▲FC ファミコンソフト アスミック ぎゅわんぶらあ自己中心派テーブルゲーム ファミリーコンピュータカセット 動作確認済み 【中古】【..
【発売】:ゲームアーツ
【対応パソコン】:PC-8801、PC-9801、MSX、X1、FM-7
【発売日】:1987年
【ジャンル】:麻雀ゲーム
■ 概要
原作の“異常さ”を、麻雀ゲームの中にそのまま持ち込んだ企画
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は、片山まさゆき作品として知られる麻雀マンガの空気を、当時のパソコン向け麻雀ゲームに「キャラクターの癖」そのものとして落とし込もうとしたタイトルです。4人打ち麻雀という形式自体は王道ですが、狙いは“正統派の麻雀を真面目に再現する”ことよりも、「この相手はこういう勝ち方をしてくる」「この局面になると、あのタイプは妙に強い(あるいは急に崩れる)」といった、マンガ的な波や個性を、遊びの手触りとして成立させることにあります。言い換えるなら、麻雀の盤面を借りたキャラクターゲームであり、同時に“運と流れ”という麻雀の語り口を、ゲームのルール側に組み込んだ実験作でもあります。PC-8801を皮切りに、PC-9801、MSX、X1、FM-7など複数機種へ展開したこともあって、当時のパソコン麻雀ゲームの中では「移植される価値がある独自性」を強く持っていたタイプだと言えます。
基本は四人打ち、しかし中身は「相手を選ぶ」対局劇場
表面上のルールは、一般的な4人打ち麻雀の枠に収まっています。ローカルルールを無尽蔵に盛り込む方向ではなく、いくつかの設定を切り替えて遊ぶ、比較的わかりやすい設計に寄せています。その代わりに、対局相手となるキャラクターの存在感が中心に置かれ、誰と卓を囲むかで“同じ麻雀なのに別ゲーム”のように印象が変わるよう作られています。対局前のメンツ選びは単なる飾りではなく、難易度や展開の荒れ方、勝ち筋の見え方に直結します。堅実な相手ばかりにすると読み合いが濃くなり、クセの強い相手を混ぜるほど、突然の押し引きや意味不明な放銃・妙な和了が増えて「何が起きるかわからない卓」になります。この“卓の味付け”をプレイヤーが能動的に決められるのが、当時としてはかなりゲーム的でした。
最大の肝は「ツキ」をゲームの仕様にしてしまったこと
本作が語られるとき、避けて通れないのが「ツキ(流れ)」の扱いです。麻雀における運の偏りは本来、確率の結果として起きる“気のせい”にもなり得ますが、このゲームはそこを曖昧にせず、運の偏りを“演出”ではなく“設計”として成立させています。ざっくり言えば、勝っている側はさらに伸びやすく、悪い結果(特に大きい放銃など)が起きると流れが切れて状況が変わる、という「波」の考え方が、手牌の進み方に反映されるような手触りになっています。これにより、対局の印象が非常にマンガ的になります。序盤で気持ちよく連荘して“無敵モード”に入ったかと思えば、ひとつの事故で空気が変わり、同じ相手が急に止まらなくなる。実戦麻雀で語られがちな“流れ”が、プレイヤーの体験として分かりやすく立ち上がるよう調整されているわけです。真面目に確率だけで勝負したい人には癖が強い一方、「作品の世界観」をゲームにするなら、この割り切りが一番効く――そんな方向性が徹底されています。
キャラクター再現の要は、打ち筋よりも「局の読み方」と「ノリ」
麻雀ゲームのCPU差別化は、待ちの選び方や鳴き判断など、純粋な技術の差に寄せがちです。しかし本作は、そこに加えて「そのキャラは今の局面をどう捉えているか」を台詞や振る舞いで見せ、プレイヤーの脳内に“人格”を作らせます。例えば、押し引きの理由が理屈ではなく「勢い」「ムキになり」「勝ち誇り」だったりする。あるいは、危険牌を怖がるのではなく「怖がらないことが芸風」だったりする。そうした“ノリの違い”が、対局中の言動と結果に結びつくことで、単なる強弱ではない印象差が生まれます。顔グラフィックの表情変化や、場面ごとのリアクションもその補助線です。勝ったときの得意げな顔、やらかしたときの崩れ方、焦りの出方が、局の温度を視覚的に伝え、プレイヤーの感情を揺らします。麻雀ゲームでありながら「演劇を見ている」感覚が混ざるのは、このあたりの作りが効いています。
“指導者(コーチ)”の存在で、プレイヤー自身の打ち方まで変質する
本作には、プレイヤーに助言を与える立場としてキャラクターを付けられる仕組みがあり、これが単なる初心者救済に留まりません。助言が出るだけなら、いわゆるガイド機能で終わるのですが、このゲームの場合「誰を指導者にするか」が、プレイヤーの勝ち方・負け方の性格まで変えてしまうのが面白い点です。面前重視の雰囲気に引っ張られることもあれば、無茶を推奨するようなノリに染まって、手堅さより爆発力を狙うようになることもあります。結果として、同じプレイヤーが同じルールで遊んでいても、コーチ選択によって“別の人格”で打っているような感覚になる。これは「キャラゲー」を麻雀というロジックのゲームに接続するための、かなり巧い仕掛けです。プレイヤーが自分の実力を上げるというより、ゲームが用意した個性のレンズを通して麻雀を遊ぶ、という体験に近づきます。
モード構成は、短期決戦と自由対局の“温度差”を楽しむ設計
遊び方としては、大会形式で勝ち上がっていくモードと、メンツを選んで気軽に卓を立てるモードのように、緊張感と実験性を両立させる構成が基本線になります。勝ち抜き型は、運の波や相手の癖が連鎖して“物語っぽい流れ”を作りやすく、フリー対局は、気になるキャラを集めて「この卓はどう壊れるのか」を観察する楽しみが強く出ます。ここでも“麻雀の勝ち負け”と同じくらい、“卓そのものを作って眺める”という遊び方が成立しています。移植や展開によっては、対局の目的が少し変わるような追加モードが用意される場合もあり、シリーズ的な拡張で「世界観の遊び場」を広げていく土台にもなっています。
音とテンポが、当時のパソコン麻雀としては異様に“騒がしい”
パソコン麻雀は淡々と進むもの、という印象が強かった時代に、宣言や掛け声が入るだけで卓の熱量は一段上がります。本作は、対局中の台詞・リアクション・操作レスポンスで“間”を作りすぎず、テンポよく局が回るよう意識されています。もちろん当時のハード事情に左右される部分はありますが、音声や効果音が入ることで、プレイ感はかなり賑やかになります。麻雀は本来、静かな頭脳戦にもできるゲームですが、ここでは「盛り上がってナンボ」という方向に振り切っている。マンガ由来のギャグと相性が良く、勝っているときは気分が上がり、やられたときは腹が立つ――そういう感情の起伏を、演出で増幅する作りです。
“タコ度”という評価で、勝敗以外の面白さを残す
原作の文脈を知っているとニヤリとするのが、対局後に“タコ度”のような指標でプレイが評されるタイプの要素です。麻雀ゲームは勝てば正義になりがちですが、この仕組みがあると「勝ったけど打ち方はひどい」「負けたけど内容は悪くない」「やらかしが多すぎて芸術点が高い」など、勝敗とは別の物差しで自分の対局を振り返れます。結果画面が単なる点数精算で終わらず、プレイ体験にオチが付く。ギャグ作品のゲーム化として、こういう“締めの一言”があるだけで満足度が変わります。
当時の麻雀ゲーム観をずらした存在
本作が残したインパクトは、「麻雀を公平に再現する」ことだけが麻雀ゲームの価値ではない、と示した点にあります。麻雀は、数学的な正しさだけでは語り切れない遊びでもあります。流れ、相性、気分、勢い、見栄、意地――そうした人間臭い部分を“ゲームのルールの外”に追い出さず、むしろ仕様として引き受けてしまったからこそ、他の麻雀ゲームとは違う記憶の残り方をします。キャラクターの奇行や必殺技めいた展開が、ただのネタではなく「このゲームなら起きる」と納得できる範囲で起きる。麻雀の体裁を守りながら、麻雀ゲームの常識を少し壊した。それが『ぎゅわんぶらあ自己中心派』の“概要”として押さえておきたい核心です。
■■■■ ゲームの魅力とは?
