【発売】:ゲームアーツ
【対応パソコン】:PC-8801、PC-9801、MSX、X1、FM-7 など
【発売日】:1987年
【ジャンル】:麻雀ゲーム
■ 概要・詳しい説明
● 麻雀漫画の個性的な世界を「打ち筋」までゲームへ移し替えた1980年代パソコン麻雀の異色作
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は、片山まさゆきによる同名麻雀漫画を題材としてゲームアーツが制作した四人打ち麻雀ゲームであり、1980年代後半の国産パソコンゲームにおける麻雀作品の中でも、特に「対戦する雀士それぞれの個性」を前面へ押し出した作品として知られている。最初に登場したのはPC-8801mkII SR版で、1987年4月16日に発売された。その後はX1/turbo、MSX、PC-9801、FM-7・FM77・FM77AVなどへ順次移植され、一つの機種だけで完結するタイトルではなく、当時の主要な国産パソコン市場を横断するシリーズの出発点となった。
原作は麻雀を題材としていながら、本格的な闘牌劇だけを描く作品とはかなり趣が異なる。強烈な運を持つ人物、常識外れの戦法を好む人物、定石を無視して卓上を混乱させる人物、真面目に打っているように見えてどこか抜けている人物などが次々と現れ、麻雀そのものをギャグへ変えていく独特の作風を持っていた。そのためゲーム化に際しても、キャラクターの顔や名前だけを使い、全員に同じCPU思考を与えるだけでは原作らしさを表現できない。そこでゲームアーツは、「その人物ならどんな麻雀を打つのか」という部分までゲームシステムへ組み込む方向を選んだ。
本作における原作再現は、キャラクターのグラフィックやセリフだけに限定されない。ある人物はテンパイすれば積極的にリーチへ向かい、別の人物は黙って手を育て、別の人物は鳴きを多用して場をかき回す。CPU雀士三人が同じプログラムで牌を切り、名前と顔だけ違うという従来型の表現から一歩進み、「誰と卓を囲むかによってゲームそのものの感触が変わる」という方向性を明確に打ち出した。
ジャンルとして見れば基本は一人用の四人打ち麻雀であり、配牌から手牌を整え、役を作り、ロンやツモによる和了を目指して点棒を競う。しかし実際のプレイ感覚は一般的な麻雀シミュレーターとはかなり違う。自分の手牌だけでなく、現在卓にいるキャラクターがどのような人物なのかまで考える必要があるからである。「この相手のリーチは危険」「この人物なら無理な鳴きも平気でする」といった人物研究が、そのまま攻略情報になる。麻雀ゲームでありながら、対戦ゲームのように相手キャラクターの行動パターンを覚えて対策する楽しさを持っているのである。
● 「最強のCPU」より「その人物らしく打つCPU」を目指した設計
本作を語るうえで重要なのが、CPU雀士の作り分けである。麻雀ゲームには当然、コンピューターが何を切るのかを決定する思考ルーチンが必要になるが、『ぎゅわんぶらあ自己中心派』では、単純な難易度差ではなく、登場人物それぞれに異なる判断傾向を持たせようとした。
CPUは手牌の構成、狙えそうな役、得点状況、他家の仕掛け、リーチの有無、危険牌などを見ながら行動する。そして重要なのは、一度決めた役を最後まで機械的に追い続けるだけではなく、ツモや場況によって方針を変化させることである。最初は一つの役を狙っていても、別の牌が集まれば方針を変更する。この迷いや変化が、人間の麻雀らしい雰囲気につながっている。
危険牌についても、相手の捨て牌、スジ、場に見えている枚数などを判断材料にしており、それによってCPUが現在の局面を理解しているようなセリフを表示できる。単に用意された文章をランダムに表示するのではなく、ゲーム状況と人物の性格が結び付くことで、「漫画のキャラクターが実際に卓上を見ながら考えている」ような印象を作り出した。
