームファンにとっても、惜しい点として受け止められやすい。
「内藤九段監修」の看板に対して、中身が少し追いついていないこと
タイトルに大きく掲げられている「内藤九段将棋秘伝」という名前は本作の大きな売りだったが、逆にそこが期待とのズレを生みやすい弱点にもなっている。タイトルほど“内藤國雄九段らしさ”を感じられないという見方は昔からあり、実際に遊んだ印象でも、思ったより淡白な将棋ソフトに見えやすい。もちろん監修という立場なので、ゲーム中に棋士本人が詳しく解説をしてくれるわけではないし、派手に登場する必要もない。しかし、タイトルの強さに比べると、実際の内容はかなり無骨で、将棋の対局機能に寄った簡素な作りである。そのため、購入時に「名棋士の秘伝が学べる」「内藤流の何かが体験できる」と期待すると、少し肩透かしを感じる可能性が高い。将棋ソフトとしての内容そのものと、ブランドとして掲げられた名前の印象が少し噛み合っていないのである。このズレはゲームの本質的な出来を直接損なうものではないが、看板の大きさゆえに余計に目立つ。むしろタイトルを普通の将棋ゲーム名にしていたなら、ここまで言われなかったかもしれない。だが実際には“内藤九段監修”が強い宣伝文句になっている以上、その名前に見合う個性や指導性がもっと欲しかった、と感じる人が出るのは自然な流れだろう。
ルール再現に甘さがあり、本将棋としては気になる部分が残ること
本作は「本将棋」と銘打ちながらも、ルール処理の厳密さにははっきり限界がある。代表的なのが打ち歩詰めの扱いで、本来の将棋では反則となる局面でも、このゲームではそのまま詰みとして通ってしまう場合がある。また、千日手の扱いなどでも、現代の厳密な将棋感覚とは違和感が出やすい。これは当時のハード性能やプログラム規模を考えれば理解できる部分ではあるが、将棋を知っている人ほど違和感を覚えやすい短所でもある。特に“本将棋”という言葉には、かなり正統派の響きがあるため、そこで厳密さに欠ける箇所が見えると、どうしても名前負けしているように感じてしまう。もちろん、遊ぶ上で常に支障が出るほどではないし、多くの対局では普通に将棋らしい勝負になる。だが終盤の詰みや引き分けに関わる場面では、リアル将棋の感覚とズレが出るため、学習用として使う場合には注意が必要だ。将棋ゲームにおいてルールの正確さは土台そのものなので、この点は本作の数少ない“ゲーム性より前に気になる弱点”だと言ってよい。
「待った」の演出は印象的だが、実用面ではかなり面倒でもある
本作の象徴的な要素である「待った」機能は、ユニークで愛嬌がある半面、実用面だけ見るとかなり扱いづらい。Bボタンを押してすぐ一手戻せるわけではなく、何度も連打して人間側がロボットへ頭を下げ続けたあとでようやく成立するという仕様は、演出としては強烈だが、実際のプレイではテンポを崩しやすい。誤操作のやり直しや試行錯誤を気軽に行いたい人ほど煩わしさを感じやすい。しかも、将棋は一手ごとの意味が大きいゲームなので、「ちょっと戻して検討したい」と思う場面は少なくない。そのたびに儀式のような操作を求められると、ユーモア以上に手間が前に出てしまうことがある。もちろん、これが軽々しい“待った”の乱用を防ぐという見方もできるが、快適性の観点からはやはり不便だ。レトロゲームとして語るときには愛され要素になる一方、純粋な遊びやすさだけで判断すれば、間違いなくクセの強い仕様であり、人によってははっきり短所に映る部分でもある。
総じて、歴史的価値は高いが“完成形”ではなく、初期作らしい粗さが残っている