「麻雀の勝負」より先に「卓のドラマ」が立ち上がる面白さ
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』の魅力を一言でまとめるなら、“勝ち負けの計算”よりも先に“場の空気”が動き出すところにあります。普通の麻雀ゲームは、牌効率や押し引きの判断がそのまま勝率に返ってくる作りが多く、プレイヤーは「自分の選択がどれだけ正しかったか」を確認する方向に遊びが収束します。ところが本作は、同じ4人打ちでも「今日のこの卓は荒れる」「今は誰かが持っている」「ここで放銃したら流れが切れる」といった感覚が、演出ではなくゲーム体験として成立するよう調整されています。結果として、プレイヤーは手牌だけを見ているつもりでも、自然と卓全体の雰囲気を読もうとする。麻雀漫画で描かれる“目に見えない圧”や“流れのうねり”を、ゲームという形で味わえるのが最大の魅力です。
“ツキ”があるからこそ、キャラクターの個性が一発で伝わる
キャラクターゲームとしての強みは、短時間の対局でも「この相手はこういう勝ち方をする」「こういう局面で豹変する」という印象が残る点です。ここで重要なのが、牌の巡りや展開が一定の方向に偏ることで、人格が浮かび上がる仕組みです。例えば、早い巡目から気配だけで押し切ってくるタイプ、追い詰められるほど不思議と上がりが連鎖するタイプ、逆に勢いに乗ると止まらないが一度つまずくと一気に弱るタイプ……。そうした“マンガ的な勝ち筋”が、単なる台詞や表情だけでなく、実際の局展開として繰り返し現れるから、プレイヤーは相手のキャラを覚えやすい。麻雀ゲームのCPU差は普通、細かな打牌判断の違いとして表れるので、気づくまで時間がかかります。本作はそこを逆にして、短い体験で個性が伝わるように作られているのが強いです。
「相手選び」そのものが、攻略以前に“遊び”として成立している
このゲームは、対局が始まる前から面白いタイプです。相手キャラを誰にするかで、卓の難易度もテンポも、起きる事件も変わります。堅めのメンツで固めれば、読み合いと我慢の局が増えて、点棒の動きは小さくても“じわじわ削られる怖さ”が出る。逆にクセの強いメンツを集めれば、リーチの連打、妙な鳴き、意味不明な放銃、突然の爆発など、見ているだけで笑える展開になりやすい。つまり本作では、勝ち方を工夫する以前に「どんな卓を作るか」を工夫できる。これは、麻雀を“競技”として遊ぶ人だけでなく、麻雀というゲームの空気そのものが好きな人にも刺さる魅力です。
台詞と表情が“結果の説得力”を増やし、納得できる負け方になる
麻雀ゲームでストレスが溜まりやすいのは、「負けた理由がピンとこないとき」です。相手がただ上がり続けるだけだと、プレイヤーは不公平感だけを抱えがちです。本作はその点、台詞や表情変化が「いま相手がどういう気分で打っているか」を示し、負け方に物語を与えます。理不尽に見えるツモや連荘でも、演出が“あいつならやりそう”という納得へ寄せてくれる。逆にプレイヤーが勝つ側に回ったときも、“調子に乗っている感じ”が結果画面やリアクションに残るので、勝利が単なる点数以上の快感になります。勝負の説得力を、数字だけでなくキャラの芝居で支える作りが、キャラゲーとしての完成度を上げています。
“指導者”でプレイヤーが変身する――自分の麻雀が別物になる快感
本作の面白さは、プレイヤーの腕前だけで遊び方が固定されないところにもあります。指導者(コーチ)を付ける要素があると、同じ人が同じモードを遊んでも「今日は攻めに寄せる」「今日は守備の気分」といった変化が自然に起きます。助言に従うかどうかはさておき、提示される考え方自体が“そのキャラの麻雀観”なので、プレイヤーはいつの間にか別の価値基準で打たされる。これが新鮮です。麻雀ゲームは上達すればするほど最適解に寄り、打ち筋が単調になりやすい面がありますが、本作はキャラのレンズを通すことで、意図的にブレた麻雀を楽しめる。上級者ほど、普段やらない無茶を安全に試せる遊び場になります。
一局の起伏が大きく、“観戦しているだけでも面白い卓”が生まれる
麻雀は、自分が考える時間が長いゲームです。だからこそ、局が動く瞬間の快感が重要になります。本作はツキの概念やキャラの癖が絡むことで、局が動く瞬間が派手になりやすい。テンパイからの押し、リーチの応酬、突然の和了、思いがけない放銃など、見せ場が連続しやすい構造です。さらに、キャラの台詞やリアクションがその見せ場に“笑い”や“悔しさ”を上乗せするので、プレイが単なる作業になりにくい。自分が打っていない局でも、相手同士のぶつかり合いを見るだけで盛り上がる。麻雀ゲームとしては珍しく、観戦的な面白さが強いのも魅力です。
「真面目に打つ」だけが正解ではない――遊びの幅が広い
本作の魅力は、勝ち筋の作り方が一種類ではない点にもあります。堅実に点数を積み上げる楽しみもあれば、あえて派手な手を狙って“マンガみたいな勝ち方”をする楽しみもある。危険牌を踏まないために降りるのか、それとも流れに乗って押し切るのか――その判断が、確率計算だけで決まらず、演出や局の空気が背中を押してくる感覚がある。ここが、普通の麻雀ゲームにはない“気分で打てる”部分です。もちろん、好き嫌いは分かれますが、だからこそ本作は「麻雀ゲームは硬い」という印象を崩し、麻雀を娯楽として再発見させる力を持っています。
当時のPCゲームらしい“濃さ”が、作品としての存在感を支えている
1980年代後半のパソコンゲームは、今よりも一本一本の癖が強く、尖った企画が通りやすい時代でした。本作はその空気を象徴するように、「公平さ」より「面白い現象」を優先し、麻雀という題材を使って大胆な味付けをしています。キャラクター、台詞、流れ、評価表示などが一体になって、一本の“卓上劇”として成立している。単なる麻雀の練習ソフトではなく、対局そのものがショーになる。そこが、長く語られる魅力であり、今遊んでも「こういう方向の麻雀ゲームがあっていい」と思わせてくれるポイントです。
■■■■ ゲームの攻略など
この作品の攻略は「牌効率」だけでは完結しない
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』を攻略しようとすると、まず普通の麻雀ゲームと同じ感覚で牌効率・安全度・点数期待値を整えたくなります。もちろん基礎は大事で、役作りの基本、鳴きの得失、リーチ判断、守備の形などができているほど安定します。ですが本作の面白さであり難しさでもあるのは、そこに「ツキ(流れ)」と「キャラクターの癖」が食い込んでくる点です。つまり、同じ手牌でも“この卓では通る選択”と“この卓では通らない選択”が存在しやすい。攻略の方向性は「自分の最善手を打ち続ける」より、「卓の性質を見て、勝ち方を切り替える」へ寄っていきます。麻雀の教科書をそのまま当てはめるのではなく、作品のルールを読み解いて“この世界で勝つ打ち方”を作ることが、最大の攻略ポイントになります。
最初に覚えるべきは「相手の選び方」――難易度は卓作りで決まる