本作の方向性は、必ずしもすべての雀士を強くすることではない。原作で下手な人物なら、ゲームでも下手らしく打たせる。効率から外れた鳴きや不可解な進行であっても、その人物らしさが出るならキャラクター表現として成立する。この「正しい麻雀AI」ではなく「キャラクターとして正しい麻雀AI」を作るという考え方こそ、本作を特徴付けている。
● 公平さよりも「流れ」を優先した大胆なツキシステム
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』最大の特徴の一つが、ツキを明確にゲームシステムへ取り込んだことである。通常の麻雀ゲームでは、あらかじめ公平な牌山を作り、そこから順番に牌を引くことが理想とされやすい。ところが本作は、原作キャラクターたちの異常な強運や漫画的な勝負展開を再現するため、牌の入り方へ意図的な影響を与える方向を採用した。
調子に乗って和了を続ければ必要な牌を引き込みやすくなり、反対に痛い放銃などで流れを失うと、それまでの勢いが途切れたような展開になる。この仕組みによって一局ごとの勝敗だけではなく、「現在誰に流れがあるのか」が重要になる。
キャラクター側にもこのツキが利用されている。特定の打ち筋を再現するため、得意な役へつながりやすい牌が入りやすくなるなど、思考ルーチンだけでは表現しにくい漫画的な強さをツモそのものから補強している。これによって「頭が良いから強い」だけではなく、「異常に引きが良い」「無茶な打ち方なのになぜか和了する」といった人物ごとの強さを作ることができた。
純粋な競技麻雀として考えれば賛否が分かれる仕組みである。しかし原作世界を再現するという目的から見れば非常に合理的だった。すべてを公平な抽選にしてしまえば、漫画で描かれた常識外れの勝負運を再現することは難しい。本作は公平性よりも「面白い展開が発生すること」を重視し、その割り切りによって他の麻雀ゲームとは違った個性を獲得したのである。
● 12人の雀士が生み出す、同じ麻雀とは思えないほど異なる対局展開
初代作品では、持杉ドラ夫をはじめとする12人の雀士が登場する。強豪だけを揃えたゲームではなく、まともに麻雀を打てるのか疑いたくなる人物から、反則的な能力を思わせる強運の持ち主まで幅広い。
一般的な麻雀ゲームなら、「初心者CPU」「中級CPU」「上級CPU」というように純粋な強さだけを変えることが多い。しかし本作では、「どんな変な麻雀をするのか」という部分までキャラクター選択の意味になる。
オクトパシーふみやタコ宮内のような人物は、効率から見ると首をかしげるような仕掛けによって卓を荒らすことがある。中島ハコは黙って手を進める傾向を持ち、ミエちゃんはテンパイ後のリーチへ積極的に向かう。強力な特殊性を持つゴッドハンドのような相手が加われば、普通の確率感覚では説明しにくい局面まで生まれる。
顔グラフィックにも複数の表情が用意され、和了すれば満足そうな表情を見せ、放銃すれば悔しそうな顔になる。対局中のセリフも多く、CPU三人が無言で牌を切る従来型の麻雀よりも、実際に個性的な人物たちと卓を囲んでいるような賑やかさを持っていた。
● フリー対局・勝ち抜き・指導・タコ度判定など麻雀以外の遊びも充実
本作では自由にメンバーを選んで対局する形式と、順番に対戦相手を突破していく勝ち抜き形式が主要な遊びとなる。フリー対局では好きな三人を選び、自分だけの卓を作ることができる。強い雀士ばかりを集めてもよいし、癖の強い人物だけを揃えて混沌とした対局を楽しむこともできる。
指導機能では、キャラクターの一人をプレイヤーの指導役として設定できる。単純に正解となる牌を表示するだけではなく、指導者自身の打ち筋が助言に反映されることが特徴である。堅実な人物なら比較的まともな進言をするが、癖のある人物なら、その人物らしい奇妙な提案をすることもある。
