『ドテラマン』(1986年)(テレビアニメ)

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【原作】:九里一平
【アニメの放送期間】:1986年10月14日~1987年2月24日
【放送話数】:全20話
【放送局】:日本テレビ系列
【関連会社】:タツノコプロ、サンクテール、アンモナイト、IMAGICA、ザックプロモーション

■ 概要・あらすじ

1980年代後半のタツノコプロが送り出した、町内密着型の異色ヒーローギャグ

『ドテラマン』は、1986年10月14日から1987年2月24日まで日本テレビ系列で放送されたタツノコプロ制作のテレビアニメである。1話約30分、全20話という比較的コンパクトなシリーズで、正義のヒーローと悪の大王が激突する王道的な構図を持ちながら、その中身は熱血一直線の勧善懲悪作品とは大きく異なる。主人公たちが暮らす町の日常、家族同士の付き合い、子供たちの遊び、奇妙な鬼たちが巻き起こす騒動などを大胆に混ぜ合わせ、「世界征服」よりも「近所で今日起きた大事件」に重点を置いたドタバタコメディとして作られている点が大きな特徴である。主人公は小学生の佐藤ハジメと幼なじみの中村マリコ。二人は不思議な衣装「ハイパードテラ」を身につけることで、ドテラマンとドテラピンクへ変身する。対する敵は鬼次元から鬼たちを呼び寄せて騒動を起こすインチ鬼大王で、巨大な野望を掲げる悪の支配者というより、目立ちたい、有名になりたい、自分の存在を世間に認めさせたいという妙に俗っぽい欲望を原動力にしている。そのため戦いそのものも悲壮感より笑いが先に立ち、ヒーロー番組の形式を借りながら、そのお約束を次々と茶化していく作品になっている。

大仏が動き出す衝撃の幕開けと、ハジメとマリコに託された「ハイパードテラ」

物語が始まるのは、一見すると何事もなく平和に見える八本木の町である。ところがある日、町にある大仏が突然動き始めるという、常識では説明できない珍事件が発生する。この騒動を引き起こした張本人こそ、鬼次元と関わりを持つインチ鬼大王だった。彼が事件を起こす目的は恐怖による世界支配というよりも、自分の名を広めて注目を浴びたいという極めて人間臭いもの。その時点から、本作が一般的なスーパーヒーロー物とは違う方向へ走っていくことが分かる。同じころ、小学生のハジメとマリコの前には鬼次元から来た名探偵ズカン・ソクネッツが現れる。彼はインチ鬼大王によって連れ去られた鬼たちを捜し出すため、二人に協力を求め、その切り札として特殊な衣装「ハイパードテラ」を授ける。ハジメとマリコがそれを頭上へ放り投げ、ジャンプしながら身につけることで、ハジメはドテラマン、マリコはドテラピンクへと変身する。日本の昔ながらの防寒着を連想させる「どてら」をスーパーヒーローの変身アイテムにしてしまう発想そのものが、本作の笑いを象徴している。派手な未来型スーツや金属製アーマーではなく、親しみのある和風の衣服をヒーローの象徴へ変えてしまうことで、子供たちの日常と荒唐無稽な正義の戦いが自然につながっていくのである。

正体を知らないままご近所同士が戦う、八本木ならではの奇妙な日常

『ドテラマン』の面白さを支えているのが、善と悪が完全に隔離されていないことである。舞台となる東京都荒宿区八本木は、大都会らしい要素もあれば田舎めいた風景も存在するという、現実の都市を思わせながら何でも起こり得る架空の町として描かれる。そこではハジメたち子供の生活と、インチ鬼大王側の生活が驚くほど近い距離にある。インチ鬼大王の正体である鈴木繁は、変身していない時にはごく身近な「近所のおじさん」のような人物であり、娘のまなみも思春鬼へと姿を変えて父親の騒動に関わっていく。この「戦っている相手が実は身近な人物なのに、普段は互いの正体を知らない」という仕掛けによって、戦闘が終われば再び普通の町内生活へ戻るという独特の循環が生まれる。昨日まで派手に戦っていた者同士が、翌日には日常空間で顔を合わせたり、一緒に遊んだり、別の騒動に巻き込まれたりする。そのため敵味方の線引きは意図的に緩く、インチ鬼大王たちも徹底的な悪人にはならない。視聴者は「どうやって敵を倒すか」だけでなく、「今回はこの奇妙な町内の人々がどんな騒動を起こすのか」というコメディそのものを楽しめる構造になっている。さらに、インチ鬼大王が利用する鬼たちも単純な怪物ではなく、それぞれの名前や能力に言葉遊びが盛り込まれている。鬼という古典的な日本の妖怪イメージを利用しながら、現代的なギャグや駄洒落、テレビ文化、流行などを結びつけているため、八本木そのものが巨大なギャグ舞台のようになっているのである。

「タイムボカン」系統の笑いを受け継ぎながら、さらに自由になったギャグ世界

シリーズ構成を担った小山高生は、タツノコプロの数多くのギャグアニメに関わった脚本家であり、『ドテラマン』にも同社が培ってきたドタバタ喜劇の感覚が色濃く表れている。悪役側が毎回奇抜な作戦を考え、正義側がそれを阻止し、最後には敵側の計画が派手に失敗するという基本形には、かつての『タイムボカン』シリーズを連想させる部分が少なくない。しかし、本作の場合は善悪の戦い以上に「登場人物全員がボケにもツッコミにもなる」という自由度の高さが際立っている。インチ鬼大王は悪役でありながら威厳を保ち続けられず、ハジメも変身すれば完璧な英雄になるわけではない。マリコやオニゾウ、思春鬼、鬼三トリオをはじめとする周囲の人物まで含めて、一人だけが笑いを担当するのではなく、誰もがその場の勢いでギャグの中心になり得る。その一方で、キャラクターデザインやアニメーションには1980年代後半らしい軽快さがあり、極端な表情変化、オーバーなリアクション、テンポの速い掛け合いなどによって視覚的にも賑やかな作品となった。さらに、当時の芸能界やテレビ文化を思わせるパロディー的発想も積極的に採り入れられており、当時人気を集めていた斉藤由貴をモデルにしたとされる「サイコウユ鬼」のようなキャラクターも登場した。こうした時代性は、放送当時の視聴者には即時的な笑いとして機能し、後年の視聴者にとっては1980年代の空気を知る要素にもなっている。

副音声までギャグにした「ひみつトーク」と、テレビ放送そのものを遊び場にした発想

本作をテレビアニメ史の視点から特徴づける要素として外せないのが、文字放送と音声多重放送を積極的に取り込んだ点である。本編に登場する子鬼のオニゾウは、人間には意味を理解できない独特の言葉を話す。しかし音声多重放送の副音声では、そのオニゾウが本当は何を考えているのかを日本語で聞くことができ、さらに場面に対する愚痴や突っ込みまで加える「ひみつトーク」という遊びが用意された。普通なら副音声は補助的なサービスとして扱われるところを、『ドテラマン』では作品のギャグを増幅するための仕掛けとして使っている。つまり同じ映像を見ていても、主音声だけで楽しむ場合と副音声を利用する場合では、オニゾウというキャラクターから受ける印象そのものが変わるのである。こうした試みは、テレビという放送媒体そのものを演出装置として利用した本作ならではの特徴だった。また、文字多重放送による字幕を伴ったアニメとしても先駆的な存在とされ、単純な内容上の奇抜さだけではなく、放送技術を娯楽へ組み込もうとした実験精神も感じられる。

短い全20話だからこそ凝縮された、毎週何が起こるか分からないスピード感

『ドテラマン』は1986年10月から翌1987年2月までの全20話で終了した。当初はより長いシリーズとして展開する構想もあったとされるが、結果的には約4か月という短い放送期間となった。しかし、作品を現在から振り返る場合、この短さが逆に『ドテラマン』の密度の高さにつながっているとも考えられる。毎回のように新しい鬼や珍事件が登場し、変身ヒーロー、家族コメディ、町内ギャグ、パロディー、ナンセンス、巨大化した対象との戦いなど、その時に思いついた面白いものを惜しまず投入するような勢いがあるからだ。世界観を重厚に積み上げて最終決戦へ進んでいくタイプではなく、「今週は何をやらかしてくれるのだろう」と期待して見るタイプの作品であり、一話完結に近い気軽さも大きな魅力だった。タイトルにもなっている「ドテラ」という庶民的な言葉、正義側にも悪側にも漂う生活感、インチ鬼大王のどこか情けない中年男性的なキャラクター、子供たちの身近な遊び場と鬼次元を同じ地平で扱う大胆さなど、本作には通常のヒーローアニメなら格好良く見せる部分をあえて崩して笑いへ転換する精神が一貫している。それでいて、ハジメとマリコが変身して町の危機に立ち向かう場面では、子供向けヒーロー作品として必要な爽快感も忘れていない。「格好いいけれど変」「くだらないけれど妙に熱い」という相反する感覚が同時に存在しているところに、『ドテラマン』ならではの魅力がある。

後年の映像ソフト化によって再確認できる、放送当時ならではの仕掛け

放送終了後も『ドテラマン』は完全に忘れ去られた作品にはならなかった。初期には第1話・第2話を収めたVHSが発売され、その後2010年には全20話を収録したDVD-BOXが登場している。このDVD-BOXでは主音声だけでなく、副音声、さらに主音声と副音声を組み合わせた音声も収録され、放送当時の「ひみつトーク」を含めて作品を楽しめる仕様となった。さらに2017年にはタツノコプロ創立55周年に合わせて全20話をまとめたBlu-ray商品も展開されており、短期間で終了した1980年代作品でありながら、後年まで映像ソフトとして振り返られる機会が作られている。『ドテラマン』を一言で表すなら、「ご町内サイズの出来事を宇宙規模の勢いで大騒ぎするヒーローコメディ」といえるだろう。大仏が動き、鬼次元から奇妙な鬼が現れ、小学生がドテラを着て正義のヒーローへ変身し、その敵の正体は意外なほど身近にいる。設定だけを並べれば荒唐無稽だが、その荒唐無稽さを隠そうとせず、むしろ作品最大の武器として突き進んだところに本作の個性がある。1980年代タツノコギャグの流れを受け継ぎながら、文字放送や副音声というテレビ技術まで笑いの一部へ変換し、ヒーロー物のお約束と町内の日常を同じ舞台でかき混ぜた『ドテラマン』は、全20話という短さ以上に強烈な印象を残す実験精神旺盛な作品なのである。