最終的に『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の悪かったところをまとめると、CPUの弱さ、モード不足、ルール処理の甘さ、タイトルに対する内容の淡白さなど、初期作品らしい粗さが各所に残っているという点に尽きる。ファミコン初の将棋ソフトとしての意義は非常に大きく、盤面の見やすさや基本設計には確かな良さがある。しかし、だからこそ余計に「もう少し強ければ」「もう少し正確なら」「もう少し幅があれば」と感じさせる惜しさも強い。後年の評価が比較的好意的であるのは、こうした短所を認めた上でなお、先駆作としての価値や味わいを評価しているからであって、欠点がないからではない。言い換えれば本作は、完成度だけで語るソフトではなく、挑戦と限界がそのまま表に出ている作品である。そこを味と見るか、物足りなさと見るかで印象は変わるが、少なくとも悪かったところは決して少なくない。ただ、その欠点まで含めて“1985年のコンピュータ将棋”をそのまま体験できる点が、本作を今でも語る価値のある一本にしている。
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■ 好きなキャラクター
この作品における「好きなキャラクター」は、物語の登場人物ではなく対局を彩る存在として語られる
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』は、RPGやアクションゲームのように多数の登場人物が現れて会話を交わす作品ではない。そのため「好きなキャラクター」という観点で語る場合、一般的な意味でのキャラクター人気をそのまま当てはめるのは少し違う。しかし実際には、このゲームを印象深く思い出す人ほど、盤面の横にいるロボットの対戦相手や、こちら側の人間プレイヤーのしぐさ、さらには駒そのものが持つ存在感まで含めて、“このゲームらしいキャラクター性”を感じ取っていることが多い。画面構成としても、左側の大部分に将棋盤が置かれ、右側に人間とロボットが向かい合っている形になっており、単なる無機質な盤面だけでは終わらない演出がある。さらに、プレイヤーが指すときには人間の手、CPUが指すときにはロボットの手が現れ、勝敗によっても細かな動きが入るため、見た目以上に“対局している相手がいる”感覚が強い作品なのである。だから本作における好きなキャラクター論は、設定資料集に載る人物人気ではなく、限られた表現の中でどの存在がもっとも記憶に残るか、どのしぐさに味があるか、という視点で掘り下げるのが自然だろう。
もっとも印象に残りやすいのは、やはり右側に座るロボットの対戦相手
本作で「好きなキャラクターは誰か」と聞かれたとき、まず名前が挙がりやすいのは、画面右側でこちらと向き合うロボットの対戦相手だろう。このロボットは、単なるCPUの記号ではなく、対局相手としての存在感を視覚的に担っている。将棋ゲームは本来、盤面だけでも成立するジャンルであり、極端な話、駒の配置とカーソルだけでも遊べる。それにもかかわらず本作がロボットという見た目をわざわざ用意しているのは、相手がただの機械的処理ではなく、“一局を戦う相棒であり敵”として見えるようにするためだったのだと思われる。しかもこのロボットは、いかにも1980年代の家庭用ゲームらしい、どこか愛嬌のある未来感を漂わせている。圧倒的に怖い強敵でもなく、かといって完全な置物でもなく、こちらの一手一手に反応して盤を挟む相手としてそこにいる。その絶妙な距離感が、本作の空気を決めている。CPUの強さそのものには賛否があるが、キャラクターとして見た場合、このロボットはむしろ“強すぎないからこそ親しみが湧く”存在でもある。あまりに無表情で完璧なAIだったら、ここまで印象には残らなかったかもしれない。少し古風で、少し不器用で、でも確かにこのゲームの顔になっている。その意味で、ロボット対戦相手は『本将棋 内藤九段将棋秘伝』における実質的な看板キャラクターだと言っていい。
負けじと存在感を放つのが、こちら側を象徴する人間プレイヤーのしぐさ