対局終了後には「タコ度」が判定される。原作世界で下手な雀士を示す「タコ」という言葉をそのまま評価機能へ利用したもので、順位だけではなく打ち方までゲームから評価される。勝利したかどうかだけで終了せず、「自分はどの程度のタコなのか」という笑いが最後まで続く。
さらにCPU同士の対局を眺めるような遊びも可能で、思考ルーチン自体が一種の見世物となっていた。個性的な雀士を集めて「この組み合わせならどうなるのか」と観察するだけでも楽しめるのである。
● MSX版など移植作品ではハード特性に合わせた追加演出も実施
複数パソコンへ展開された本作の中でも、MSX版は興味深い仕様を持っていた。一つのROMカートリッジでMSXとMSX2の双方へ対応し、使用する本体に応じて表示内容を切り替える構成を採用していた。
MSX2ではより広い表示領域を活用し、捨て牌やキャラクター情報を見やすくする一方、MSXでは機種の制約に応じた画面構成へ調整されている。単純に色数だけを変えるのではなく、同じゲームを異なる性能の環境で成立させる工夫が施されていた。
対応環境ではFM音源などを利用したBGMや効果音、さらに「ロン」「チー」「リーチ」といった発声も楽しめた。当時としてはゲーム中に人の声らしい音が聞こえるだけでも大きな演出であり、麻雀卓の賑やかさを高めている。
MSX版では持杉ドラ夫を中心とするオープニングも用意され、マニュアルも充実していた。操作説明だけではなく麻雀入門やキャラクター紹介にもページを割き、原作ファンで麻雀に詳しくない購入者まで作品へ入りやすい構成となっていた。
● キャラクター麻雀というジャンルを強く印象付け、その後のシリーズ化へつながった
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』が興味深いのは、原作付きゲームとしての再現度と、CPU雀士を個性的な対戦相手へ変えるゲームデザインが一体化していることである。
単純に人気漫画を使った麻雀ゲームではなく、「この人物ならこの牌を残す」「この人物ならここで鳴く」「この人物なら危険でも押す」という行動まで再現しなければ原作のゲーム化にはならないという考え方が作品全体へ貫かれている。
初代の評判を受けて続編が作られ、PC向けシリーズだけでも複数作品へ発展した。さらに後年には家庭用ゲーム機でも関連タイトルが展開され、『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は単発の漫画原作ゲームではなく長期シリーズへ成長していった。
初代パソコン版の正確な累計販売本数について信頼できる公表数字を確認することは難しいが、短期間で続編が登場し、複数機種へ移植され、その後も長期間シリーズ化されたという事実そのものが一定以上の人気を物語っている。
本作の価値をまとめるなら、「コンピューターで麻雀ができるゲーム」から「個性的な雀士と麻雀をするゲーム」へ一歩踏み込んだ作品だったと言える。ツキ、異なるAI、セリフ、表情、指導、タコ度判定など、すべてが「原作の人物たちと卓を囲んでいるように感じさせる」という目的へ向かって組み合わされている。
■■■■ ゲームの魅力・攻略・好きなキャラクター
● 最大の魅力は「正しい麻雀」だけでは勝負が決まらないキャラクター主体の対局
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』の面白さを一言で表現するなら、一般的な麻雀ゲームへ求められる牌効率や捨て牌読みの上に、漫画ならではのキャラクター性とツキを重ねたところにある。基本は四人打ち麻雀なので、配牌から不要牌を整理し、面子と雀頭を作り、役を成立させて和了を目指す。しかし本作では、それだけで安定して勝てるとは限らない。