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■ 登場キャラクターについて

佐藤ハジメ/ドテラマン ― 普通の小学生と正義のヒーローを行き来する主人公

佐藤ハジメは『ドテラマン』の中心人物であり、声を担当するのはつかせのりこ。普段は東京都荒宿区八本木で暮らすごく普通の小学生だが、鬼次元からやって来たズカン・ソクネッツと出会ったことをきっかけに、特殊な衣装「ハイパードテラ」を与えられ、正義のヒーロー・ドテラマンへ変身することになる。熱血ヒーローとして最初から使命感に燃えている人物ではなく、日常生活を送っていた少年が突然とんでもない事件へ放り込まれるという親しみやすさが魅力である。変身後は町を騒がせる鬼たちへ勇敢に立ち向かうものの、作品そのものがギャグを中心にしているため、格好いい場面の直後に失敗したり、敵の奇妙な作戦に振り回されたりすることも珍しくない。この「完全無欠ではないヒーロー」という性格が、本作の軽快な雰囲気とよく合っている。ハジメの面白さは、ドテラマンになっている時と普段の小学生として過ごしている時の距離がそれほど遠くない点にもある。変身したからといって急に人格まで英雄的になるわけではなく、ハジメらしい子供っぽさや勢いはそのまま残されている。そのため視聴者から見ると、特別な能力を手に入れた憧れのヒーローであると同時に、近所にいそうな少年としても感じられる。

中村マリコ/ドテラピンク ― ハジメと並んで戦う、もう一人の主役

中村マリコはハジメの幼なじみで、声は神代知衣が担当する。ハジメとともにズカン・ソクネッツからハイパードテラを託され、ドテラピンクへ変身して鬼たちとの戦いに参加する。単に主人公を横から応援するだけのヒロインではなく、自分自身も変身能力を持ち、実際に事件解決へ加わる行動的な立場に置かれていることが特徴である。男の子が正義のヒーロー、女の子が救出される側という単純な役割分担ではなく、二人が並んで町を守る構図になっている。マリコはハジメよりも状況を冷静に見ているように映る場面もあり、ハジメの勢いだけでは収拾できない展開に対して重要な役割を果たす。一方で彼女自身も作品のギャグから逃れられるわけではなく、妙な騒動に巻き込まれたり、奇想天外な敵を前に思わず調子を崩したりする。この「しっかり者でありながら完全には格好をつけられない」というバランスが親しみにつながっている。

オニゾウ ― 本編と副音声で異なる顔を見せる異色のマスコット

オニゾウはズカン・ソクネッツとともに行動する子鬼で、声を渕崎ゆり子が担当する。外見や立ち位置だけを見ると作品のマスコットキャラクターに近い存在だが、『ドテラマン』では放送方式そのものと結びついた極めて特殊な役割を与えられている。本編では人間には理解できない鬼の言葉を話すため、周囲の人物との意思疎通が簡単には成立しない。ところが音声多重放送の副音声を利用すると、オニゾウの考えていることや場面に対する本音が日本語として聞こえてくるという仕掛けが用意されていた。その副音声では、物語について説明するだけではなく、その場で起きている出来事へ突っ込みを入れたり、不満をこぼしたり、登場人物の行動を冷ややかに眺めたりと、いわば作品の内部にいながら視聴者に近い立場から語ることもある。このためオニゾウは「かわいらしい子鬼」というだけではなく、番組そのものを横から茶化すメタ的な存在としても機能している。

ズカン・ソクネッツ ― すべての物語を動かす鬼次元の名探偵

ズカン・ソクネッツは鬼次元からやって来た名探偵で、声は池田一臣。インチ鬼大王にさらわれた鬼たちを探し出すため人間界を訪れ、ハジメとマリコへハイパードテラを託した人物である。つまり彼が二人と出会わなければ、ドテラマンもドテラピンクも誕生していない。物語の発端を作った案内役であり、鬼次元と人間界を結びつける橋渡し役でもある。「名探偵」という肩書きからは鋭い推理力を駆使する硬派な人物を想像しそうだが、そこは『ドテラマン』の世界である。周囲で起きる事件そのものがあまりに奇抜なので、落ち着いた推理劇になることは少なく、本人も次々と起こる騒動へ巻き込まれていく。この作品では立派な肩書きを持つ人物ほど、ギャグの世界へ引きずり込まれた際のおかしさが際立つ。

鈴木繁/インチ鬼大王 ― 世界征服より「目立ちたい」が先に立つ愛すべき悪の大王

鈴木繁は本作の敵役であるインチ鬼大王の正体で、声を担当するのは八奈見乗児。悪の大王という肩書きだけを聞けば恐ろしい支配者のようだが、実際にはどこか情けなく、人間臭く、憎み切れない中年男性として描かれている。彼が大騒動を巻き起こす大きな動機の一つは「自分を有名にしたい」という欲望であり、恐怖によって世界を支配する巨大悪とは方向性がかなり違う。そのため、とんでもない計画を実行して町中を巻き込んでも、最終的には自分自身がひどい目に遭ったり、作戦の欠陥によって自滅したりするという展開がよく似合う。八奈見乗児による演技も、インチ鬼大王の魅力を大きく支えている。威張った口調から情けない悲鳴、怒鳴り声、ぼやきまで大きく振れる演技によって、悪役としての迫力とコメディリリーフとしてのおかしさが同居している。

鈴木まなみ/思春鬼 ― 悪役陣に華やかさと年頃らしい感情を加える少女

鈴木まなみはインチ鬼大王こと鈴木繁の娘であり、思春鬼へと姿を変える少女。声は松井菜桜子が担当する。父親が中年男性らしい欲望や見栄をむき出しにするのに対し、まなみにはその名が示す通り思春期の少女らしい感情や感覚が盛り込まれている。悪役側に属しているとはいえ、父親の計画へ常に全面的に同調するだけの存在ではなく、年頃の女の子らしい価値観から周囲を見ることで、インチ鬼大王とは異なる種類の笑いを生み出す。また、ハジメやマリコと生活圏が近いため、正義側と悪側が日常では普通の住民として接しているという本作独特の設定を象徴している人物でもある。変身後は敵味方として向き合っていても、日常では互いの正体を知らずに顔を合わせる。そのすれ違いが「こんなに近くにいるのに気づかないのか」という喜劇的なおかしさを生み出している。

元鬼・短鬼・陰鬼 ― インチ鬼大王の騒動を盛り上げる「鬼三トリオ」

元鬼は小野健一、短鬼は佐々木望、陰鬼は西川幾雄が声を担当する。三人はインチ鬼大王側で活躍する鬼たちで、まとめて見れば悪の手下に当たるものの、恐怖を振りまく戦闘員というより、親分と一緒になって騒動を大きくしてしまうコメディ集団としての印象が強い。それぞれ異なる個性を持ちながら、複数で動くことで掛け合いが生まれ、インチ鬼大王の命令に右往左往する姿が笑いにつながっていく。悪役組織が毎回きびきびと作戦を遂行してしまえば、物語はもっと緊迫したものになったはずだが、『ドテラマン』では手下まで含めてどこか抜けている。作戦開始時には大げさに盛り上がっていても、途中から状況が予想外の方向へ進み、最後には敵側全体が混乱してしまう。鬼三トリオはそうした「悪役側のチーム芸」を成立させる重要な存在である。

サイコウユ鬼 ― 1980年代の芸能文化を大胆に取り込んだ印象的キャラクター

サイコウユ鬼は水谷優子が声を担当するキャラクターで、当時人気を集めていたアイドル・斉藤由貴を思わせる意匠が盛り込まれた存在として知られる。名前そのものからして言葉遊びになっており、作品が当時の芸能界や流行をどれほど積極的にギャグへ利用していたかを象徴している。サイコウユ鬼は単なる一発ネタで終わらず、そのキャラクターデザイン自体にも人気が生まれ、後藤隆幸による関連4コマ漫画「こまったユ鬼ちゃん」へ発展した点が興味深い。テレビシリーズの脇役が独自の展開を見せたことからも、キャラクターとしての印象の強さがうかがえる。

鈴木ミサオ ― インチ鬼大王の家庭人としての一面を浮かび上がらせる存在

鈴木ミサオは鈴木家の母親であり、声は小原乃梨子が担当している。インチ鬼大王という派手な悪役キャラクターの裏側に「家族を持つ普通の中年男性・鈴木繁」が存在していることを視聴者へ強く意識させるキャラクターである。悪役の本拠地だけを描くのではなく家庭生活まで見せることで、インチ鬼大王が完全な別世界の悪人ではなく、近所で生活している人物として定着していく。この構成のおかげで、悪役側にも「家へ帰れば家族がいる」という生活感が生まれる。世界を騒がせるような事件を引き起こしていた人物が家庭では別の顔を見せるというギャップは、本作ならではの笑いにつながっている。

佐藤大吉・佐藤サトコ・佐藤ウメ ― ヒーローの日常を支える佐藤家

佐藤大吉は上田敏也、佐藤サトコは恵比寿まさ子、佐藤ウメは京田尚子が担当する。彼らは主人公ハジメの家族であり、超常現象や鬼たちの騒動とは対照的な家庭の日常を作り出している。ハジメはドテラマンとして町を救う立場にありながら、家へ帰れば一人の子供に戻る。その日常を成立させるためには家族の存在が不可欠である。とりわけ『ドテラマン』では、ヒーローとしての秘密だけを緊張感たっぷりに描くより、「ものすごい事件が起こっているのに家ではいつもの生活が続いている」という落差そのものがギャグになる。佐藤家の人々は、ハジメを現実世界へ引き戻す役割を持つと同時に、自分たちも騒動へ巻き込まれてしまうことで、作品全体のにぎやかさを増している。