ロボットばかりが語られがちだが、本作でかなり味わい深いのは、左側の人間側の存在である。プレイヤーそのものを象徴するこの人間キャラクターは、派手にしゃべったり表情を変えたりするわけではないものの、操作や演出の中で独特の存在感を放っている。特に印象的なのは「待った」にまつわる動きで、すぐにやり直しが許されるのではなく、何度も頭を下げてお願いするというコミカルな演出が入ることで、この人間側のキャラクター性が一気に立ち上がる。将棋という静かな勝負の中で、こちら側の分身がここまで情けなく、しかしどこか憎めない姿を見せるのは珍しい。真剣勝負の最中に、あえて少し情けない所作をさせることで、ゲーム全体に人間味が生まれているのである。ロボットが無機質なCPU側の象徴だとすれば、この人間側はミスもするし頼みもする、愛嬌あるプレイヤー側の象徴だと言える。実際、この作品の記憶を語るとき、「待った」で頭を下げる人の姿が真っ先に浮かぶ人も少なくないだろう。目立つ登場人物が少ないからこそ、このような小さな仕草が強いキャラクター性へ変わっていく。本作における人間側の魅力は、英雄的なかっこよさではなく、負けそうになったときの往生際の悪ささえ愛嬌に変えてしまうところにある。
駒たちもまた、実質的には“好きなキャラクター”として愛着を持たれやすい
この作品の「好きなキャラクター」をさらに広く捉えるなら、やはり将棋の駒たちそのものも外せない。本作は物語上の固有名詞を持つ人物が少ないぶん、盤上で活躍する飛車、角、金、銀、桂馬、香車、歩兵といった駒の存在感が非常に大きい。特に将棋ゲームでは、プレイヤーの記憶に残るのは“誰が喋ったか”ではなく、“どの駒が決め手になったか”であることが多い。そのため、本作を好きな人の中には、飛車の頼もしさや、角が通ったときの爽快感、終盤に成った歩やと金の粘り強さに、ある種のキャラクター愛を抱く人もいるはずだ。しかも本作は一字駒や成駒の色分けによって駒が見分けやすく設計されており、盤上の一枚一枚がちゃんと“役者”として見えるようになっている。見やすいからこそ、駒の働きが印象に残りやすく、愛着も湧きやすいのである。物語性の薄いゲームほど、プレイヤーは自然と機能そのものへ感情移入する。将棋で言えば、それは局面を支えた駒たちだ。本作の好きなキャラクター論が、最終的に駒そのものへたどり着くのはごく自然な流れであり、むしろ将棋ゲームとしてはもっとも健全な愛着の持ち方なのかもしれない。駒たちはセリフを持たないが、盤面の中で最も雄弁に語る存在である。
「好きなキャラクター」が少ないこと自体が、この作品の個性にもなっている
普通のゲームなら、登場キャラクターの少なさは弱点として扱われやすい。だが『本将棋 内藤九段将棋秘伝』に関しては、その少なさ自体が逆に個性になっている。余計な人物や演出を増やさず、人間とロボット、そして盤上の駒だけで勝負の世界を作っているからこそ、ひとつひとつの存在が濃く見えるのである。右側のロボットはただのCPU以上に“対戦相手”として記憶に残り、人間側は「待った」の仕草だけで妙な愛嬌を持ち、駒たちは局面ごとに主役を入れ替えながら盤上劇を作る。こうして見ると、この作品には大勢の登場人物はいないが、将棋の一局を成立させるために必要なキャラクター性は十分すぎるほど詰まっている。むしろ余計な設定説明がないぶん、プレイヤー自身が相手ロボットへ勝手に感情を乗せたり、自分の飛車や角へ愛着を持ったりできる余白がある。これはストーリーゲームにはない魅力であり、将棋という題材にとても合っている。好きなキャラクターが誰かを明確な名前で一人挙げるタイプの作品ではないが、だからこそ「自分にとっての相棒は飛車だった」「どうしてもあのロボットが印象に残る」といった、プレイヤーごとの思い入れが生まれやすい。本作のキャラクター性は少人数だから弱いのではなく、少人数だからこそ濃いのである。
結局いちばん愛されているのは、“盤の向こうにいる相手”という感覚そのものかもしれない