対戦相手が誰なのか、その人物は何を得意とするのか、現在誰に勢いがあるのかを意識する必要がある。同じ戦法をすべてのCPUへ適用すると、思わぬところから崩される。早いリーチを多用する人物、鳴きによって速度を上げる人物、特殊なツモ運で突然高い手を完成させる人物などが異なるテンポで卓へ介入してくるためである。
自分の手牌だけ見ていると、気付かないうちに強力なキャラクターがテンパイしている場合がある。逆に人物の性格を把握していれば、「この相手がこのタイミングでリーチしたなら危険」「このキャラクターは多少無茶でも鳴くため仕掛けだけでは判断しにくい」といった読みが可能になる。
攻略に必要なのは麻雀知識だけではなく、キャラクター研究なのである。
● ツキを失わないことが重要になる独特の攻略
ツキありで遊ぶ場合、一般的な麻雀とは異なる攻略感覚が必要になる。好調なときには必要な牌が次々と入り、テンパイまで滑らかに進むことがある。一方、大きな放銃などをきっかけに流れが悪くなれば、配牌やツモが急に重く感じられることもある。
そのため、好調な状況では単に高い役を狙うだけではなく、現在の勢いを維持することまで考えたい。安い手でも早く和了できるなら、無理に手を伸ばして相手へ放銃するより、局を終わらせてツキを保つほうが有効な場合がある。
逆に調子が悪いと感じる局では、無理な攻撃を控え、安全牌を残しながら次の局を待つ選択も重要になる。
つまり本作では「毎局最大得点を狙う」より、「対局全体の流れを読む」ことが攻略の一部になる。
● ゴッドハンド――本作の理不尽さと爽快さを象徴する存在
登場人物の中でもゴッドハンドは、本作の方向性を非常に分かりやすく示すキャラクターである。得意な展開へ入ると早いテンパイから強烈なツモへつなげ、通常の確率感覚では信じにくい和了を決めることがある。
普通の麻雀なら、早くテンパイしたからといってすぐ和了できるとは限らない。しかしゴッドハンドでは、その常識外れの引きそのものがキャラクター能力として表現される。
対策としては、相手が明らかに好調なときに真正面から速度勝負を挑まないことが重要である。安い一向聴程度なら無理に危険牌を押さず、安全に撤退して相手の勢いが落ちるのを待つ。
反対に指導者などの仕組みを利用してプレイヤー側が強力な能力を楽しめる場面では、通常の麻雀とは異なる爽快感を味わえる。
好きなキャラクターを一人選ぶなら、ゴッドハンドは特に印象的である。単純に強いだけでなく、『ぎゅわんぶらあ自己中心派』が「完全な公平性よりも漫画的な面白さを選んだ作品」であることを最も端的に示しているからである。
● タコ宮内――弱いCPUまで面白いキャラクターへ変えた発想
一般的な麻雀ゲームでCPUが不可解な手を打てば、単純に思考ルーチンの出来が悪いと評価される。しかし本作では、その弱さ自体をキャラクター性へ変換した。
タコ宮内のような人物は、意味の薄い鳴きや不自然なカンなど、麻雀の定石から見ると疑問の残る行動を見せることがある。ところが原作でそうした人物として描かれているため、「AIが弱い」のではなく「タコ宮内らしい」という笑いになる。
しかも無茶な打ち方をしているから必ず負けるとは限らない。ツキによって思いもよらない和了を決め、真面目に打っているプレイヤーが負かされることもある。この理不尽さまで含めてギャグになっている。
攻略上は、下手な相手だからと油断しないことが大切である。予測不能な打ち筋は、逆に待ち牌を読みづらくする場合があるからだ。
● 迷彩的な打ち方や特殊な狙いが捨て牌読みまで変化させる
本作の雀士は単純な強弱だけでなく、何を目的に打っているのかまで異なる。迷彩を重視するキャラクターであれば、通常の捨て牌読みを乱すような進行を見せる。
一般的な麻雀AIでは捨て牌は単なる手牌整理の結果だが、本作では捨て牌そのものがキャラクター表現になる場合がある。そのため、序盤に特定の色が大量に切られているからといって、単純にその色が安全とは限らない。