中村優子 ― マリコの生活感を補強する身近な家族

中村優子は小宮和枝が声を担当し、マリコ側の日常を描くうえで欠かせない人物である。ドテラピンクとして活躍するマリコにも当然ながら普通の家庭生活があり、変身していない時間には一人の小学生として暮らしている。その生活を描くことで、ハジメだけではなくマリコにも「ヒーローになる前の普通の日常」があることが感じられる。本作では家族を細かく登場させることによって、正義側と悪側の双方が生活者として描かれている。そのため対決場面のスケールがどれほど大きくなっても、物語の根底にはいつも八本木という町の日常がある。

ブンタとニュースキャスター ― 脇役まで笑いの装置になる八本木の住人たち

ブンタは西川幾雄が担当するキャラクターで、作品世界のにぎやかさを支える人物の一人。また、井上和彦が声を担当するニュースキャスターも、町で発生する突拍子もない事件を世間へ伝える存在として登場する。『ドテラマン』では、大仏が動き出すような途方もない出来事さえニュースとして扱われることで、現実らしいテレビ社会と荒唐無稽なギャグ世界が奇妙に融合している。特にニュース番組を思わせる演出は、事件を客観的に説明するだけでなく、「こんなあり得ない出来事を真面目な顔で報道している」という状況自体が笑いにつながる。本作では主人公や悪役だけに面白さを集中させず、通行人や家族、テレビ関係者に至るまで世界全体がギャグへ参加する。

善悪よりも「全員が面白い」ことを優先したキャラクター構成が最大の魅力

『ドテラマン』の登場人物をまとめて見ると、正義側と悪側の区別は存在していても、人物の魅力を決める基準が単純な「善人か悪人か」ではないことが分かる。ハジメとマリコは町を守る正義のヒーローだが、決して完璧ではない。インチ鬼大王は事件を起こす悪役でありながら、失敗する姿や家庭人としての姿まで描かれるため嫌いになりにくい。思春鬼や鬼三トリオ、オニゾウなども、それぞれ異なる角度から物語へ笑いを持ち込んでいる。視聴者にとって印象に残りやすいのも、「誰が一番強いのか」という能力比較より、キャラクター同士がどんな掛け合いを見せるかという部分である。インチ鬼大王が大げさな計画を語り、手下が振り回され、ドテラマンたちが事件へ飛び込み、オニゾウが副音声でぼやく。この複数の笑いが同時進行することで、『ドテラマン』特有の騒々しくも親しみやすい空気が形成されている。また、つかせのりこ、八奈見乗児、小原乃梨子、京田尚子、井上和彦、水谷優子、松井菜桜子、神代知衣、渕崎ゆり子、佐々木望といった個性的な声優陣が集まっていることも大きい。テンポの速いギャグ作品では、台詞の間、悲鳴、言葉の崩し方、怒鳴り声といった音の演技が作品の面白さを左右する。『ドテラマン』は、そうした声優陣の個性まで含めてキャラクターを成立させたアニメだったのである。

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■ 主題歌・挿入歌・キャラソン・イメージソング

オープニングテーマ「正義の使者だぜ ドテラマン」――作品の破天荒な勢いを一気に伝えるヒーローソング

『ドテラマン』のオープニングテーマとして使用された「正義の使者だぜ ドテラマン」は、作詞を松山貫之、作曲をいけたけし、編曲を山中紀昌が担当し、こおろぎ’73が歌唱した楽曲である。タイトルだけを見ると、いかにも昔ながらの正統派ヒーロー番組を連想させるが、実際には『ドテラマン』ならではのコミカルさと勢いが色濃く表現されている。勇ましいヒーローソングの形式を基本としながらも、主人公が身につけるのは近未来的な強化服ではなく「ドテラ」を思わせるハイパードテラであり、その大真面目さと奇妙さの落差が楽曲にも独特の味を与えている。冒頭から正義のヒーローが颯爽と登場するイメージを前面へ押し出し、ドテラマンの勇敢さや町を守る使命を明るく歌い上げていく構成となっているが、重厚で悲壮な雰囲気ではなく、子供が一緒に口ずさみやすいテンポの良さが重視されている。こおろぎ’73の力強く朗らかなコーラスも作品との相性が良く、「これからヒーロー物が始まる」という高揚感と、「しかし普通のヒーロー番組では終わらない」という愉快な予感を同時に感じさせる。

エンディングテーマ「もっとブ鬼゛ウ鬼゛」――本編終了後まで続くドタバタ感

エンディングテーマ「もっとブ鬼゛ウ鬼゛」は、作詞を佐藤ありす、作曲をいけたけし、編曲を山中紀昌が担当し、ドテラマン役のつかせのりこと、こおろぎ’73が歌っている。題名からして通常の日本語表記を大胆に崩しており、「鬼」という本作の中心的なモチーフを文字遊びとして盛り込んでいることが特徴である。オープニングが正義のヒーローとしてのドテラマンを勢いよく紹介する楽曲であるのに対し、こちらは本編の騒動をそのまま引きずったような、遊び心に満ちたエンディングとなっている。つかせのりこが参加していることによって、単なる主題歌というより主人公本人が視聴者へ語りかけているような親近感も生まれている。『ドテラマン』は毎回、悪役を完全に恐ろしい存在として処理するのではなく、正義側も悪役側も一緒になって大騒ぎした末に幕を閉じることが多い。そのため、エンディングにも戦いを終えた後の余韻というより、「まだこの騒ぎは終わっていない」と思わせるような軽快さが似合っている。

「哀愁製作所」――笑いの中へ妙な哀愁を持ち込む『ドテラマン』らしい一曲

挿入曲「哀愁製作所」は、作詞・佐藤ありす、作曲・いけたけし、編曲・山中紀昌、歌唱・こおろぎ’73という布陣で制作された。タイトルには「工場」ではなく「製作所」というどこか庶民的な響きがあり、そこに「哀愁」という大げさな感情を組み合わせている時点で、本作らしい言葉の面白さが感じられる。インチ鬼大王をはじめ、『ドテラマン』にはどこか情けない大人たちが数多く登場する。失敗して落ち込んだり、格好をつけたのに報われなかったり、本人だけは真剣なのに周囲から見れば笑えるという場面も多い。「哀愁製作所」は、そうした本作特有の「笑える悲哀」を音楽として表現する位置づけの曲と考えられる。

「今、思春鬼気分」――思春鬼の少女らしい感情を音楽へ変えたイメージソング

「今、思春鬼気分」は、作詞を佐藤ありす、作曲・編曲を山中紀昌、歌唱を山野さと子が担当した楽曲である。タイトル通り、インチ鬼大王の娘である思春鬼を意識したナンバーで、悪役側のキャラクターでありながら、年頃の少女としての感情へ焦点を当てている点が面白い。思春鬼は父親の悪事へ加わるキャラクターである一方、完全な悪人として描かれる存在ではない。思春期ならではの微妙な感情、父親への複雑な反応、女の子としての興味などを持っており、インチ鬼大王とは異なる角度から作品に華やかさを加えている。この楽曲では、そうしたキャラクターの気分を明るく親しみやすい女性ボーカルで表現している。

「インチ鬼大王 中年の主張」――悪の大王ではなく“一人の中年男性”を歌う異色キャラクター曲

「インチ鬼大王 中年の主張」は、本作の楽曲群の中でも特に『ドテラマン』らしさが濃縮された一曲である。作詞は小山高男、作曲はいけたけし、編曲は石田たかのりが担当し、コーラスに川島和子、そしてインチ鬼大王役の八奈見乗児が台詞で参加している。一般的な悪役キャラクターソングなら、世界征服への野望や主人公への挑戦状を勇ましく歌うところだが、本曲ではタイトルからして「中年の主張」である。つまりインチ鬼大王を、恐るべき悪の支配者というより、社会の中で何か言いたいことを抱えた中年男性として扱ってしまう。これこそ本作のキャラクター造形そのものであり、鈴木繁という家庭を持った一人の男性と、インチ鬼大王という悪役の二重性が、歌という形式によってさらに強調されている。

「鬼三トリオ」――悪役の手下たちを主役へ押し上げた賑やかな一曲

「鬼三トリオ」は、作詞・佐藤ありす、作曲・いけたけし、編曲・山中紀昌、歌・こおろぎ’73による楽曲である。元鬼・短鬼・陰鬼という三人の存在を題材としており、悪役の手下たちにも専用の楽曲が用意されていることから、『ドテラマン』が脇役まで大切に扱っていた作品であることが分かる。三人はインチ鬼大王の命令に従って行動するものの、恐ろしい精鋭部隊というより、親分と一緒に失敗することまで含めて魅力となっているキャラクターである。そのため楽曲も、悪の組織の威圧感を表現するより、三人がそろった時の騒がしさや掛け合いの面白さを楽しむ方向がよく似合う。

「オニゾウさんは困っちゃう」――人気マスコットの愛嬌を前面へ出したキャラクターソング

「オニゾウさんは困っちゃう」は、松山貫之が作詞、いけたけしが作曲、山中紀昌が編曲を担当し、山野さと子が歌っている。オニゾウは本編では独特の鬼語を話し、副音声では本音をぼやくという非常に特殊なキャラクターである。そのユニークさを歌としてまとめたのが本曲であり、かわいらしいマスコットとしての側面が強調されている。オニゾウ自身が事件を解決する中心人物というより、ハジメたちの周囲で困惑したり、突っ込みを入れたりする立場であることから、「困っちゃう」という言葉もキャラクターにぴったり合う。

「どこだって鬼次元」――人間界と鬼次元の境界を楽しく飛び越える世界観ソング

「どこだって鬼次元」は、作詞・佐藤ありす、作曲・いけたけし、編曲・山中紀昌、歌唱・こおろぎ’73による一曲である。本作では現実的な町内生活と荒唐無稽な鬼次元が何の違和感もなく結びつき、普通の住宅街で突然とんでもない事件が起こる。その世界観を象徴するのがこの楽曲である。『ドテラマン』では、異世界は遠い宇宙の彼方ではない。ちょっとしたきっかけで鬼が身近な町へ現れ、日常があっという間に非日常へ変わる。この距離感の近さが作品の魅力であり、「どこだって鬼次元」という題名はその感覚を非常に分かりやすく表現している。