最終的に『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の好きなキャラクターを総合的に考えると、特定の一人だけを指すよりも、“盤の向こうにちゃんと相手がいると感じさせる全体の演出”そのものが愛されているように思える。ロボット、人間側の所作、手の演出、勝敗時の反応。これらが合わさることで、本作は単なる計算機との対局ではなく、どこか対面の勝負らしい空気を作り出している。将棋ゲームにおいてこの感覚はとても大事で、ただ強いだけの相手より、印象に残る相手のほうが長く記憶されることがある。本作はまさにそのタイプの作品で、キャラクター数の少なさを演出の密度で補い、結果としてプレイヤーの心に残る“顔”を作ることに成功している。だから、この章の答えをあえて一つに絞るなら、好きなキャラクターは右側のロボットであり、同時にそのロボットと向き合う人間側の自分でもあり、さらに盤上で戦う駒たちでもある。そうした全部をまとめて好きになれるところが、このゲームの面白いところだ。将棋ソフトでありながら、意外なほどキャラクターの記憶が残る。そのこと自体が『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の独特な魅力と言えるだろう。
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■ 当時の宣伝・現在の中古市場など
当時の売り方は、派手な演出よりも「内藤九段監修」という看板が中心だった
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』の発売当時を考えると、この作品の訴求軸はアクションゲームのような派手さではなく、「有名棋士の名を冠した本格将棋ソフト」という信頼感に置かれていたと見るのが自然である。将棋ゲームがまだ珍しかった時代に、ただ“コンピュータと対局できる”だけでなく、“内藤九段監修”という肩書きを正面から掲げたことは、それ自体が大きな宣伝効果を持っていたはずだ。子どもにとっては難しそうな将棋の世界に触れる入口となり、大人にとっては「テレビゲームでもちゃんとした将棋が遊べるらしい」という安心感につながる。つまり本作は、細かな機能説明や演出の派手さで売るというよりも、タイトルそのものが持つ権威と新しさを前面に出した商品だったのである。ファミコン市場が急拡大していた1985年という時代を考えると、この“信頼感で売る”方針はかなり理にかなっていた。
「入門編」としての空気も、売り方の一部になっていた
この作品は、本格志向を打ち出しながらも、あまり敷居を高く見せすぎないところに商売上のうまさがあった。将棋の上級者専用というより、家庭の中でファミコンを通じて将棋に触れられる一本として位置づけられていたと考えると、非常に分かりやすい。将棋という題材は伝統的で堅い印象があるが、ファミコンという親しみやすいハードに乗せることで、“遊びながら覚える将棋”の雰囲気が生まれる。さらに、監修者の権威とゲーム機の気軽さが組み合わさったことで、初心者でも手を出しやすく、経験者にも興味を持たせる絶妙な中間地点に立っていた。これは派手なCM演出がなくても成立しやすい売り方であり、パッケージとタイトルだけで商品性を伝えやすいタイプのソフトだったと言える。
販売本数やCM展開は断定しにくいが、堅実に存在感を残した作品だった
本作について語るときに意外と難しいのが、販売本数や当時の広告展開を数字で断定することである。現在残っている情報をたどっても、超大ヒット商品として大規模に宣伝されたというより、ファミコン初の将棋ソフトとして静かに市場へ入り、その後の歴史の中で価値を増していったタイプの作品と考えるほうが自然だ。大々的なテレビCMの印象より、パッケージや店頭での見た目、そして“将棋がゲームになる”という物珍しさで興味を引いた可能性が高い。もともと将棋というジャンル自体がアクションやスポーツのように派手な販促と相性がいいわけではないため、本作の宣伝もまた、過剰な盛り上げより堅実な訴求が中心だったのだろう。結果として、発売直後の熱狂よりも、後年になって「最初期の将棋ソフトとして重要だった」と再認識される形で存在感を残した点が、この作品らしい。