相手のタイプ、鳴き方、リーチのタイミング、ドラ、場に見えている牌などを総合的に考える必要がある。
● フリー対局ではメンバー選びそのものがゲームになる
フリー対局では、誰と打つかによって卓の雰囲気を変えられる。
攻撃的な人物を三人集めれば序盤からリーチや仕掛けが飛び交う。慎重な雀士を揃えれば、一局が長くなりやすく、じっくりした読み合いになる。予測不能な人物ばかり選べば、定石がほとんど通用しない混沌とした麻雀になる。
初心者は比較的分かりやすいキャラクターから始め、一人ずつ癖の強い相手を追加すると特徴を理解しやすい。
経験者なら、あえて強運型、速攻型、予測不能型を同卓させ、自分だけが普通の麻雀を打ちながらどこまで生き残れるか試すのも面白い。
● 勝ち抜きでは一局の大勝より「生き残る麻雀」が重要
勝ち抜き形式では、単発の半荘だけでなく全体を通じた安定感が重要になる。
毎局高い役を狙うのではなく、配牌が悪ければ守り、良ければ攻めるという切り替えが必要である。特に強運キャラクターが得意な流れへ入った場合、自分が一向聴だからという理由だけで危険牌を押し続けると、一度の放銃から大きく崩される可能性がある。
逆に相手が失点した直後など、勢いを失っていると感じる場面では攻める価値がある。
勝つ局、耐える局、点差を守る局を分けることが攻略の基本となる。
● 基本攻略その1――配牌を見た段階で速度・打点・守備の方針を決める
配牌が良く、中張牌が連続しているなら両面を残しながら速いテンパイを目指す。対子が多ければ七対子や刻子系の役を意識する。ドラが複数あれば、複雑な役を狙わなくても十分な得点を期待できる。
反対に配牌が極端に悪いなら、無理に和了を狙わず、他家の攻撃に備えて安全牌候補を残しておくことも重要である。
「全部の局で和了を目指す」のではなく、数巡のうちにその局で何をするのか決めることが安定につながる。
● 基本攻略その2――リーチの危険度をキャラクター別に考える
本作では、同じリーチでも誰が宣言したかによって意味が違う。
強運型や速攻型のリーチなら通常以上に警戒し、自分が安い手なら早めに撤退する。逆に無謀なタイプの相手なら、リーチしたからといって必ずしも良形・高打点とは限らない。
何度か対戦してリーチ頻度や仕掛け方を覚え、自分なりに危険度を分類することが有効である。
現物、スジ、壁など一般的な麻雀の安全牌判断も役立つが、特殊な打ち方をする人物相手では過信しすぎないことが重要になる。
● 基本攻略その3――安い和了にも「流れを止める」価値がある
本作では1000点、2000点程度の安い和了でも、相手の強運を止める意味がある。
強力なキャラクターを長時間自由にさせるほど、異常なツモから高い手を完成させる可能性が高くなる。自分に早い和了が見えているなら、無理に高打点へ伸ばすより先に局を終わらせることが有効な場合がある。
さらに自分が連続和了している状況なら、流れを維持する意味でも速度を優先したい。
● 基本攻略その4――強運キャラクターと真正面から勝負し続けない
好調な強運キャラクターに対して、すべての局で正面から速度勝負を挑むのは危険である。
自分の手が悪いなら降りる。大きくトップなら、安い手で危険牌を押さない。相手が得意なパターンへ入っているなら、一局を捨てる勇気を持つ。
派手な能力が飛び交うゲームだからこそ、プレイヤー側が冷静な判断を続けることが最も強い対抗策になる場合がある。
● 指導者システムは初心者救済だけでなく、別の能力を体験する遊び
指導機能は、麻雀初心者へ捨て牌を教えるだけではない。
誰を先生にするかによって助言の傾向が変化し、場合によってはそのキャラクターらしい特殊な能力までプレイヤー側へ影響するため、通常とは違う麻雀を楽しむ手段にもなる。