「ハートをノック」――騒々しい作品世界に加えられた柔らかなアクセント

「ハートをノック」は、作詞を佐藤ありす、作曲を古田喜昭、編曲を石田かつのり、歌唱を山野さと子が担当する。ギャグ色の強い楽曲が並ぶ『ドテラマン』の音楽群の中では、タイトルからも感じられるように、より柔らかく感情的な方向を意識したナンバーとなっている。『ドテラマン』にはハジメとマリコ、思春鬼など子供から思春期へ向かう年代の人物が登場するため、毎回のドタバタだけでは描き切れない淡い感情も存在する。こうした楽曲が用意されていることで、アルバム全体としても単調にならず、作品世界の別の表情を楽しむことができる。

「ヒーローと呼ばないで」――格好良すぎないドテラマン像を象徴する逆説的タイトル

「ヒーローと呼ばないで」は、作詞・佐藤ありす、作曲・いけたけし、編曲・山中紀昌、歌・こおろぎ’73による楽曲である。ドテラマンは間違いなく町を守る正義のヒーローである。それにもかかわらず「ヒーローと呼ばないで」と名付けられていることが、本作の精神を端的に表している。ドテラマンは正義感を持って戦うものの、完璧な超人ではない。失敗することもあれば、ギャグの犠牲になることもあり、変身していても根本は普通の小学生・ハジメである。だからこそ「偉大な英雄」として遠くから崇拝されるより、町内で一緒に騒いでいる身近な少年としての魅力が強い。

「ピンク御前参上!」――ドテラピンクの存在感を高める華やかなヒロインソング

「ピンク御前参上!」は、作詞・佐藤ありす、作曲・いけたけし、編曲・山中紀昌、歌唱・山野さと子による楽曲である。ドテラピンクことマリコを前面へ押し出した楽曲で、ハジメだけが主人公なのではなく、マリコにも独立したヒーローとしての魅力があることを印象づけている。「御前参上」という時代劇を思わせる言い回しと「ピンク」という現代的なヒロインカラーを組み合わせる発想が面白く、和風と現代文化を混ぜ合わせる『ドテラマン』の世界観にもよく合っている。

「ふ・し・ぎ・女の子」――サイコウユ鬼のアイドル的魅力を際立たせる楽曲

「ふ・し・ぎ・女の子」はサイコウユ鬼役の水谷優子が歌唱を担当した楽曲である。この曲は『未来警察ウラシマン』の楽曲「Boogie Woogie Cat」を原曲とするアレンジが用いられており、タツノコプロ作品同士の遊び心を感じさせる珍しい存在となっている。サイコウユ鬼そのものが1980年代のアイドル文化を連想させるキャラクターであるため、本人役の声優が歌うことで、劇中キャラクターが本当にアイドル歌手としてレコードを出しているような感覚が生まれる。水谷優子の明るく個性的な声もキャラクターとの相性が良く、単なる挿入歌ではなくサイコウユ鬼という存在そのものを楽しむための楽曲になっている。

「僕らの味方ドテラマン」――子供たちの目線から描かれる親しみやすい正義の味方

「僕らの味方ドテラマン」は、佐藤ありすが作詞、いけたけしが作曲、山中紀昌が編曲を担当し、こおろぎ’73が歌っている。オープニングテーマと同じく正義のヒーローとしてのドテラマンを歌った楽曲だが、「僕らの味方」という表現によって、より視聴者である子供たちに近い存在として描いていることが特徴である。世界規模の危機を救う遠い英雄ではなく、困った時に八本木へ駆けつけてくれる町のヒーロー。その身近さこそドテラマンの魅力であり、この曲を聴くと、子供がテレビの前からドテラマンを応援しているような感覚が生まれる。

「ロックン ド・テ・ラ」――つかせのりこの歌声で弾ける主人公ソング

「ロックン ド・テ・ラ」は、作詞・佐藤ありす、作曲・いけたけし、編曲・石田かつのり、歌唱・つかせのりこによる楽曲である。主人公ハジメ役本人が歌っているため、一般的なアニメソングというよりキャラクターがそのまま歌の世界へ飛び出してきたような楽しさを持っている。タイトル通りロックンロール的な勢いを取り入れ、ドテラという和風で庶民的なモチーフと軽快な音楽を組み合わせている点もユニークである。そもそも「ドテラ」と「ロック」を一緒にしてしまう発想自体が『ドテラマン』らしく、意味の取り合わせよりも響きと勢いを楽しませるギャグ精神が感じられる。

「ワンダーランド メリーゴーランド」――奇妙で楽しい八本木の世界を締めくくるイメージソング

「ワンダーランド メリーゴーランド」は、作詞・佐藤ありす、作曲・いけたけし、編曲・山中紀昌、歌・こおろぎ’73による楽曲である。八本木という町では、昨日まで普通だったものが突然動き出し、鬼が現れ、大騒動が始まる。その日常と非日常がぐるぐると入れ替わる様子は、まさにメリーゴーランドのようでもある。悪役との戦いという一本の筋だけではなく、何が飛び出すか分からない遊園地のような作品世界をイメージさせるタイトルであり、『ドテラマン』全体を包み込む楽曲として聴くことができる。

劇伴BGM――戦闘・変身・日常・ギャグを瞬時に切り替える音楽演出

『ドテラマン』では主題歌やキャラクターソングだけでなく、本編を支えるBGMも作品のテンポを形成する重要な存在である。ドテラマンとドテラピンクが変身する場面ではヒーロー物らしい高揚感が必要となる一方、インチ鬼大王が間抜けな失敗をする瞬間には一転してコミカルな音楽が求められる。さらに学校や家庭での日常場面、鬼が出現した時の怪しげな雰囲気、大騒動へ発展する際の緊張感など、一話の中で感情の方向が頻繁に変化する作品だけに、劇伴には素早い切り替えが要求される。特に『ドテラマン』のギャグは映像だけで完結するのではなく、効果音や声優の芝居、BGMが同時に畳み掛けることで成立する場面が多い。インチ鬼大王が威厳たっぷりに登場した直後、情けない目に遭って音楽まで崩れるような演出は、古典的なギャグアニメならではの快感である。

歌詞に一貫する「鬼」「ヒーロー」「日常」の言葉遊び

『ドテラマン』の楽曲群をまとめて眺めると、作品タイトルや登場人物の名前をそのまま歌へ取り込むだけでなく、「鬼」という文字や発音を徹底的に言葉遊びへ利用していることが分かる。思春鬼、インチ鬼大王、鬼三トリオ、鬼次元など、キャラクター名から世界設定まで「鬼」があらゆる場所へ入り込み、歌のタイトルにもそれが反映されている。さらに、ヒーローソング、少女向けイメージソング、中年男性のぼやき、マスコットソング、悪役トリオのテーマ、ロック調ナンバーまで非常に振れ幅が大きい。これは一枚の作品世界を真面目に統一するのではなく、「面白そうなものなら何でも入れてしまおう」というテレビアニメ本編の精神と共通している。

こおろぎ’73と山野さと子を中心とした、1980年代アニメソングらしい親しみやすさ

歌唱陣を見ると、こおろぎ’73と山野さと子の存在が非常に大きい。こおろぎ’73は男性コーラスグループならではの力強さと楽しさによって、主題歌からキャラクター系楽曲まで作品全体を支えている。一方の山野さと子は明るく透明感のある歌声を生かし、「今、思春鬼気分」「オニゾウさんは困っちゃう」「ハートをノック」「ピンク御前参上!」など、少女やマスコットに関係する楽曲へ柔らかさを与えている。さらに、つかせのりこ、八奈見乗児、水谷優子といった本編出演声優が歌や台詞で参加しているため、「アニメと音楽が別々に存在する」のではなく、キャラクター世界そのものを音楽作品へ拡張したような構成になっている。

現在聴き直すことで分かる、『ドテラマン』音楽の最大の魅力

『ドテラマン』の音楽は、最新のアニメソングのような複雑なサウンドや壮大なオーケストレーションを売り物にしたものではない。その代わり、キャラクター名、番組名、決め台詞、言葉遊びといった作品固有の要素を前面へ押し出し、「このアニメのために作られた歌」であることが一聴して分かる強さを持っている。特に魅力的なのは、正義のドテラマンだけではなく、インチ鬼大王、思春鬼、オニゾウ、鬼三トリオ、ドテラピンク、サイコウユ鬼など、多くのキャラクターへ音楽上の居場所が用意されていることである。全20話の比較的短い作品でありながら、楽曲群だけを見ると非常に豊富で、登場人物たちがテレビ本編の外でも生きているような感覚がある。放送当時に作品を見ていた視聴者にとっては、主題歌を耳にした瞬間に八本木の町や変身シーン、インチ鬼大王の失敗などが一気によみがえるという人もいるだろう。一方、現在初めて聴く場合には、1980年代のアニメ音楽が持っていた明快なメロディー、覚えやすいサビ、声優と歌手を一体化させたキャラクター表現などを楽しめる。格好良さ、かわいらしさ、ナンセンス、中年の哀愁まで一つの作品の音楽として成立してしまうところに、『ドテラマン』の自由奔放な魅力が凝縮されているのである。

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■ 魅力・好きなところ

「どてら」を変身ヒーローへ結びつけた発想そのものが忘れがたい

『ドテラマン』の魅力を語るうえで、まず外せないのが作品タイトルにもなっている「ドテラ」というモチーフである。ヒーローアニメの変身アイテムといえば、通常なら未来的なスーツ、強化アーマー、特殊なメカニックなどが選ばれそうなところを、本作では日本の家庭生活を連想させる庶民的な防寒着を大胆にヒーローの象徴へ変えてしまった。この時点で作品の方向性がはっきりしている。格好良さだけを追求するのではなく、一見格好良くなりそうにないものを本気で格好良く扱うことで笑いへつなげているのである。ハジメとマリコがハイパードテラを頭上へ放り投げ、ジャンプしながら装着してドテラマンとドテラピンクへ変身する姿は、一般的な変身ヒーローの様式をきちんと踏まえながら、どこか妙な違和感を残す。その違和感こそが面白い。子供が自宅にある身近な衣類を身につけて「自分もヒーローになれるかもしれない」と想像できるような親しみやすさもあり、最新兵器とは正反対の方向からヒーローへの憧れを作り出していた。