現在の中古市場では、ソフト単品はかなり手に取りやすい部類に入る
今の中古市場で見ると、『本将棋 内藤九段将棋秘伝』は極端なプレミアソフトという位置にはいない。ソフト単品であれば比較的安価で見つかることが多く、レトロゲーム入門の延長で気軽に手を出しやすい一本である。これは本作にとってかなり大きな意味を持つ。歴史的価値が高くても価格が高騰しすぎてしまうと、実際に遊ぶ人が減り、存在が“語られるだけの作品”になりやすい。しかし本作は、今でも現実的な範囲で入手しやすいため、「ファミコン初の将棋ソフトとはどんなものか」を自分の手で確かめやすい。将棋ゲーム史の入口にあたる作品を、資料ではなく実物で体験できるという点は、中古市場での大きな魅力だろう。
箱や説明書付きになると、コレクション的な価値が見えてくる
一方で、箱や説明書が揃った状態になると、本作は単なる安いカセット以上の意味を持ち始める。ファミコンソフトは外箱や紙資料の残存率が低く、将棋ゲームのような堅実なジャンルでも、きれいな状態の一式はコレクション性が高まる。特に本作は“ファミコン初の将棋ソフト”という肩書きがあるため、完品状態で持っておきたいと考える人にとっては、価格以上の魅力がある。つまり遊ぶだけなら安く、集めるならそれなりに味が出る。この二層構造が中古市場での本作の面白い立ち位置であり、単なる実用品としても、歴史を手元に置く収集品としても楽しめるところが強い。
今では「安価に触れられる歴史的ソフト」としての価値が際立っている
総合すると、『本将棋 内藤九段将棋秘伝』は現在の中古市場において、入手そのものが極端に難しい作品ではない。しかし、ファミコン初の将棋ソフトという歴史的な肩書き、内藤國雄九段の名を冠したタイトル性、そしてレトロゲーム文脈で語りやすい独自性があるため、単なる安い将棋カセット以上の存在感を保っている。ソフト単品なら手を出しやすく、箱説付きならちょっとした収集対象として楽しめる。このバランスのよさが、本作を中古市場でも生かしているのだろう。高額プレミア化で遠い存在になるのではなく、“知る人ぞ知る始祖的作品を、まだ現実的な価格で手元に置ける”というのが現在の魅力である。だからこそ今このソフトを探す意味は、単に将棋を遊ぶためだけではない。ファミコン時代の思考ゲームがどのように売られ、どのように残り、どのように再評価されてきたのかを、自分の手で確かめるための一本としても価値があるのである。
■ 総合的なまとめ
本作は、完成度だけで測ると粗さがあるが、歴史の重みでは非常に大きい一本だった
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』を総合的に見ると、この作品は“今の基準で完璧な将棋ソフト”として評価されるタイプではない。CPUの読みには限界があり、ルール処理にも厳密ではない部分があり、モードの豊富さでも後年の作品に及ばない。しかし、それでもなおこのソフトが今まで語り継がれているのは、単なる古い作品だからではなく、ファミコン初の将棋ソフトとして、家庭用ゲーム機に将棋を持ち込んだ先駆性が極めて大きいからである。さらに、後年には第1回世界コンピュータ将棋選手権へ参加したという特異な履歴まで持っており、ゲーム史とコンピュータ将棋史の両方に足跡を残した作品として見られている。つまり本作は、完成形ではないから価値が低いのではなく、未完成さを抱えたまま時代の最前線に立っていたからこそ価値があるソフトなのである。
実際に遊ぶと分かるのは、思った以上に“ちゃんと将棋ゲームになっている”という事実
本作を現代の感覚で触れると、まず驚かされるのは「こんな初期作品なのに、意外なほど遊べる」という点だろう。駒の見やすさ、一字駒の採用、成駒の区別、操作の分かりやすさ、そして駒を動かすときのテンポ感など、盤面ゲームとして重要な土台がしっかり整っている。見た目の豪華さではなく、盤を追いやすく、手を進めやすく、対局の流れをつかみやすいように配慮されているため、単なる資料的価値だけの作品にはなっていない。今遊ぶと古さは確かに感じるが、それでも「将棋を遊ばせるために大事な部分をきちんと押さえている」という安心感があり、そこに本作の基礎体力の高さが見える。