本作は、対局相手の組み合わせでゲーム性が激変します。よって攻略の第一歩は、局面での細かな判断より先に「卓の設計」です。勝ち抜き形式のモードではメンツが固定される場面もありますが、自由に選べる場では、まず“自分が何を練習したいか”で相手を選ぶのが効果的です。 – 安定して勝ちたい:極端に爆発するタイプを減らし、押し引きが読みやすい相手中心にする – ド派手な展開で勝ちたい:波が激しい相手を混ぜ、流れに乗ったときの連荘で一気に持っていく – 自分の守備を鍛えたい:リーチやテンパイが早く、押してくる相手が多い卓にする – 事故耐性を試したい:意味不明な押しや危険な放銃が出やすい相手を入れて“荒れ卓”にする 本作は「強い相手=必ずしも読みが鋭い相手」ではなく、「ツキを握る展開を作りやすい相手」「理不尽に見える上がり方をする相手」が強敵になりがちです。だから、負ける原因を自分のミスと決めつけず、卓の性格に合っていない戦い方をしていないかを疑うのが大切です。
“ツキの波”を読む:連勝中は伸ばし、事故の後は立て直す
本作で勝率を上げたいなら、ツキが乗っているときに「取り切る」意識が重要になります。麻雀では連荘中に無理をせず、堅実に加点するのが正道ですが、このゲームでは波に乗った側がさらに加速しやすい展開になりやすいため、乗っているときは多少強気に押して連荘を伸ばし、点棒差を広げる価値が高いです。逆に、痛い放銃や大きな失点が起きた直後は、流れが切り替わりやすい感触が出るため、「次局すぐ取り返す」より「一回落ち着いて事故を回避する」ことを優先したほうが、長期的に傷が浅くなります。 攻略のコツは単純で、 – 乗っているとき:スピード重視で和了回数を増やす(リーチ・仕掛けの判断を早くする) – 逆風のとき:守備寄りにして“追加の致命傷”を避ける(安全度の高い降りを選ぶ) という切り替えを、意識的に行うことです。勝ち負けの波が大きいゲームほど、この切り替えが効いてきます。
勝ち方の基本は2系統:スピードで回数を取るか、爆発で一撃を狙うか
本作では、勝ち筋が大きく2つに分かれます。 1) **スピード勝ち**:安手でもいいから和了回数を増やし、相手のツキを育てない 2) **爆発勝ち**:一度の高打点で卓の空気を奪い、以降の連荘で押し切る スピード勝ちは、守備とセットで機能します。無理に高い手を追わず、テンパイ優先で局を終わらせる。相手に長考の余地を与えず、ツキの偏りが起きる前に局を畳むイメージです。 爆発勝ちは、ツキが絡むゲームと相性が良い一方で、失敗すると放銃や手詰まりが起きやすい。だから「今の卓は爆発を狙える空気か?」を見極める必要があります。具体的には、場が荒れていてドラが絡みやすい、相手が押しすぎて危険牌を踏む、こちらの配牌が良い、など“乗れる条件”が揃ったときに踏み込むのが安全です。
危険牌読みは「理屈の筋」だけでなく「相手の芸風」を加える
通常の麻雀なら、スジ・壁・ワンチャンス・河の形から危険度を組み立てます。本作でもそれは有効ですが、さらに一段上の攻略として「相手の芸風で危険牌を上書きする」視点が必要になります。つまり、同じ河・同じ状況でも、相手によって“押してくる牌の種類”が違う、という見方です。無謀に押す相手は、普通なら止める牌でも押してくる。派手な手を好む相手は、ドラ周りに執着して危険牌を抱えやすい。鳴きが多い相手は、手役よりスピード優先で読み筋が単純化しやすい……など。 このゲームのCPUは、現代のネット麻雀AIのように完璧に最適化されているわけではありません。だからこそ、相手の癖を掴むと「この状況ならこの牌は切りにくい」「ここは妙に押してくる」などのパターンが見えてきます。危険牌読みを“統計”ではなく“人物読みに近い感覚”へ寄せるのが、本作らしい攻略法です。
指導者(コーチ)の使い方:助言は参考、真価は“打ち方を変える装置”
指導者を付ける場合、最初は助言をそのまま採用して試すのが分かりやすいです。ただし、常に従う必要はありません。むしろ攻略としては「助言が示している価値観」を読み取り、自分の打ち方を調整するのが大事です。 – 面前重視の助言が多い:鳴きを減らしてリーチ主体の勝ち筋に寄せる – 仕掛け寄りの助言が多い:スピード勝ちを狙い、局を短くする – 無茶な助言が多い:その卓は荒れやすい可能性が高いので、守備意識を上げる “この指導者はこういう麻雀を推す”と理解できるようになると、助言が単なる正誤ではなく、卓の空気を読むヒントになります。攻略情報としての価値が一段上がります。
難易度の正体は「理不尽」ではなく「波への適応不足」
初見プレイで負けが込むと、「相手の上がりが露骨」「どうにもならない」と感じやすいタイプのゲームです。しかし、勝ち始めると評価が変わりやすい。なぜなら本作では、波に乗った側が勝ちやすい一方で、波を切り替えるきっかけも用意されているからです。無理押しで放銃して流れを渡してしまうのが最悪で、逆に言えば「致命傷だけ避ける」だけで負け方がかなり改善します。 具体的な対策は、 – 連荘されているときは“親を流す”ことを最優先 – テンパイしても状況が悪ければ降りを選ぶ(特に逆風時) – 自分が勝っているときは、守りすぎず局を取り切る(中途半端な押し引きが一番危険) この3点を徹底するだけで、体感難易度が大きく下がります。
裏技的な楽しみ方:勝ちを目的にしない“卓鑑賞”で学ぶ
攻略の近道として、あえて勝敗を捨てて「この相手は何をすると強いか」を観察する遊び方が有効です。フリー対局でメンツを固定し、数局分だけ“観戦気分”で回す。すると、押し引きの癖、鳴きの傾向、リーチタイミング、放銃パターンが見えてきます。その上で自分が混ざって打つと、「この相手はここで止まらない」「ここで危険牌を抱えやすい」など、実戦的な対策が立てやすくなる。 本作はキャラが主役なので、相手研究がそのまま攻略になります。麻雀ゲームの攻略で「相手の性格を覚える」ことが最適解になるのは珍しく、ここが本作の面白いところです。
■■■■ 感想や評判
当時の麻雀ゲームとして「正しいか」より「記憶に残るか」で勝った作品
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』の評判を語るとき、最初に出てくるのは「普通の麻雀ゲームとは違う」という感想です。これは褒め言葉にも不満にもなり得ますが、少なくとも“忘れにくい麻雀ゲーム”だったのは間違いありません。1980年代のパソコン麻雀は、ルールの再現や役の網羅、操作の手堅さなどを前面に出すタイトルが多く、対局体験が淡々としやすい傾向がありました。その中で本作は、対局のたびに空気が変わり、勝ち方や負け方が派手に記憶へ刺さる。「ちゃんと麻雀をしたい人」よりも、「麻雀で起きるドラマを浴びたい人」に強く支持されたタイプと言えます。だからこそ、ハマる人はとことんハマり、合わない人は距離を置く――評価が分かれる構造そのものが、このゲームの“個性の強さ”を証明しています。
肯定派の感想:キャラが動く、卓が騒ぐ、勝負が漫画になる
肯定的な反応で多いのは、「キャラクターが麻雀をしている感じがする」という点です。一般的な麻雀ゲームでは、CPUは強弱の差はあっても“人間味”が薄く、打牌は合理的でも印象が残りにくいことがあります。本作の場合、台詞や表情、押し引きの癖、局の流れ方が合わさって、相手が“人格”として立ち上がりやすい。その結果、プレイヤーは「この相手に負けたくない」「あいつが調子に乗っている」「今のは腹が立つけど、それっぽい」と感情を揺さぶられます。麻雀ゲームとして冷静でいられないことが、むしろ面白さになっている。 また、対局の展開が漫画的に派手になりやすい点も好評です。連荘、逆転、突然の爆発、意味不明な事故など、普通の確率麻雀なら「そんなに頻繁には起きない」出来事が、ここでは“起きる前提の娯楽”として成立している。だから、上手い打ち手が理詰めで勝つ快感とは別に、「何が起きるかわからない卓を制した」という別種の達成感が得られます。