町内の出来事とヒーロー物を同じ尺度で描いてしまう世界観

もう一つの大きな魅力は、物語の舞台が極端に身近であることだ。『ドテラマン』では銀河の果てや荒廃した未来社会ではなく、ハジメたちが普段生活している八本木の町が毎回の主戦場となる。大仏が突然動き出したり、鬼次元から奇妙な存在が現れたりと事件そのものは非常識なのに、それが起こる場所は学校や家庭、近所の道路など生活感のある空間である。この構造によって、日常と非日常の境界がほとんど存在しなくなる。朝までは普通の小学生だったハジメたちが午後には町を救うヒーローになり、その戦いが終わればまた家庭へ戻る。インチ鬼大王も遠い秘密基地に潜む悪の帝王ではなく、正体を解けば同じ町に暮らす鈴木繁という中年男性である。敵と味方が驚くほど近いところで暮らしているにもかかわらず、互いの正体を知らないまま日常生活を送っているという状況が、作品に独特の楽しさを与えている。

インチ鬼大王が“倒したい悪役”ではなく“また見たくなる悪役”になっている

『ドテラマン』で特に印象へ残りやすい存在として挙げられるのがインチ鬼大王である。本来なら主人公たちが打ち倒すべき敵なのだが、視聴を重ねるにつれて「次はどんな失敗をするのだろう」と期待してしまうタイプの悪役になっている。彼の行動原理は壮大な理想ではなく、目立ちたい、有名になりたい、自分を認めてもらいたいといった非常に俗っぽい欲望である。そのため、悪事そのものにも妙な生活感がある。一生懸命に悪巧みを考え、大げさに命令し、自信満々に作戦を開始したにもかかわらず、結局は自分の計画に振り回される。こうした展開には伝統的なギャグアニメの快感がある。しかも鈴木繁として家庭生活を送る姿が存在するため、完全な悪の象徴にはならない。父親であり、夫であり、近所のおじさんでもあり、その一方でインチ鬼大王でもあるという複雑なのか単純なのか分からない設定が笑いを生む。

ドテラマンとドテラピンクが対等に並んで戦う爽快感

ハジメだけではなく、マリコもドテラピンクへ変身して戦うことも本作の好きなポイントとして挙げやすい。ヒロインが単純な応援役や救出対象ではなく、最初から変身能力を持ち、ドテラマンと一緒に事件解決へ参加するため、二人で一つのヒーローチームとして見ることができる。二人の性格が完全に同じではないことも良い。ハジメの勢いや少年らしい行動力に対して、マリコが別の角度から反応することで会話にテンポが生まれる。ドテラマンだけでは暴走しそうな場面にドテラピンクが加わることによって、戦闘場面だけでなく日常の掛け合いまで成立する。特に二人が同時に変身して敵へ立ち向かう場面には、ギャグ作品でありながら正統派ヒーローアニメらしい爽快感がある。

オニゾウの「ひみつトーク」が生み出す二重構造の面白さ

『ドテラマン』ならではの魅力として非常に個性的なのが、オニゾウを利用した副音声の演出である。本編では人間には理解できない言葉を話しているオニゾウが、副音声では日本語で本音やぼやきを語る。この仕掛けによって、同じ場面に二種類の笑いが同時に存在する。主音声だけなら「何を言っているのか分からないかわいい子鬼」として見えるところが、副音声を聞くことで「実はこんなことを考えていたのか」と分かる。その内容が周囲への突っ込みだったり、本人の不満だったりすることでキャラクター像が一気に変化する。これは単純な字幕や解説とは違い、放送技術そのものをギャグへ組み込んだ発想である。一度通常音声で見た後に副音声で見直すという楽しみ方もできるため、実質的に一つの場面を二度味わえる。

テンポの速いナンセンスギャグと、真面目にくだらないことをする潔さ

『ドテラマン』の笑いには、「こんなことを本気でアニメにしてしまうのか」という勢いがある。大仏が動き出す第1話のように、事件の規模だけなら重大なのに、原因や目的をたどると非常にくだらない。その巨大な落差が本作独特のナンセンスを生んでいる。面白いのは、作中人物が「これはくだらないからやめよう」と冷静にならないことだ。インチ鬼大王は全力でくだらない計画を実行し、ハジメたちも全力でそれを阻止する。演出も音楽も声優の芝居も大真面目だからこそ、さらに笑える。ギャグ作品では設定を説明しすぎると勢いが失われることがあるが、『ドテラマン』では多少の無茶を気にせず前へ進む。その大胆さが視聴時の気持ち良さにつながっている。

家族ぐるみで騒動へ巻き込まれるホームコメディ的な楽しさ

本作では主人公と悪役だけでなく、それぞれの家族も物語に顔を出す。これによって、ヒーローアニメでありながらホームコメディとしての面白さが生まれている。ハジメには佐藤家の日常があり、マリコにも家庭があり、インチ鬼大王にも鈴木家がある。大げさな戦いをしている人物たちも、自宅へ戻れば家族の一員なのである。特にインチ鬼大王が家庭人でもあるという設定は、敵キャラクターを身近にする効果が大きい。世界征服を企むような大悪党なら家庭生活はほとんど描かれないが、鈴木繁の場合は妻や娘との関係まで含めて一人の人物として描かれる。その結果、悪役側のシーンだけで一本の家庭コメディが成立する。

サイコウユ鬼など、1980年代らしいパロディーが持つ時代の味

サイコウユ鬼のように、その時代の芸能文化を思わせるキャラクターが登場する点も『ドテラマン』ならではの魅力である。放送当時の視聴者なら、元ネタを連想した瞬間に笑える即効性の高いギャグだった。一方、数十年後に見ると、1986年から1987年ごろのテレビ文化やアイドル人気を感じられる時代資料のような面白さも出てくる。パロディーは時間が経つと意味が分かりにくくなる場合もあるが、それが逆に作品の年代を強烈に印象づける。服装、台詞回し、歌、キャラクターデザインなども含めて、「1980年代のテレビアニメを見ている」という感覚を濃厚に味わえるのだ。

声優陣の大げさな芝居がギャグを何倍にも膨らませている

『ドテラマン』の面白さは絵や脚本だけでは成立しない。声優陣による芝居が非常に重要である。つかせのりこのハジメは少年らしい元気さと勢いを持ち、神代知衣のマリコはその横で異なるリズムを作る。八奈見乗児のインチ鬼大王は、偉そうな威張り声から情けない叫びまで振れ幅が大きく、登場するだけで場面の温度を変えてしまう。ギャグアニメでは、台詞を書いただけでは面白くならない場合が多い。言葉を発するタイミング、声の高さ、突然の絶叫、妙な間などが合わさって初めて笑いになる。本作にはそうした音による笑いが数多くある。オニゾウの副音声も含めれば、視聴者にとって『ドテラマン』は「耳でも楽しむアニメ」である。

毎回違う騒動が起こるため、一話単位で気軽に楽しめる

現在の長編アニメには、数十話を続けて見なければストーリーを理解しにくい作品も多い。その点、『ドテラマン』は一話ごとの騒動を中心にした構成なので、気軽に楽しみやすい。インチ鬼大王が奇妙な計画を始め、町に異変が起こり、ハジメとマリコが変身して事件へ立ち向かうという分かりやすい流れが基礎にある。もちろん登場人物の関係性を知っていればより楽しめるが、途中の一話だけ見ても「誰が正義側で、誰が騒動を起こしているのか」が比較的理解しやすい。この入りやすさは再視聴にも向いている。全20話というシリーズの短さも、現代から振り返れば利点になり得る。

印象に残る場面は「大事件」と「生活感」が同居している瞬間

『ドテラマン』らしい名場面として記憶に残りやすいのは、必ずしも激しい必殺技や壮大な決戦だけではない。むしろ巨大な大仏が動き出すような異常事態と、八本木の住民たちの庶民的な反応が同時に描かれる場面に本作の個性が詰まっている。ハジメとマリコが初めてハイパードテラを身につける場面も象徴的である。普通の小学生だった二人が、一瞬にして町を守るヒーローになる。しかも、その変身アイテムが「ドテラ」であるため、格好良さと笑いが最初から共存している。一方でインチ鬼大王側の場面では、作戦開始前の自信満々な姿と、失敗後の情けない姿の落差が見どころとなる。

最終回まで重苦しくなりすぎないところが『ドテラマン』らしい

短期間の放送となった作品ではあるが、最後まで本作の基本にあるのは深刻な悲劇ではなく、ハジメたちとインチ鬼大王一味が繰り広げる賑やかな世界である。シリーズが終盤へ向かっても、突然作品の性格を変えて極端に暗い物語へするのではなく、登場人物たちらしいテンションを保ちながら進んでいくことが『ドテラマン』には似合っている。最終回を見る際には、物語上の決着だけでなく、「この八本木の人々をもう見られなくなる」という寂しさを感じる部分もある。全20話という話数は決して長くないため、もっと別の鬼、別の事件、別のインチ鬼大王の失敗を見たかったと思わせる余地が残る。しかし、すべてを説明し切らず、「明日もこの町では何か変な事件が起こっていそうだ」と想像できる余韻も本作にはよく合う。

短命だったからこそ“知る人ぞ知る作品”として記憶に残った

全20話で終了したことは、放送当時の展開だけを考えれば惜しまれる点である。しかし長い年月が経過した現在では、この短さも『ドテラマン』という作品の印象を形作る一部になっている。長寿シリーズのように誰もが知る定番作品とは異なり、「昔見ていた」「タイトルだけ強烈に覚えている」「オニゾウの副音声が印象に残っている」といった断片的な記憶によって語り継がれやすい。知名度の大小だけで作品の魅力は決まらない。むしろ、短期間しか放送されなかったにもかかわらず、タイトル、キャラクター、主題歌、変身方法、副音声など複数の特徴が長期間記憶へ残っていること自体が、本作の個性の強さを示している。