堅実な人物を指導役にして学習する遊び方もあれば、あえて癖の強い人物を選び、その助言へ従ってみる遊び方もある。
最初は補助として利用し、慣れたら指導なし、さらに慣れたら特殊な指導者で変則プレイというように段階を変えると長く楽しめる。
● ツキなしではキャラクターAIそのものを観察できる
特殊なツキの影響を弱めると、キャラクターの純粋な判断傾向が見えやすくなる。
ツキありでは圧倒的だった人物が普通に見えたり、派手な能力を持たない堅実な雀士が意外な強さを見せたりする。
同じメンバーでツキあり・なしを比較することで、「この人物は純粋な思考が強いのか」「ツキで強くなっているのか」という観察まで楽しめる。
● 本作の必勝法は「麻雀の定石」と「ゲーム固有の非常識」を両方理解すること
攻略をまとめるなら、まず自分の手では基本的な牌効率を守る。次に捨て牌を見て放銃を減らす。そしてキャラクターの癖を覚え、ツキの状態を意識し、最後に点棒状況に応じて攻守を変える。
正しい麻雀を打っているから必ず勝てるとは考えないことが重要である。
本作では正しい手を選んでいても、漫画的な強運で押し切られる場合がある。しかし、その理不尽さを含めて対策を考えることが『ぎゅわんぶらあ自己中心派』ならではの攻略となる。
● 最も記憶へ残るのは攻略理論を吹き飛ばす「漫画のような一局」
本作を長く遊んだ後に残るのは、必ずしも完璧な手順でトップを取った半荘だけではない。
あり得ないほど連続して必要牌を引いた局、ゴッドハンドに一瞬で和了された局、タコ宮内の理解不能な打ち方へ負けた局、どう考えても不合理なCPUが結果だけは成功させた局など、「普通の麻雀ゲームでは起こりにくい出来事」こそ記憶に残る。
攻略法を覚えたうえで、それでも理論通りにいかないキャラクター麻雀を笑って楽しめるようになると、本作の魅力を最も深く味わえるのである。
■■■■ 感想・評判・口コミ
● 「普通の麻雀ゲームだと思って遊ぶと驚かされる」という印象
本作を遊んだ人の感想としてまず挙げられるのは、「一般的なCPU麻雀とはかなり違う」という印象である。
画面上で行うことは普通の四人打ち麻雀だが、何度か対局するとCPU雀士それぞれに癖があり、対戦相手によって局の雰囲気が変わることが分かる。
ある相手はリーチが怖く、ある相手は鳴きが多く、ある相手は何を考えているのか分からない。そのためCPU三人をまとめて「コンピューター」と認識するのではなく、それぞれ別の人物として覚えるようになる。
この感覚が、単なる麻雀ソフトではなくキャラクター麻雀として高く評価される理由となっている。
● 原作ファンから評価される「本人が本当に打っているような感覚」
原作を知るプレイヤーにとって特に嬉しいのは、キャラクター性が見た目だけでなく打ち筋へ反映されていることである。
原作付きゲームでは、登場人物の顔だけ使い、ゲーム内容は一般的な作品とほとんど変わらないこともある。しかし本作では、人物の性格をCPU判断へ変換している。
積極的にリーチする人物、黙って手を育てる人物、鳴きを多用する人物、無謀な攻撃をする人物などが明確に分かれているため、「あのキャラクターなら確かにこんな麻雀をする」と感じやすい。
セリフや表情変化もそれを補強し、漫画の登場人物と卓を囲んでいる感覚を作り出している。
● 強烈なツキには「面白い」と「理不尽」の両方の評価が付きやすい
ツキを使ったシステムは、本作の評価を分ける最大のポイントでもある。
競技麻雀を重視するプレイヤーなら、自分が正しい手順で進めてもCPUが強烈な引きによって一方的に和了する場面を不公平と感じる場合がある。
しかしキャラクターゲームとして見れば、その不公平さこそ原作再現となる。ゴッドハンドのような人物が普通の確率で普通の牌を引いていては、その人物らしくない。
そのため「悔しかった」「反則だと思った」といった感想と、「それが面白かった」「あの理不尽さを今でも覚えている」という感想が同時に成立する。