肯定派の感想:麻雀ゲームなのに“対戦相手を語れる”のが強い
このゲームを好きな人ほど、点数や役ではなく「相手キャラの話」をします。どのキャラが厄介だとか、どの組み合わせの卓が地獄だとか、誰を混ぜると急に荒れるだとか。麻雀ゲームの思い出が“対局内容”より“対戦相手”に寄るのは珍しいことです。これは、CPUが単なる強さの差ではなく、打ち筋や展開の性格として差別化されているから起きます。プレイヤー間で「そのキャラはそうなるよな」という共通認識が生まれやすく、攻略談義が“麻雀の理論”というより“キャラ論”に寄って盛り上がる。キャラゲーとしての完成度が高い、という評判はこの部分から来ています。
肯定派の感想:音や台詞の賑やかさが、当時のPC卓を“舞台”にした
当時のパソコンゲーム環境では、静的な画面と淡々としたテキストが主流になりがちでした。その中で、宣言や掛け声、台詞の応酬があると、対局が急に“舞台”になります。音声や効果音の質そのものは時代相応でも、「ある」ことが重要で、場の温度を上げる効果が大きい。実際の麻雀卓で交わされる雑談や煽り合いに近い空気が出て、勝負が“ゲームっぽい作業”から“卓遊び”へ変化する。そういう体験が新鮮で、当時遊んだ人の記憶に残りやすかったという声につながります。
否定派の感想:理不尽に感じるほど“流れ”が強く、腕前が反映されにくい
一方で不満として挙げられやすいのが、「納得しづらい負け方」をすることです。麻雀は元々運の比重が大きいとはいえ、ゲームとしては“自分の選択が報われる”感覚が欲しい。本作はそこを意図的にずらしており、流れが悪い局面では、手を作っても届かない、守っていても踏まされる、相手が止まらない、といった感触が出やすい。すると、理詰めで打ちたい人ほどストレスを感じます。 また、CPUの強さが高度な読みや精密な押し引きというより、「勢いに乗ったときの加速」や「キャラ特性による展開」の比率が大きく見えるため、現代的な意味での“麻雀AI対決”を期待すると物足りない、という評価にもつながります。上手い人ほど、「ツキを切って実力勝負に寄せたい」と思う局面が増え、逆に初心者は「何が起きたかわからないけど負けた」になりやすい。この温度差が、賛否の分かれ目になります。
否定派の感想:クセが強く、麻雀の練習には向かない
麻雀を覚える目的で麻雀ゲームを探す人にとって、本作は必ずしも相性が良いとは言えません。役や点数計算の学習、守備の感覚を磨く、といった“基礎練習”に特化した作りではないからです。勝つための最短距離が、牌効率よりも卓の性格理解や波への対応に寄ってしまう。すると「麻雀が上達した」というより「このゲームが上達した」という感触になりやすい。ここが、教科書的な麻雀ゲームを求める層の不満につながります。ただし逆に言えば、練習ではなく“娯楽として麻雀を遊ぶ”という目的なら、これ以上なく向いているタイトルでもあります。
雑誌・ユーザー間での語られ方:強い個性が、話題性を生み続けた
当時のパソコンゲーム文化は、友人同士や雑誌、同人・ユーザーコミュニティで「このゲームは何がすごいか」を語ることで熱が育ちやすい環境でした。本作はまさにそのタイプで、遊んだ人が“内容を説明したくなる”要素を大量に持っています。 – キャラの異常な勝ち方・負け方 – 卓の流れが急変する瞬間 – 台詞や表情のクセ – 変な意味で強い/弱い相手 こうした話題が尽きないため、麻雀ゲームの中でも“語られて残る”側に入りやすかった。結果として、移植や後続展開への期待も生まれ、シリーズ的な広がりを支える土壌になった、という見方ができます。
総合評価としての評判:名作というより“名物”、刺さる人には唯一無二
総評としての世間の評価は、「麻雀ゲームの定番」ではなく「麻雀ゲームの異端」寄りです。しかし異端だからこそ、他に代わりがない。キャラゲーとして、麻雀ゲームとして、そして当時のパソコンゲームらしい尖りとして、唯一無二の位置にいます。 肯定派は「麻雀の面白さは確率だけじゃない」と言い、否定派は「それは麻雀じゃなくて演出だ」と言う。どちらの言い分も成立するほど、方向性が明確です。だから本作の評判は、点数表では測りにくい。卓の空気に笑えて、負けても“事件”として記憶に残る――そういう体験を求める人にとっては、今でも価値のある作品として語られ続けるタイプのゲームです。
■■■■ 良かったところ
キャラクター麻雀を“絵や台詞”ではなく“展開”で成立させたこと
本作の良さを語るときに外せないのは、キャラクターの個性が単なる飾りではなく、対局の流れそのものに溶け込んでいる点です。普通のキャラゲーは、顔グラフィックや掛け声、勝利台詞などで「それっぽさ」を演出します。しかし『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は、それに加えて“勝ち方・負け方の癖”がキャラごとに強く出るよう作られており、卓上で起きる事件がそのまま人物像の説明になっています。序盤から押してくる、変な鳴きをする、突然とんでもない上がりを連発する、逆に一度崩れると止まらない――こうした局の動きが、キャラの性格として体感できる。結果として、プレイヤーは説明書を読まなくても「この相手は危ない」「あいつが乗ると面倒」と理解していきます。麻雀というルールのゲームで、人格を“プレイ体験”として伝えたこと自体が大きな評価点です。
「ツキ」を肯定し、ゲームの仕様として割り切った潔さ
麻雀ゲームにおいて“運”をどう扱うかは永遠のテーマです。運の偏りを隠して公平さを演出する作品もあれば、確率の結果として淡々と受け止めさせる作品もあります。本作の良いところは、そこに曖昧さを残さず、「流れを感じる麻雀」をゲームとして成立させる方向へ思い切って舵を切った点です。勝っている側がさらに伸び、失点が流れを切るきっかけになるような感触があるため、対局には明確な起伏が生まれます。この起伏が、麻雀漫画の“波”を思わせるドラマを作り、プレイヤーの記憶に強く残る。公平さ一点張りでは生まれにくい快感――連荘で卓を支配する気持ちよさ、逆転を食らったときの悔しさ、流れを取り返したときのカタルシス――を、ゲームの骨格として提供しているのが良さです。好き嫌いは分かれても、狙いがブレないことは作品の強さになります。
相手選びが面白い――対局前から遊びが始まっている
良かった点として地味に大きいのが、「メンツを選ぶ」という行為が遊びとして機能しているところです。麻雀ゲームの相手選択は、難易度の段階を決めるだけになりがちですが、本作では“卓の性格”を作る作業になります。堅めの相手を揃えれば読み合いが濃くなり、クセの強い相手を混ぜれば展開が荒れる。つまり、同じモードでも組み合わせ次第で別の遊びになる。これは繰り返し遊ぶうえでの武器で、単発のクリアで終わらないリプレイ性を生みます。「今日は荒れ卓で笑いたい」「今日は真面目に勝ちたい」と気分に合わせて遊びを切り替えられるのは、長く愛される条件の一つです。
台詞・表情・テンポが、卓の温度を上げる“演出の三点セット”になっている