大人になって見返すと、子供時代とは別の笑いが見つかる

子供のころに『ドテラマン』を見た場合、分かりやすい変身、派手な騒動、鬼たちの奇妙な姿、インチ鬼大王の失敗などが主な楽しみになる。一方、大人になって見直すと、それとは別に中年男性である鈴木繁の情けなさ、家族関係、テレビ文化のパロディー、音声多重放送を使った実験的演出などへ目が向く。インチ鬼大王の「有名になりたい」という欲望も、大人になってから見ると単純な悪意より承認欲求のように感じられ、妙な現実味がある。思春鬼と父親との距離感にも家族コメディとしての面白さがあり、子供時代には流していた会話が意外に楽しく感じられる場合がある。このように視聴する年代によって注目する場所が変わることは、古い作品を再発見する楽しみの一つである。

『ドテラマン』最大の魅力は、誰も本気で格好をつけ続けられない世界

作品全体を通して最も魅力的なのは、正義側も悪側も完全に格好良い存在にはならないことである。ドテラマンが決めれば次の瞬間にはギャグが入り、インチ鬼大王が威厳を見せれば失敗が待っている。マリコも思春鬼もオニゾウも、登場人物全員がいつ笑いの中心になってもおかしくない。だからこそキャラクター同士の距離が近く感じられる。視聴者が遠くから英雄を眺めるのではなく、八本木という町へ遊びに来て、その住民たちの大騒ぎを横から見ているような感覚がある。正義と悪の対立を描いているにもかかわらず、作品全体にはどこか温かさが漂っているのもこのためだろう。格好いいヒーロー作品は数多い。しかし、どてらを着た小学生がヒーローになり、近所の中年男性が鬼の大王になり、子鬼が副音声でぼやきながら、町全体が毎週のように騒動へ巻き込まれる作品はそう多くない。『ドテラマン』は、その唯一無二の奇妙さを最後まで楽しむことが最大の醍醐味なのである。

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■ 感想・評判・口コミ

「こんなヒーローアニメはほかになかった」という個性の強さを評価する声

『ドテラマン』を振り返る視聴者の感想として、まず目立つのが「とにかく発想が変わっていた」「子供のころは普通に見ていたが、今考えると相当変なアニメだった」というタイプの評価である。正義の少年が特殊なスーツではなく「ハイパードテラ」を身につけて戦うという基本設定だけでも十分に奇抜だが、敵が恐怖の独裁者ではなく有名になりたがっているインチ鬼大王であり、さらにその正体が町内で生活する中年男性というところまで含めると、一般的なヒーロー作品とはかなり異なる。放送当時は数多くの子供向けアニメが存在したが、その中でもタイトルと設定を一度聞けば忘れにくい作品だったという印象を持つ人は少なくない。特に後年になって改めて作品を知った人からは、「ドテラマンという名前だけ聞けば冗談のようなのに、実際にきちんと変身ヒーローアニメとして作られているところが面白い」と受け止められやすい。単なる一発ネタではなく、変身、敵との対決、相棒となるヒロイン、秘密の正体といったヒーロー作品の基本要素を備えたうえで、それらを徹底的にギャグへ加工しているからである。

インチ鬼大王は「悪役なのに嫌いになれない」と評されやすい人気キャラクター

キャラクターに関する感想では、主人公のドテラマンだけでなくインチ鬼大王への評価が非常に重要である。悪役でありながら、視聴者からは「悪人というより困ったおじさん」「毎回失敗する姿がかわいい」「敵なのに出てくると安心する」といった感覚で受け止められやすい。彼の目的が純粋な破壊や殺戮ではなく、自分を世間に認めてもらいたいという妙に俗っぽい欲望に根差しているため、本気で憎悪する対象になりにくいのである。鈴木繁としての家庭生活まで描かれることも、親しみやすさを強めている。インチ鬼大王として大げさに威張っていた人物が家庭へ戻れば父親や夫として生活している。そのギャップを面白がる視聴者は多く、単純な勧善懲悪作品では味わえない魅力になっている。さらに八奈見乗児の声の演技についても、偉そうな声から情けない悲鳴まで変化が大きく、インチ鬼大王の存在感を何倍にも高めている。

オニゾウの副音声を覚えている人ほど、本作を特別なアニメとして語りやすい

『ドテラマン』の評判を語る際、作品内容と同じくらい強烈な記憶として挙げられるのが、オニゾウを利用した音声多重放送の演出である。本編だけを見ると意味の分からない鬼の言葉をしゃべっているオニゾウが、副音声では日本語で本音を話したり、その場面へぼやきを入れたりするという仕組みは、当時の視聴者にとって非常に珍しかった。そのため放送をリアルタイムで見た世代からは、「副音声に切り替えて見るのが楽しみだった」「テレビの音声を切り替えること自体が遊びになっていた」といった思い出につながりやすい。現在の配信作品では複数音声や字幕を自由に切り替えられることは珍しくないが、1980年代の家庭用テレビでこれを体験したことには特別な感覚があった。また、通常放送では理解できないキャラクターの内心が副音声を聞くと分かるという構造は、視聴者自身が「秘密を知っている」という感覚にもつながる。

ドテラマンとドテラピンクの組み合わせを好む視聴者も多い

主人公側については、ハジメだけが単独で活躍するのではなく、マリコもドテラピンクとなって一緒に戦う構成を好意的に受け止める感想も多い。少年主人公と少女キャラクターが対等に変身し、二人で悪役へ立ち向かうため、マリコが単純な応援役になっていないことが大きい。ハジメは勢いで行動する少年らしいタイプであり、マリコはそこへ別の反応を返すことで掛け合いを成立させる。視聴者にとっては二人がそろうことで『ドテラマン』らしい安心感が生まれ、変身シーンや共同戦線にヒーローチームらしい楽しさを感じられる。ギャグアニメなので格好いい場面が長時間続くわけではないが、それでも二人が一緒に変身して町を守る姿には、正統派ヒーロー番組としての爽快さがしっかり備わっている。

「タイムボカンを思わせる」という感想と、それでも独自作品だという評価

タツノコプロのギャグアニメに親しんでいる視聴者からは、『ドテラマン』を見て『タイムボカン』シリーズを思い浮かべるという感想も出やすい。悪役側が非常に個性的で、毎回奇妙な計画を実行し、大げさに盛り上がった末に失敗するという流れには確かに共通する楽しさがある。悪役を徹底的な恐怖の対象とせず、失敗そのものを笑いに変える作風も同系統である。一方で、「似た雰囲気はあるが、そのままではない」という評価も重要である。『ドテラマン』では悪役と主人公側が同じ町の生活圏に存在し、家族ぐるみの日常が物語へ組み込まれている。さらに音声多重放送、文字放送、鬼次元、ハイパードテラなど独自の要素が多いため、単なる過去作品の焼き直しにはなっていない。

「全20話は短すぎる」という惜しむ声が作品の評価につながっている

『ドテラマン』について語る際、全20話という話数の少なさを惜しむ感想は避けて通れない。長期シリーズを期待できそうなキャラクター構成と世界観を持っていたため、「もっと続いていれば、さらにいろいろな鬼や騒動が見られたのではないか」と考えるファンもいる。インチ鬼大王が毎回別の作戦を実行できる設定である以上、物語を発展させる余地は大きい。八本木という舞台も何でも起こり得る町として作られているため、学校、家庭、商店街、テレビ局、行楽地など、舞台を変えながらエピソードを増やすことも可能だった。思春鬼や鬼三トリオ、サイコウユ鬼といった個性的なキャラクターにも、それぞれさらに深掘りできる余地があっただろう。そのため最終回を迎えた時の感想として、「物語が長すぎてようやく終わった」というより、「もう終わってしまうのか」という物足りなさを感じる方が作品の性格には合っている。

一方で「ギャグの好みが分かれる」という評価もある

もちろん、『ドテラマン』のすべてが万人向けというわけではない。駄洒落、言葉遊び、大げさなリアクション、芸能ネタ、当時の流行を利用したパロディーなど、1980年代らしいギャグ表現が非常に多いため、現在初めて見る人には好みが分かれる可能性がある。特にストーリーを重厚に積み上げる作品を好む人から見ると、一話ごとに騒動を起こして笑いへ持っていく展開を単純に感じる場合もある。また、勢いを重視したギャグは理屈を深く考えるほど理解しにくくなることがあり、「なぜそうなるのか」を厳密に求める視聴者には合わない部分もある。しかし、これは同時に本作の長所でもある。設定上の細かな整合性より、「今この瞬間に面白いこと」を優先しているため、作品全体に独特の軽さがある。

当時の芸能ネタやパロディーは、今見ると別の面白さがある

サイコウユ鬼を代表として、本作には放送当時の流行を感じさせるネタが散りばめられている。リアルタイムでは元ネタを知った瞬間に笑えるパロディーとして機能していたが、年月が経過すると「1986年当時はこういう人物や表現が人気だったのか」と時代を感じさせる要素へ変化している。現代の若い視聴者には元ネタが分からない場面も存在するだろう。そのため笑いの即効性は弱くなる場合がある。一方、昭和末期のテレビ文化やアニメ文化を好む人にとっては、衣装、音楽、キャラクターデザイン、台詞、パロディーなどすべてが時代の空気を伝える魅力となる。古い作品を現代基準だけで評価すると「ネタが古い」で終わってしまうが、その古さ自体を楽しむ視点を持てば評価は大きく変わる。

主題歌が耳から離れないという音楽面での評判

「正義の使者だぜ ドテラマン」をはじめとする楽曲も、視聴後の記憶に残りやすい部分である。1980年代のアニメ主題歌らしく作品名を分かりやすく押し出し、メロディーも覚えやすいため、何十年も経ってから突然思い出すという人もいる。作品のテーマを直接歌うアニメソングは、映像と記憶が強く結びつく。ドテラマンの変身やインチ鬼大王たちの姿を思い出そうとすると自然に主題歌まで浮かんでくるという感覚は、当時の作品ならではである。さらに本作は挿入歌やキャラクター関連楽曲も充実しており、インチ鬼大王、思春鬼、オニゾウ、鬼三トリオ、ドテラピンクなど、主人公以外にも楽曲上の見せ場が用意されていた。