一方で、強い将棋ソフトや深い学習ツールとして期待すると、物足りなさは避けにくい
その反面、純粋に将棋ソフトとしての強さや奥深さだけを求めるなら、本作にははっきりした限界がある。CPUは手順の傾向が読みやすく、短手数で勝てる手順まで知られているほどで、上級者が本格的な真剣勝負を期待すると、どうしても物足りなさが先に来やすい。また、詰め将棋や詳細な棋力調整のような学習補助もなく、将棋を体系的に鍛えるための総合ソフトとしては機能が足りない。だからこの作品は、“強敵に挑む将棋ゲーム”というより、“将棋ゲームの始まりを味わう作品”として捉えたほうがしっくりくる。ここを誤解すると評価が厳しくなりやすいが、逆にその立ち位置を理解していれば、本作の弱点はそのまま1985年という時代の制約と挑戦の痕跡として見えてくる。
このゲームを特別な一本にしているのは、不便ささえ個性へ変える独特の味わいである
『本将棋 内藤九段将棋秘伝』が単なる古い将棋ソフトで終わっていない理由のひとつは、仕様のクセや演出の妙が、欠点と同時に強烈な個性にもなっていることだ。象徴的なのが「待った」の演出で、すぐやり直せる便利機能ではなく、頭を下げて何度も頼み込むという回りくどい仕掛けになっている。この仕様は快適性だけで見れば面倒だが、レトロゲームとして振り返ると、作品の記憶を決定づける愛嬌になっている。また、ロボットと人間が盤を挟む見た目、静けさを活かした対局の空気、昔の思考ゲームらしい無骨さなども、現代の便利な将棋ソフトにはない味になっている。つまり本作は、完成度の高さだけで生き残ったのではなく、“変で忘れられない部分”を持っていたからこそ、今でも話題にしやすい一本として残っているのである。
今の視点では、“安価に触れられる歴史的作品”という点でも価値が高い
現在のレトロゲーム市場で見ても、本作は極端なプレミアソフトではなく、状態を選ばなければ比較的手に取りやすい立場にある。そのため、単に資料で知るだけでなく、実際に自分で触って「1985年の家庭用将棋ソフトはこうだったのか」と体験しやすい。これは意外に大きな意味を持つ。歴史的に重要なゲームの中には、価格や流通の問題で実物に触れにくいものも少なくないが、本作はそうした壁がまだ低い。だからこそ、ファミコンの思考ゲーム文化、初期のコンピュータ将棋、そして家庭用ゲームにおける“本格志向”の始まりを、自分の手で確認できる一本として価値がある。後世から見て重要なのに、いまなお遊べる距離感にいる。そこもまた、このソフトの大きな魅力だろう。
総合すると、本作は「名作」以上に「始祖として忘れられない作品」と言うのがふさわしい
最終的に『本将棋 内藤九段将棋秘伝』をどう位置づけるかといえば、万人にとっての最高傑作というより、ファミコンと将棋ゲームの歴史を語る上で外せない“始祖の一本”という表現がもっともしっくりくる。将棋ソフトとしての完成度だけなら後発作に譲る部分は多い。それでも、家庭用ゲーム機で将棋をきちんと遊ばせる形を作り、しかも後年まで話題にされるだけの独自性を備えていたことは間違いない。強さ、正確さ、機能の豊富さではなく、先駆性、記憶に残るクセ、そして今なお触れて面白がれる味わい。この三つが重なっているからこそ、本作はレトロゲームの中でも独特の立場を守り続けている。将棋ゲームの完成された頂点ではなく、そこへ続く道の最初の方角を示した作品。そう考えると、『本将棋 内藤九段将棋秘伝』は今でも十分に語る価値のある、非常に重要なファミコンソフトだったと言える。
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評価 4.67






