当時のパソコン麻雀は淡々とした進行になりやすく、プレイヤーの集中が切れると作業感が出やすいジャンルでした。本作はそこを、台詞と表情変化で埋めています。対局中の一言があるだけで、同じ放銃でも悔しさが増すし、同じ和了でも勝った快感が強くなる。さらに、表情が変わることで「今相手がイキってる」「今こちらが追い詰められている」と感情の地図が視覚化されます。テンポ面でも、局が動く瞬間が派手になりやすい設計と相性が良く、間延びしにくい。結果として、麻雀という“考える時間が長い”ゲームでありながら、見せ場が多い。これは、プレイ体験の満足度を底上げする重要な良さです。
勝敗以外の楽しみがある――「タコ度」など“オチ”が付く構造
麻雀ゲームの結果画面は、点棒と順位が並んで終わるだけになりがちです。本作はそこに、プレイの内容を別視点で評価するような“オチ”を用意し、対局を締める味付けにしています。これがあると、勝った負けたとは別に「今日はひどい打ち方をした」「変な勝ち方をした」「事故りすぎた」などが笑いに変わりやすく、ゲームとしての後味が良くなる。麻雀は負けが続くと気分が沈みがちですが、結果にギャグの余韻が残ることで、次の対局に気持ちを持っていきやすい。娯楽としての麻雀に必要な“救い”を仕組みで用意している点が、良かったところです。
現代基準のAIではなく、当時のPCゲームらしい“癖”が魅力になっている
現代の麻雀ゲームは、AIが強く、打牌も合理的で、勝負としての硬派さが売りになりがちです。本作はその逆で、合理性よりキャラの面白さを優先しています。だから、完璧な読み合いを求める人には物足りない一方で、「麻雀を題材にした娯楽作品」としての魅力が際立つ。CPUの賢さが最適解に寄りすぎない分、相手の癖が見えやすく、対策も立てやすい。負けても「なるほど、あいつはそういう勝ち方をするのか」と納得できる負け方になりやすい。麻雀の練習ソフトではなく、麻雀を使った“キャラ劇場”として完成しているところが、良かった点として多く挙げられる理由です。
シリーズ的な広がりの土台になった“最初の一発”としての価値
本作は、キャラクター麻雀という方向性を強く印象付けた“最初の一発”としての価値もあります。後続作品が増えていくジャンルでは、最初に「こういう遊び方ができる」と提示したタイトルが語り継がれやすい。本作は、麻雀の世界にキャラ性を持ち込み、台詞と流れで卓を演出し、勝敗以外の楽しみ方を作った。こうした要素は、後のキャラ麻雀的な発想へ繋がっていきます。単体の面白さに加えて、「当時としての新しさ」「語られ方の強さ」が評価されるのは、この“土台を作った”側の存在感が大きいからです。
まとめると:尖っているのに、遊びの芯がはっきりしている
良かったところを総合すると、本作は“尖り”が目的ではなく、“原作の面白さを麻雀ゲームで再現する”という芯があり、そのための仕掛けが一貫している点が強みです。キャラが立つ、流れが動く、卓がドラマになる、負けても話になる。麻雀ゲームとしての正統性より、麻雀を題材にした娯楽としての完成度を優先したことで、今でも「こういう麻雀ゲームが好きだった」と思い出されるタイプの作品になっています。
■■■■ 悪かったところ
「ツキ」の存在が強すぎて、納得感を失う瞬間がある
本作の長所でもある“流れ”の強さは、そのまま短所にもなります。波に乗った側が加速しやすい作りは、勝っているときは最高に気持ちいい反面、負けているときに「どうにもならない感」を生みやすい。特に、丁寧に手を作り、危険牌を避け、理屈の通った押し引きをしているつもりでも、結果が一方的に崩れていくと、プレイヤーは自分の選択が無意味になったように感じます。麻雀は元来運が絡むゲームとはいえ、ゲームとしては「正しく打てば少しは報われる」体験が欲しい。本作はそこを娯楽方向へ振り切っているため、真面目に勝負したい人ほど、理不尽に感じる場面が出やすいのが欠点です。
対局の強さが“読みの鋭さ”より“展開の偏り”に見えやすい
現代の麻雀AI的な視点で見ると、本作のCPUは「手牌効率の最適化」や「押し引きの精密さ」で圧倒してくるタイプではありません。むしろ、相手の強さが“展開の偏り”や“キャラ特性の出方”として体感されやすい。そのため、負けたときに「自分が読み負けた」より「相手の上がり方が露骨だった」と感じることがあります。これはキャラゲーとしては正解でも、麻雀ゲームとしての競技性を期待した場合には不満になりやすい。強い相手に対して「勉強になる」というより「ひどい目に遭う」印象が先に立つと、継続プレイの動機が削られてしまうことがあります。
キャラクター差が大きく、卓の当たり外れが激しい
本作は相手選びが面白い反面、組み合わせ次第で極端に遊びやすさが変わります。面白い卓はとことん面白いのに、噛み合わない卓はストレスが増える。たとえば、荒れやすい相手を複数入れた場合、局が早いテンパイと押しの連続になって、こちらが手を整える余裕が減り、放銃しやすい空気になることがあります。逆に堅い相手ばかりだと、読み合いはできても“派手さ”が薄れ、本作らしさが出にくい。つまり、プレイヤーが求める遊び方とメンツ構成がズレると、「このゲーム面白いはずなのにしんどい」になりやすい。良くも悪くも卓の味付けが強烈で、万人向けの安定した体験にはなりにくい点が弱みです。
初心者が「麻雀を覚える」用途には向きにくい
麻雀ゲームを入門用に遊ぶ場合、重要なのは“なぜそう打つのか”が理解でき、同じ判断が別の局面でも通用することです。本作は、局面の理解より「流れ」「キャラの癖」「卓の空気」による判断が効きやすいので、麻雀の普遍的な基礎を学ぶには遠回りになりがちです。勝てた理由が、牌効率や守備の適切さではなく「たまたま波に乗った」になってしまうと、学習としての手応えが薄い。逆に負けた理由も「波が悪かった」になりやすく、反省点が掴みにくい。麻雀の練習ソフトとしての有用性より、娯楽としての面白さが前に出るぶん、初心者が体系的に上達する目的には向きにくいという欠点があります。
演出の濃さが、人によっては“くどさ”になる
台詞やリアクション、表情変化が多いことは魅力でもありますが、静かに打ちたい人には邪魔に感じることがあります。麻雀は集中して打ちたいゲームでもあるため、演出が頻繁に入るほど、テンポ良さと集中のしやすさがトレードオフになります。賑やかな卓が好きな人には最高でも、落ち着いた対局を求める人には“くどい”“騒がしい”と受け取られやすい。特に、同じ演出や台詞を繰り返し見ることになると、初見の面白さが薄れた後にノイズとして残る可能性があります。
機種差・環境差で、遊びやすさの印象が変わりやすい
当時のパソコンゲームは、ハードごとの性能や音源環境によって体験が変わりやすい時代でした。本作も例外ではなく、音の出方、演出の印象、ロードやレスポンスなどが、機種や環境で変化しやすいタイプの作品だと言えます。結果として、同じ作品を遊んでも「こっちは快適で楽しい」「こっちは少しもっさりして印象が落ちる」といった評価の揺れが起きやすい。移植が多い作品ほど、どの版で遊んだかが感想を左右しやすく、評判が一枚岩になりにくい点は弱みになります。
“強いキャラ”が強すぎて、対策が追いつく前に折られることがある
キャラ麻雀の宿命として、派手な勝ち方をするキャラは「理不尽なほど強い」印象を作りやすいです。本作でも、波に乗った相手が短い時間で試合を決めてしまうことがあり、対策を考える余地が薄くなる局面が出ます。もちろん、慣れてくると「今は降りる」「親を流す」「無茶をしない」といった対処で被害を減らせますが、そこに至るまでが大変。初見では“見せ場”がそのまま“詰み”に見えてしまい、「面白い以前に勝負にならない」と感じる人が出るのは欠点です。派手な演出=派手な理不尽に見える、という構造があるため、好き嫌いが分かれやすいポイントになります。