作画やデザインには「1980年代後半のタツノコらしさ」を感じるという印象

映像面については、現在のデジタルアニメーションとはまったく異なるセルアニメ特有の質感を楽しめる。表情を大きく崩すギャグ描写、分かりやすいシルエットのキャラクター、勢いのある動きなどは、本作のテンポの速さと相性が良い。ドテラマンやドテラピンクは正義側と一目で分かり、インチ鬼大王や鬼たちは見るからに怪しい。それでいて恐怖を感じさせる方向には寄りすぎず、子供でも親しみやすいデザインにまとめられている。特にインチ鬼大王は、威厳を出したい本人の気持ちと見た目のコミカルさの間にズレがあり、それだけでも笑いが成立する。現在から見ると画面構成や色彩に古さを感じるところはあるものの、逆に手描きアニメならではの温かさや勢いを評価する視聴者もいる。

「子供向けなのに大人になってからの方がインチ鬼大王に共感する」という面白い見方

幼少期に見た時と大人になってから見た時で印象が変化しやすいことも、『ドテラマン』の面白いところである。子供の視聴者にとってはドテラマンとドテラピンクが中心で、インチ鬼大王は面白い悪役として映る。しかし大人になって改めて見ると、鈴木繁という中年男性の哀愁や承認欲求へ妙な共感を覚える場合がある。有名になりたい、自分を評価してほしい、大きなことを成し遂げたいと思いながら、計画通りに進まない。その姿は極端なギャグとして描かれているものの、社会人になった視聴者には思い当たる部分もあるかもしれない。そのため「昔はドテラマンが好きだったが、今見るとインチ鬼大王の気持ちも分かる」という楽しみ方が成立する。

DVDやBlu-rayで改めて見ると、副音声を含めた完成形の面白さに気づける

放送当時はテレビの環境によって副音声を十分に楽しめなかった視聴者も存在したため、後年に映像ソフトで作品を見直すことで初めて『ドテラマン』の仕掛け全体を理解したというケースも考えられる。主音声で普通に一話を見た後、副音声を使ってオニゾウの「ひみつトーク」を楽しむと、同じ映像なのにまったく違う笑いが加わる。一度見た話を違う角度から再生できるため、全20話という短さを補う意味でも相性が良い。単純に懐かしい作品を保存するだけでなく、放送時の特殊な試みまで再現して楽しめることは、本作の映像ソフトにとって非常に重要な意味を持っている。

知名度以上に“記憶への残り方”が強いカルト的な魅力

『ドテラマン』は、日本のテレビアニメ史全体で見れば誰もが知る超長寿シリーズとは異なる。全20話という短い放送期間であり、放送終了後に大規模な続編シリーズが展開されたわけでもない。それでも作品名を覚えている視聴者には非常に強く記憶されている。「タイトルだけ妙に覚えていた」「大仏が動く場面が忘れられない」「インチ鬼大王の声が印象に残っている」「オニゾウの副音声が珍しかった」「ドテラを着て変身することだけは何十年経っても覚えている」といった、特定の要素が強烈な記憶として残りやすい作品なのである。これは長期放送による反復ではなく、アイデアそのものの強さによって記憶されているという点が興味深い。

総合的な評判は「短命だったが、アイデアとキャラクターの濃さでは忘れにくい作品」

『ドテラマン』に対するさまざまな感想を総合すると、最大の評価点は完成された長編ストーリーというより、圧倒的な個性にある。ドテラを使って変身するヒーロー、町内で生活するインチ鬼大王、正体を知らずに日常では交流する敵味方、鬼次元から来た個性的な鬼たち、オニゾウの副音声、当時の芸能文化を盛り込んだパロディー、耳に残る主題歌など、一つ一つが非常に濃い。一方で、1980年代特有のギャグ表現が現代の感覚とは異なること、長期的な物語を期待する人には物足りなく感じられること、全20話で終了したため世界観を十分に掘り下げ切れなかったことなどは、人によって評価が分かれる部分である。しかし、それらを含めても「ほかの作品と間違えることがない」という個性は非常に大きい。放送期間の長さだけなら短命作品である。それでも数十年を経て映像ソフト化され、懐かしいアニメとして語られ、音声多重放送の試みまで含めて再評価されるのは、それだけ忘れがたい仕掛けが詰め込まれていたからだろう。『ドテラマン』は「名作だから一度は見るべき」と格式張って語るより、「こんな妙なアニメが本当にテレビで毎週放送されていた」という楽しさから入る方が似合う作品である。そして実際に見始めると、その妙な世界観の中にタツノコプロらしいテンポの良い笑い、親しみやすいキャラクター、意外にしっかりしたヒーローとしての爽快感が存在することに気づく。短いシリーズだからこそ濃縮された勢いと、今では再現しにくい1980年代テレビアニメの自由さ。それこそが、現在も『ドテラマン』を懐かしみ、もう一度見たいと思わせる最大の理由なのである。

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■ 関連商品のまとめ

映像商品では2010年発売の「ドテラマン DVD-BOX」が代表的なコレクターズアイテム

『ドテラマン』の関連商品を現在集めようとした場合、最も作品全体を楽しみやすく、同時に中古市場でも存在感が大きいのが映像ソフトである。その中心となっているのが、2010年10月27日に発売された「ドテラマン DVD-BOX」。3枚組でテレビシリーズ全20話をまとめて収録しており、本放送から20年以上を経て実現した本格的な全話収録商品だった。特に重要なのは単純に本編映像だけを収録したものではなく、本作最大の特徴だったオニゾウの副音声を楽しめる仕様が残されていることである。主音声、副音声、さらに双方を組み合わせた音声という複数の楽しみ方が用意されており、1986年当時の「音声多重放送をギャグへ利用する」という特殊な視聴体験を後世でも再現できる商品になっている。現在は新品を一般的な店頭で容易に購入できるタイトルとは言いにくいため、中古DVDショップ、インターネット通販、フリマサイト、ネットオークションなどが主な入手経路となっている。中古品では外箱、ディスク、ブックレットなどの付属状態によって評価が変化しやすく、とりわけBOX物では「ディスクだけそろっている商品」と「外箱や冊子まできれいに残った完品」に差が生まれやすい。

2017年の全話入りBlu-rayは、期間限定生産だったことから中古市場で注目されやすい

映像ソフトでDVD-BOXと並んで重要なのが、2017年4月21日にタツノコプロ創立55周年記念商品として発売された「全話入りブルーレイシリーズ ドテラマン」である。こちらはテレビシリーズ全20話をBlu-ray Discへまとめた商品で、発売時には期間限定生産という位置づけが採られていた。作品をコンパクトに保存できる商品として登場したことで、後年のコレクターからも注目されている。現在の中古市場では、このBlu-rayもDVD-BOXと並んで『ドテラマン』関連商品の中心的存在となっている。期間限定商品だったこともあり、常時大量の在庫が存在するタイトルではなく、出品時期によって価格差が大きくなりやすい。コレクション目的なら、ケースやジャケットの日焼け、スレ、ディスクの状態だけでなく、正規品であることや付属物の有無も確認したい。DVD-BOXとBlu-rayのどちらが優れているかは目的次第で、パッケージを含めたBOX物らしい所有感を重視するならDVD、収納性を重視するならBlu-rayという選択になる。

バップ発売のVHSは、現在では作品鑑賞用以上に昭和アニメ資料として価値を持つ

家庭用ビデオが重要な映像媒体だった放送当時には、『ドテラマン』のVHSも発売されている。初期エピソードを収録したVHSは現在では一般的な映像鑑賞用ソフトというより、当時のパッケージや販売形態を伝えるコレクターズアイテムとしての意味が大きくなっている。VHSはDVDやBlu-rayと違い、実際に再生するにはビデオデッキが必要になる。そのため現代の購入目的は「最も便利に本編を見るため」というより、放送当時のパッケージを含めて保存するコレクション性の方が高い。レンタル使用品の場合にはケースの色あせ、管理シール、テープの傷みなどが見られることがあり、セル版美品や未使用に近い状態であれば希少性がさらに高まる。一方、磁気テープは年月の影響を受けやすいため、外観がきれいでも完全な再生状態を保証できない。テープのカビ、巻き取り状態、映像ノイズなども注意点になる。

主題歌EP「正義の使者だぜ ドテラマン」はレコード収集でも人気が出やすい

音楽関連商品では、オープニングテーマ「正義の使者だぜ ドテラマン」とエンディングテーマ「もっとブ鬼゛ウ鬼゛」を収めたアナログEP盤が代表格となる。日本コロムビアから発売されたレコードで、こおろぎ’73やつかせのりこの歌声を放送当時のアナログ盤で楽しめるアイテムである。アニメEPの場合、盤面だけでなくジャケットが重要になる。『ドテラマン』の場合もキャラクターが描かれた当時物ジャケットそのものがコレクション対象であり、折れ、シミ、書き込み、色あせのないものは評価されやすい。レコード盤についても傷やノイズの有無が価格へ影響するため、単純に「レコードが存在する」というだけで価値が一定になるわけではない。また、1980年代アニメの主題歌レコードは、その作品のファンだけでなく昭和アニメソング、声優、こおろぎ’73、日本コロムビアのテレビ漫画レコードなど複数の収集分野と重なる。このため『ドテラマン』単独のファン以外から需要が生まれる場合もある。

キャラクターソングや挿入歌は、作品世界を音楽から掘り下げたい人向け

『ドテラマン』には「哀愁製作所」「今、思春鬼気分」「インチ鬼大王 中年の主張」「鬼三トリオ」「オニゾウさんは困っちゃう」「どこだって鬼次元」「ハートをノック」「ヒーローと呼ばないで」「ピンク御前参上!」「ふ・し・ぎ・女の子」「僕らの味方ドテラマン」「ロックン ド・テ・ラ」「ワンダーランド メリーゴーランド」など、主題歌以外にも数多くの楽曲が存在する。こうした曲は、本編だけでは分からないキャラクターの個性を楽しめるのが魅力である。特にインチ鬼大王や思春鬼、オニゾウ、鬼三トリオ、ドテラピンクといった登場人物にまで音楽上の見せ場が用意されているため、音源を集めることで作品世界がテレビシリーズの外へ広がっていく。放送当時の音源を探す場合には、作品名だけでなく曲名、歌手名、レコード番号など複数の条件を組み合わせて検索すると見つけやすい。