総括:短所はすべて“方向性の強さ”から生まれている
悪かったところをまとめると、本作の欠点は、ほとんどが「キャラと流れを優先する」という方針の裏返しです。公平性や学習用途、競技性を重視する人には向きにくい。一方で、その割り切りがあるからこそ、他の麻雀ゲームにはない味が出ています。つまり短所は“作りが雑だから”というより、“狙いが尖っているから”起きるものが多い。そこを理解して入ると、欠点に感じる部分も「こういうゲームだから」と納得しやすくなり、作品の楽しみ方が見えてきます。
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■ 好きなキャラクター
“強い/弱い”ではなく「卓の空気を変える人」が人気になりやすい
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』で語られる「好きなキャラクター」は、単なる性能評価に留まりません。麻雀ゲームでは普通、勝ちやすい相手・勝ちやすい自キャラが人気になりがちですが、本作は“卓の出来事”そのものが娯楽なので、「面白い局を作る人」「展開を壊す人」「台詞と振る舞いが濃い人」が強く印象に残ります。勝たせてくれるから好き、ではなく、勝っても負けても“話ができる”から好き。そういう観点で語られるのが本作らしさです。以下では、プレイヤーが好きになりやすいタイプをいくつかの軸に分けて、どこが刺さるのかを整理します(どのキャラが当たりかは、遊んだ版や卓の組み合わせでも印象が変わる、という前提で読んでください)。
1) 「必殺技めいた勝ち方」をするタイプ:見せ場の塊で人気が出る
一番わかりやすく人気が出るのは、勝ち方が派手で“事件”を起こすタイプです。テンパイがやたら早く、強引にリーチして、短い巡目でツモってしまう。あるいは、ここぞという瞬間に大物手を引き当て、卓の点棒状況をひっくり返す。こういうキャラは、対局が始まるだけで「今日は何が起きるんだろう」という期待を作ります。 好きになる理由は単純で、見ていて気持ちいいからです。自分がそのキャラに乗れる側の展開になったとき、連荘で卓を支配する快感が強い。逆に相手に回ったときも、負けた悔しさが“語れる悔しさ”になる。嫌われることもありますが、それ以上に「名物」として愛されやすい枠です。
2) 「負け方が面白い」タイプ:負けても笑える、だから好きになる
本作の面白いところは、勝つキャラだけでなく、負け方に味があるキャラが記憶に残る点です。無謀な押しで自滅したり、意味不明な鳴きで手が崩壊したり、チョンボのような“やらかし”を連想させる動きで場を荒らしたり。普通の麻雀ゲームならストレス要因ですが、ここではギャグの文脈があるため、「またやってる」「そうなるよな」と笑える方向に転びやすい。 好きになる理由は、卓が硬くならないからです。麻雀は真面目にやると空気が重くなりがちですが、こういうキャラがいると、卓が“遊び”に戻る。勝敗より、場の楽しさを優先するプレイヤーほど、こうした“タコい”キャラを好みやすい傾向があります。
3) 「読み合いができる」タイプ:地味だが、長く遊ぶほど好感が増す
派手なキャラが目立つ一方で、長く遊ぶと評価が上がりやすいのが、比較的まともに麻雀をしてくるタイプです。鳴きが極端ではなく、危険牌を抱えたら止まり、手が育つまで我慢し、局面に応じて押し引きを変える。こういうキャラは初見では印象が薄いかもしれませんが、対局を重ねると「この相手はちゃんと戦ってくれる」と感じられてくる。 好きになる理由は、勝負の納得感です。派手なツモで粉砕されるより、読み合いで負けたほうがスッキリする、という人に刺さります。本作を“キャラゲーとして”だけでなく“麻雀ゲームとして”楽しみたい層にとって、こうしたキャラは卓の骨格になり、結果的に愛着が湧きやすい存在になります。
4) 「台詞とリアクションが濃い」タイプ:プレイ体験が“漫才”になる
キャラの人気は、麻雀の強弱とは別に、台詞やリアクションの好みでも決まります。勝ったときの煽り、負けたときの崩れ方、妙に自信満々な宣言、何を根拠に言ってるのかわからない強気発言など、言動が濃いキャラほど「卓が賑やかになる」ため人気が出やすい。 好きになる理由は、対局が退屈しないからです。麻雀は手が悪い局が続くと間が持ちにくいですが、台詞があるだけで“見どころ”が増える。特に、フリー対局でわざと濃いキャラを集めると、勝敗よりも台詞の応酬を楽しむ遊び方が成立します。この「卓を劇場にする」方向性にハマると、台詞が刺さるキャラが推しになりやすいです。
5) 「指導者にすると面白い」タイプ:自分の麻雀が変質するのが快感
指導者(コーチ)枠で好きになるキャラもいます。助言が役に立つかどうか以上に、「そのキャラの価値観で麻雀を打たされる」のが面白いからです。面前派の指導者にすると鳴きが減り、仕掛け派にすると局が短くなり、無茶な指導者にすると押しの快感が増える(そして事故も増える)。 好きになる理由は、自分が別人格になれるからです。上手い人ほど、普段の打ち方が固まっているので、あえて“違う打ち方”をさせられるのが新鮮になります。勝つためだけでなく、麻雀の楽しみ方を増やす道具として、指導者キャラへの愛着が生まれやすいのが本作の面白いところです。
人気の出方の傾向:結局「語れるキャラ」が強い
本作で好きなキャラが決まる瞬間は、たいてい“事件”の直後です。あり得ない上がり、信じられない放銃、妙な連荘、突然の逆転。そういう出来事が起きたとき、プレイヤーは相手や自分のキャラに感情を結び付けます。「あいつ許さない」「でも好き」「また卓に呼びたい」。この感情の揺れが、そのまま推しの誕生になります。 だから、人気が出やすいのは「勝ちやすいキャラ」より「卓を動かすキャラ」。勝敗を競うだけの麻雀ゲームなら性能が正義になりますが、本作は“卓のドラマ”が正義です。プレイヤーによって推しが割れやすいのは欠点ではなく、むしろそれだけキャラが立っている証拠だと言えます。
まとめ:推しを決めるのが、このゲームの遊びの一部
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』のキャラクターは、攻略対象であると同時に、卓を面白くする装置でもあります。強いから好き、弱いから嫌い、ではなく、勝っても負けても印象に残るから好き。台詞が刺さるから好き。指導者にすると自分が変わるから好き。そういう“麻雀以外の理由”で推しが増えていくのが、本作の楽しさです。フリー対局で推し卓を作り、勝敗より「今日はどんな事件が起きたか」を語る――その遊び方こそが、このタイトルの魅力を一番濃く味わえるスタイルだと思います。
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●対応パソコンによる違いなど
まず押さえたい全体像:同じ“自己中心派”でも、遊び心地は環境で変わる
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は、根っこの部分(4人打ち麻雀+キャラクターの個性+ツキを強く意識した設計)は共通している一方で、当時のパソコン事情がそのまま体験差になります。というのも80年代後半の各機種は、画面の色数や解像度、標準音源、メディア形態(FD/ROMなど)、入力周りの作法がそれぞれ違い、同じゲームデザインでも「テンポ」「賑やかさ」「見栄え」「気持ちよさ」の印象がズレやすいからです。加えて本作は“台詞・効果音・雰囲気”が面白さに直結するタイプなので、音源環境の差が満足度を大きく左右します。ゲームアーツ自身も、FM音源を積極的に使い、さらに宣言音声(合成音声)まで含めて“卓の騒がしさ”を作る方向性を明言しており、ここが機種差の中心になります。
PC-8801版:出発点は“PC麻雀にキャラ劇場を持ち込む”発想
最初に出たのがPC-88系列で、その後に他機種へ広がっていった流れが語られています。 PC-88版の軸は、キャラクターが局面や点差を見ながら「早上がりか役狙いか」「リーチかダマか」「降りるか勝負するか」といった方針を個性に沿って選ぶ点にあります。ここに“ツキ”という概念が絡むことで、理屈だけでは説明し切れない“漫画っぽい波”が生まれやすい。さらに、効果音やBGMだけでなく、宣言に合成音声を使って卓の温度を上げる作りが特徴です。 操作や見せ方も含めて、PC-88版は「自己中心派ってこういう空気だよね」という核を立ち上げる役割が強く、以降の移植版はこの核をどこまで保ちつつ、その機種の得意分野(色・音・テンポ)で伸ばすか、という方向になりやすいです。
PC-9801版:見栄えと快適さを伸ばしやすい土壌、ただし“シリーズの区切り”もある
PC-98はビジネス機の印象が強い一方、ゲーム用途でも非常に厚い市場があり、画面表現や操作性の面で“遊びやすさ”を底上げしやすい環境でした。実際、PC-98向けとして商品単位でも流通しており、同じタイトルがPC-88から別系統の定番機へ移っていったことが分かります。 また、シリーズ全体の括りで見ると、PC-98側はある時点までの作品が中心になった、という整理も見られます。 本作単体の体験としては、「文字が見やすい」「卓の情報が把握しやすい」「対局のテンポが落ちにくい」といった方向で評価されやすく、キャラの表情や台詞を追う楽しさとも相性が良い、というのがPC-98版に期待される美点です(当時の環境差がそのまま快適さに効く、という意味で)。
MSX/MSX2版:ROM作品らしい扱いやすさ+独自の“顔”が付いた版
MSX版は、同じ内容でも“見せ方”に独自の色があり、起動すると持杉ドラ夫を前面に出したタイトル画面になっている点が紹介されています。さらにMSXとMSX2では色味などの印象差がありつつ、基本的な構成は近い、という語られ方です。 またMSX側は、ROM(カートリッジ)で供給され、MSX1/2で動作するタイトルとしてデータ化されている例もあります。 本作に限らずMSXは「刺せばすぐ遊べる」方向の強みがあり、ディスクの入れ替えや起動手順の癖が少ないぶん、短い時間でも対局に入りやすい。自己中心派のように“卓のテンション”が面白さになるゲームだと、遊び始めまでの段差が低いこと自体が価値になります。 そしてMSX版の語られ方で重要なのが“音”です。MSXは標準音源だけだと賑やかさが頭打ちになりやすい一方、FM音源拡張(FM-PACなど)によって演出の濃さが増し、作品の狙いに近づきやすい。実際、CSM系の音声合成を含む「声が出る」方向性が、この時期の展開の特徴として触れられています。 結果としてMSX版は、手軽さと“独自の顔(ドラ夫の押し出し)”がセットになった、いわば家庭的な自己中心派になりやすい版です。
X1版:移植の流れには乗ったが、音声面は割り切りがある
PC-88の後にX1版が出た、という移植順の説明があり、X1も“自己中心派が広がった先”の一つとして位置付けられます。 一方で、対局中の宣言ボイスの扱いに関しては、X1は非対応で、他機種ではFM音源が前提になりやすい、という整理も見られます。 ここが体験差として効くのは、本作が「麻雀の手堅さ」より「卓の賑やかさ」「キャラの圧」を面白さにしているからです。ボイスが減る(あるいは無い)と、同じ放銃でも“事件感”が薄れ、台詞の勢いで笑わせる力が一段落ちる。逆に言えば、静かに集中して打ちたい人には“ちょうどいい自己中心派”になる可能性もあり、X1版は好みが分かれやすい立ち位置になります。
FM-7版:出たこと自体が意味を持つが、シリーズ展開の面では制約が出やすい
FM-7版も、PC-88→X1→FM-7という順で発売された流れの中に含まれています。 ただしシリーズ全体の視点では、FM-7側は展開が限定的だった、という語られ方もあり、後の作品や追加要素を追いたい人は別機種に手を伸ばす必要が出た、という文脈で触れられています。 本作単体としては、FM-7ユーザーが「自己中心派の空気」を自分の環境で味わえること自体が大きな価値で、当時の機種別文化の中では“自分のマシンにも来た”という喜びが強かったタイプです。逆に、シリーズを追う遊び方(キャラ増加やモード追加を延々遊ぶ)を期待すると、機種間でギャップを感じやすい——この“追い方の差”が、FM-7版が語られるときのポイントになりがちです。
結論としての「機種差」:同じ卓でも、賑やかさの段数が変わる
整理すると、PC-88系は本作の核(キャラの個性+ツキ+賑やかさ)を立ち上げた原点で、MSX系はROMならではの手軽さに独自の顔が乗り、PC-98系は情報把握や快適さで“遊びやすさ”を伸ばしやすい。X1はボイス周りの割り切りがあり、FM-7は“自分の機種で遊べる価値”が際立つ一方でシリーズ追随の面で差が出やすい。ボイスが絡む機種ではFM音源が前提になりやすく、逆にX1はそこが削がれる、という整理は象徴的です。 だから本作は「どの版が上か」ではなく、「自分が何を楽しみたいか(賑やかに笑いたいのか、静かに打ちたいのか、快適さを重視するのか)」で選び方が変わるタイプの作品です。同じ“自己中心派”でも、卓の温度が環境で変わる——そこが、複数機種展開されたこのタイトルの一番わかりやすい違いです。
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●同時期に発売されたゲームなど
★イース(PC-8801/SR)
・販売会社:日本ファルコム ・販売された年:1987年 ・販売価格:7,800円 ・具体的なゲーム内容:赤毛の冒険家アドルを操作し、町で情報を集め、フィールドを歩き、ダンジョンを踏破していくアクションRPG。コマンド入力中心だった当時のRPGに対して、移動そのものが戦闘につながる“体当たり”方式を軸に据え、戦闘の手触りを軽くしながらレベルアップの快感を濃縮しているのがポイント。敵に真正面からぶつかるだけではダメージが増え、少し角度を付けて当てると有利になるなど、単純な仕組みの中に「慣れで上達する余地」がある。さらに探索も一本道にせず、装備更新・鍵・イベントを細かく挟んで“次の一歩”を作り続けるため、遊んでいる間ずっとテンポが落ちにくい。物語面でも、古代文明の痕跡を拾い集めるように進行し、断片が終盤で繋がる構成が強い引力になっている。
★ソーサリアン(PC-8801/SR)
・販売会社:日本ファルコム ・販売された年:1987年 ・販売価格:9,800円 ・具体的なゲーム内容:“一本の大作RPG”というより、複数の冒険(シナリオ)を選んで遊び、稼いだ経験や装備を持ち帰って次へ挑む「箱庭+短編の集合体」に近い設計が特徴。プレイヤーはパーティを作り、酒場のような拠点を起点に各シナリオへ出撃する。シナリオはそれぞれ手触りが違い、探索が中心の回、罠や謎で追い詰められる回、短い時間で勝負が付く回など、一本調子にならない。さらに職業・魔法・成長の組み合わせが膨大で、同じシナリオでも編成が変わると攻略の“常識”が入れ替わるのが面白い。遊び込むほど「自分のパーティ史」が積み重なり、冒険譚が自然に生まれていくタイプのRPGだ。