シュガー佐藤による『コミックボンボン』版は、掲載誌そのものも収集対象

書籍関連では、シュガー佐藤による漫画版『ドテラマン』が重要である。テレビアニメと同時期に『コミックボンボン』で連載されていた作品で、アニメ版をそのまま漫画へ置き換えたものではなく、漫画独自のかなり強烈なギャグ表現を持つ作品として知られている。現在この漫画版を探す場合、一般的な長期連載作品のように新品コミックスを容易に購入するというより、当時の『コミックボンボン』そのものを探す形になる場合がある。1980年代の児童漫画誌は保存されず処分されたケースも多く、年月が経過した現在では状態の良い号ほど見つけにくい。雑誌の中古価値を見る際には、『ドテラマン』だけでなく同じ号に何が掲載されているか、付録が残っているか、表紙がどの作品なのかという要素も加わる。このため『ドテラマン』掲載号を集める行為は、作品単体の収集と同時に1986~1987年の『コミックボンボン』文化を集めることにもつながる。

「音多おに蔵」は『ドテラマン』玩具の中でも象徴的な超個性派アイテム

玩具関連で最も『ドテラマン』らしい商品として語られるのが、オニゾウをモチーフにした「音多おに蔵」である。本作ではオニゾウの副音声「ひみつトーク」が重要な仕掛けだったため、音声多重放送を楽しむための商品そのものをキャラクター玩具として展開するという非常にユニークな発想が採られた。放送当時にはオニゾウ型の音声多重TV・FMチューナーが企画され、テレビの音声を利用する作品性と商品展開が直接結びついていた。現在では、この種の電子玩具を完動状態で見つけること自体が難しく、箱や説明書まで残ったものなら一段と珍しい。40年近く前の電子機器であるため、電池部分の腐食、スイッチやチューナーの故障、アンテナの破損、プラスチックの変色なども考慮する必要がある。またアナログテレビ放送が終了している現在では、当時と同じ用途で使う実用品というより、1980年代の放送技術とキャラクター玩具が融合した歴史的コレクションとしての意味が強い。

「おはなし音多おに蔵」のようなトーキング玩具も存在する

さらに興味深いのが、同じオニゾウを題材としたトーキングタイプの玩具である。「おはなし音多おに蔵」と呼ばれる商品では、仕掛けによって複数種類の言葉をしゃべる構造が採用されており、オニゾウというキャラクターの「声」を玩具そのものへ持ち込んでいる。古いトーキング玩具の場合は外見だけでなく内部機構が動作するかどうかで評価が大きく変わる。箱付き、音声可動、付属品完備という条件が重なる商品ほどコレクターには魅力的であり、逆に破損品であっても外観展示用や修理前提の商品として需要が生まれる場合がある。オニゾウは副音声企画を象徴するキャラクターだったことから、単なる脇役のグッズ以上の意味を持っている。

ソフビ・キャラクター玩具は出品数が少なく、映像ソフト以上に一期一会になりやすい

『ドテラマン』関連の当時物玩具については、長寿ロボットアニメや巨大な玩具シリーズと比べると、現在の中古市場で常に大量の商品が並ぶジャンルではない。オニゾウ関連のソフビ・トーキング玩具などは存在が確認できるものの、欲しい商品をいつでも複数ショップで比較できるとは限らない。このため収集する際には、ネットオークション、フリマサイト、アニメ専門中古店などを定期的に確認する方式が向いている。古い玩具の場合、商品名が正確に入力されず「タツノコ 当時物」「昭和アニメ ソフビ」「鬼 キャラクター」など別の表現で出品される可能性もある。そのため作品名だけでなくキャラクター名やメーカー名を含めて探すことが重要になる。状態評価では、箱の有無、角の潰れ、透明窓の剥離、ソフビのベタつきや変色、落書き、記名、付属品欠品などがポイントになる。

文房具・カード・紙物は「安価だから簡単に集まる」とは限らない

1980年代の子供向けアニメでは、下敷き、ノート、鉛筆、シール、カード、ぬりえ、ミニ文具など紙物・文房具が展開されることが多かった。しかし『ドテラマン』については、映像ソフトのように現在も安定して多数確認できる商品群ではない。そのため個別の商品が出現した場合は、玩具以上に資料性を含めて判断する必要がある。紙製商品は玩具より保存が難しく、日焼け、折れ、湿気、破れ、書き込みなどが起こりやすい。また低価格の日用品として販売された商品ほど「わざわざ何十年も保存する」という意識が働きにくいため、後年になって逆に残存数が少なくなることがある。当時は安価だった商品が現代では珍品として扱われることもあるが、必ず高値になるという意味ではなく、知名度、状態、絵柄、未使用かどうかなどで評価が大きく変わる。

ゲーム・ボードゲーム・食玩・食品は、確認できる商品を慎重に見極めたい分野

『ドテラマン』の場合、映像ソフトやレコード、「音多おに蔵」のような玩具は具体的な商品を追いやすい一方、単独タイトルの家庭用テレビゲームや定番ボードゲーム、長期間シリーズ化された食玩などについては、代表商品が現在の中古市場で継続的に流通しているとは言いにくい。そのため「1980年代の人気アニメだから必ずファミコンゲームが存在する」「キャラクター菓子が大量に発売された」と推測だけで商品名を増やすのは適切ではない。『ドテラマン』のように放送期間が短かった作品では、現存資料や実物が少ない商品カテゴリーもあり、パッケージ写真、メーカー情報、当時の広告などが確認できる物を一つずつ追っていくことが大切になる。もし当時の菓子袋、食品のおまけ、販促シール、店頭POPなどが発見された場合、それらは単なるキャラクター商品以上に放送当時の商業展開を知る資料として興味深い。

セル画・設定資料・宣伝素材は、一般商品とは異なるコレクション分野

1980年代のセルアニメ作品という性質上、本放送時に制作へ使用されたセル画、原画、動画、設定資料などもコレクター市場で注目される可能性がある。ただし、こうした物は一般向けに発売されたキャラクター商品とは性格が異なり、制作資料として扱われる。セル画ではドテラマン、ドテラピンク、インチ鬼大王、思春鬼、オニゾウなど人気キャラクターが大きく描かれている場面ほど注目されやすく、変身後の全身像や複数キャラクターが一緒に描かれたカットなどは展示映えする。一方で実際の作品使用セルなのか、複製品なのか、背景とセルが本来の組み合わせなのかなど専門的な確認も必要になる。ポスター、番宣用資料、販売店向けチラシ、映像ソフト告知物なども同様で、作品そのものより流通量が少ない場合がある。

中古市場では「DVD・Blu-ray」と「放送当時物」で価値の方向性が異なる

現在の『ドテラマン』中古市場を大きく二つに分けるなら、「作品を視聴するための商品」と「放送当時の文化を集める商品」で性質が異なる。前者の中心はDVD-BOXとBlu-rayである。全20話を見たいという明確な実用需要があり、副音声を含めて作品そのものを楽しめるため、中古市場でも比較的分かりやすい人気商品になっている。後者にはVHS、EPレコード、音多おに蔵、トーキング玩具、雑誌、紙物、制作資料などが該当する。こちらは「本編を見る」という目的だけならDVDやBlu-rayに及ばないが、1986年当時の姿をそのまま保存していることに価値がある。特に箱、説明書、帯、ジャケットなど、本来なら捨てられやすい付属品がそろっているほどコレクション性が高くなる。

現在購入するなら、高値の出品価格だけで判断せず状態と売買履歴を見ることが重要

『ドテラマン』のように出品数が多くない作品では、一件だけ非常に高価な商品が見つかると、それが一般的な相場のように見えてしまう。しかしネット通販の販売希望価格と、オークションで実際に落札された価格は同じではない。購入前には「現在出品されている価格」「過去の落札履歴」「専門中古店の販売価格」を比較し、さらに商品の状態を見ることが重要になる。映像ソフトならディスク、ケース、ブックレット、BOX、帯。レコードなら盤面とジャケット。玩具なら箱、付属品、動作、電池部分。雑誌なら切り抜きや付録の有無など、それぞれ確認点が異なる。特に希少品ほど「多少高くても次にいつ出るか分からない」という心理が働くため、価格が上昇しやすい。その一方で出品者が非常に高い希望価格を付けたまま長期間売れない例もあるので、希少性と市場価格を分けて考えることが大切である。

関連商品全体から見えてくる、『ドテラマン』という作品の独特な残り方

『ドテラマン』の商品展開を現在から振り返ると、巨大な玩具シリーズや長期間続くゲームシリーズを形成したタイプのアニメではない。それでもDVD-BOX、期間限定Blu-ray、VHS、アナログレコード、『コミックボンボン』掲載漫画、オニゾウを使った特殊玩具など、作品の個性を強烈に反映したアイテムが残っている。中でも「音多おに蔵」は象徴的である。本編で副音声をギャグへ利用し、その副音声を楽しむための商品自体をオニゾウ型にしてしまうという展開は、番組内容、放送技術、スポンサー商品、キャラクターが一体化した非常に1980年代らしい企画だった。DVD-BOXでも副音声が残されたことで、その特殊な試みを現代まで追体験できる点も興味深い。現在の中古市場では、作品名を検索すれば大量の商品が何百件も並ぶような状況ではない。その代わり、一つの珍しい商品を見つけた時の面白さが大きい。DVDやBlu-rayから入り、主題歌EP、VHS、雑誌掲載号、オニゾウ玩具へと収集範囲を広げていけば、テレビ本編だけを見ていた時には分からなかった『ドテラマン』の商業展開や1980年代アニメ文化まで見えてくる。全20話という短い放送期間だったにもかかわらず、長い年月を経ても映像ソフトやレコード、玩具が中古市場へ姿を現し、コレクターから探され続けていること自体が、本作のキャラクターとアイデアの強さを示している。単なる「昔の商品」というだけではなく、オニゾウの副音声、インチ鬼大王のコミカルな存在感、ドテラマンとドテラピンクの独特なデザイン、そして1986年当時のテレビ文化まで一緒に残しているところが、『ドテラマン』関連商品の最大の魅力である。作品そのものが少し変わったヒーローアニメだったように、残された商品もまた一筋縄ではいかない。そこにこそ、現在から集め直す面白さと、知る人ぞ知るコレクターズアイテムとしての価値があるのである。

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