★シルフィード(PC-8801mkIISR以降)
・販売会社:ゲームアーツ ・販売された年:1986年 ・販売価格:6,800円 ・具体的なゲーム内容:縦スクロールのシューティングに“擬似3D”の見せ方を持ち込み、当時のPCゲームで「映像で驚かせる」方向性を強く打ち出した作品。背景がただ流れるだけでなく、奥行きや速度差を感じさせる演出で、プレイヤーは宇宙空間を高速で切り裂いている気分になれる。ゲーム性自体は、撃つ・避ける・パワーアップという骨格が明快で、ステージごとに敵配置と弾幕のリズムを変え、緊張と解放を繰り返す作り。難しさはあるが、理不尽に圧殺するより「パターン化して勝てる」寄りで、繰り返し遊ぶほど上達が見えてくる。作品全体にSF映画的な雰囲気があり、BGMと演出が合わさった“気分の良さ”が、当時のPCユーザーに強い印象を残した。
★ザナドゥ シナリオII(PC-8801)
・販売会社:日本ファルコム ・販売された年:1986年 ・販売価格:5,800円 ・具体的なゲーム内容:前作『ザナドゥ』のシステムを土台にした追加シナリオ的な位置付けで、前作のディスクが必要になるという“拡張”らしい成り立ちを持つ。内容は、迷宮探索・装備更新・資金繰り・リスク管理をさらに尖らせた高難度寄り。序盤からいきなり厳しい地形や敵配置で、無策に突っ込むとあっさり詰むが、道具の使い方・安全な稼ぎ方・危険地帯の見極めを覚えると一気に攻略の輪郭が見えてくる。つまり、腕前よりも「知っているかどうか」が強く効くタイプで、当時のPCゲームらしい“攻略している実感”が濃い。マップを自力で把握し、試行錯誤で突破口を作る過程がそのまま娯楽になっている。
★信長の野望・全国版(PC-8801ほか)
・販売会社:光栄(コーエー) ・販売された年:1986年(PC版) ・販売価格:9,800円 ・具体的なゲーム内容:戦国大名となって内政と軍事を回し、外交と合戦で版図を広げ、最終的に全国統一を目指す歴史シミュレーション。単に兵を集めて殴り合うのではなく、米・金・兵糧・民忠といった数字が連鎖し、内政を怠れば反乱や弱体化で自滅し、合戦に偏れば国力が干上がる。この“国家運営の循環”が面白さの中心だ。さらに複数勢力が同時に動くため、こちらの手番だけで世界が止まらず、同盟・裏切り・周辺国の伸長が状況を絶えず変える。勝ち筋は一つではなく、地盤を固めて堅実に伸びる道もあれば、電撃戦で流れを掴んで一気に畳む道もある。プレイするたびに違う戦国史が立ち上がる“リプレイ性”の高さが、当時の定番として支持された理由になる。
★J.E.S.U.S.(PC-8801mkIISR以降)
・販売会社:エニックス ・販売された年:1987年 ・販売価格:7,800円(資料によって税表記等で差が出ることあり) ・具体的なゲーム内容:謎解きの難問で詰ませるというより、ストーリーの推進力で読ませ、追わせる方向に舵を切ったSFアドベンチャー。事件の輪郭を掴むために現場を調べ、会話で情報をつなぎ、次の目的地へ向かう――この“捜査の流れ”が途切れにくく、テンポよく物語が進むのが特徴だ。宇宙や近未来の冷たい空気をまといながら、登場人物の心理や人間関係にも焦点を当て、状況が転がるたびにプレイヤーの疑念が更新される。コマンド選択式の枠の中で、演出(文章の見せ方や場面転換)を工夫して「自分が事件の中にいる」感覚を作ろうとしているのが肝。ADVが“パズルの壁”で評価されがちだった時代に、物語体験を前に出した代表格として語られやすい。
★上海(PC-8801/SR)
・販売会社:システムソフト ・販売された年:1987年 ・販売価格:6,500円 ・具体的なゲーム内容:麻雀牌を積み上げた山から、左右が空いている同種の牌をペアで取り除いていくパズル。ルールは極端に単純なのに、取り順の判断がそのまま終盤の詰み/解放に直結し、短い時間で「読み」と「反省」が回るのが強みだ。序盤は選択肢が多く気楽に取れるが、安易に取ると中盤以降に“孤立牌”が残り、手詰まりの気配がじわじわ迫ってくる。この緊張感が独特で、派手な演出がなくても集中が続く。さらに盤面パターン(配置)次第で性格が変わり、直感型で進める楽しさと、慎重に未来を見て取る楽しさの両方を持つ。アクションやRPGの合間に挟める“もう一局”感があり、当時のPCユーザーの定番パズルとして浸透していった。
★OGRE(オーガ)(PC-8801/SR)
・販売会社:システムソフト ・販売された年:1987年 ・販売価格:6,800円 ・具体的なゲーム内容:近未来戦を題材に、巨大戦車(オーガ)を止める側と、オーガを操る側がぶつかるボードゲーム的な戦術シミュレーション。ユニットごとに移動・射程・防御の個性がはっきりしており、配置の段階で勝負の半分が決まるタイプだ。強力な固定砲で壁を作って押し留めるか、機動力の高い部隊でヒット&アウェイを繰り返して削るか――同じ目的でも“勝ち方の筋道”が複数あるのが面白い。フィールドが広大ではないぶん、1ターンごとの判断が濃く、読み負けると一気に押し切られる緊迫感がある。派手さよりも、ルールの噛み合わせでドラマを生む設計で、当時のシミュレーション好きに刺さった一作。
★ハイドライド3 THE SPACE MEMORIES(PC-8801mkIISR以降)
・販売会社:T&Eソフト ・販売された年:1987年 ・販売価格:7,800円 ・具体的なゲーム内容:アクションRPGとしての手触りを持ちながら、探索・成長・物語をきちんと積み上げた“当時の国産ARPGの王道”に近い一作。プレイヤーは広い世界を歩き回り、敵を倒して強くなり、新しい土地へ踏み込み、ダンジョンで危険と報酬を交換しながら進む。戦闘は反射神経だけではなく、装備更新や立ち回りの選択で被害を抑えられるため、攻略の納得感が生まれやすい。シリーズとしても、システムの整理が進んで“冒険の気持ちよさ”を前に出している印象が強く、遊び始めると「もう少しだけ強くしてから戻ろう」が連鎖して止まりにくい。RPGの長編体験を、アクションのテンポで噛ませることに成功したタイプの作品だ。
★ドラゴンスレイヤーIV ドラスレファミリー(MSX2)
・販売会社:日本ファルコム ・販売された年:1987年 ・販売価格:6,800円(MSX2版) ・具体的なゲーム内容:シリーズの流れの中でも“家族”を前面に出した独特のアクション作品で、単騎の勇者ではなく複数キャラを切り替えながら進めるのが特徴。力押しの親、器用な役回りの子ども……といった具合に役割が分かれていて、場面ごとに適任を出す判断がそのまま攻略になる。つまり、プレイヤーの腕だけでなく「誰を出すか」という戦術が効く。ステージ構造も、ただ敵を倒して前進するだけではなく、敵の配置や地形のクセを掴んで安全なルートを見つける“家庭内連携”の面白さがある。シリーズファンには変化球として映りつつも、キャラ替えの楽しさで支持されたタイプで、同時期の国産アクションの多様さを象徴する一本と言える。
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