● 弱いキャラクターまで人気になる珍しい麻雀ゲーム
本作では、強いCPUだけが評価されるわけではない。
タコ宮内などの下手な雀士は、効率から外れた打牌をする。しかし、それが設定と一致しているため、プレイヤーからは「また妙なことをしている」と笑いの対象になる。
普通ならAIの不出来として処理される部分が、キャラクター表現として肯定される。この構造は本作ならではである。
さらに無茶な相手ほど読みづらく、時には偶然高い手を完成させてしまうため、単なる弱敵にもならない。
● 競技麻雀を求めるか娯楽麻雀を求めるかで評価が大きく変化
純粋な実力勝負を求めるプレイヤーの場合、ツキの補正や極端なキャラクター能力に違和感を覚える可能性がある。
一方、麻雀を題材にした娯楽作品を求める人にとっては、その部分こそ最大の長所になる。
現実ではめったに起こらないような展開が起こり、CPUがセリフや表情で反応するため、淡々とした対局になりにくい。
したがって本作は、精密な麻雀シミュレーターとして採点するより、「麻雀を使ったキャラクターゲーム」として評価したほうが魅力を理解しやすい。
● メンバーを変えるだけで別のゲーム展開になることへの高評価
フリー対局では好きな三人を選べるため、組み合わせだけで対局の性格を変えられる。
鳴き型を集めれば序盤から牌が激しく動き、リーチ型を揃えれば緊張感の高い高速対局となる。強運型がいれば一瞬で流れが変わり、予測不能型が多ければセオリーそのものが通じにくくなる。
「次はこの組み合わせで遊んでみよう」と思わせる設計が、長期間楽しめる理由となっている。
● 指導者システムは「親切」だけではなく「笑える」
一般的な麻雀ゲームのアドバイスなら、最善と思われる打牌を提示することが目的になる。しかし本作では、指導者にも性格がある。
まともな人物なら初心者向け機能として役立つ一方、癖のある人物を先生にすると、助言まで怪しくなる。
「先生を付けたのに余計に不安になる」という状況さえキャラクターギャグとして成立していることが、本作らしい。
● タコ度判定によって対局後まで作品世界が続く
対局が終わった後にタコ度を判定されることも、印象へ残りやすい機能である。
普通なら順位と得点が出て終了するところ、本作ではプレイヤーの打ち方まで評価される。
真剣に打ったのにタコ扱いされれば悔しいが、その悔しさが再プレイの動機になる。原作の用語をゲームシステムへそのまま利用することで、対局終了まで作品世界が崩れない。
● 当時としては顔グラフィックと表情変化だけでも強い存在感があった
現在の視点ではグラフィックは簡素だが、1987年前後のパソコンゲームとして見ると、対戦相手の顔が表示され、勝敗によって表情が変わることには十分な意味があった。
誰と打っているのかが常に分かり、セリフと組み合わせることでCPUへ人格を感じやすくなる。
数字と牌だけの麻雀ゲームから、キャラクターの感情が見える麻雀ゲームへ変えた点は大きい。
● 音声合成やFM音源も当時のプレイヤーには強い印象を残した
対応環境では、「ロン」「チー」「リーチ」などの発声やFM音源によるBGM・効果音がゲームを盛り上げた。
現代のフルボイス作品とは比較できないほど簡素だが、当時はパソコンから人の声らしいものが聞こえるだけでも印象的だった。
麻雀は本来、ポンやロンを声に出すゲームなので、音声演出とジャンルの相性も良い。現在では機械的な発声も含めてレトロパソコンらしい味となっている。
● 麻雀初心者にとっても漫画からルールへ入る入口になった
原作ファン全員が麻雀経験者だったわけではないため、指導機能やマニュアルの麻雀入門的な内容には大きな意味があった。
漫画が好きだからゲームを購入し、ゲームを遊ぶために麻雀の役やルールを覚えるという流れが生まれる。
好きなキャラクターを入り口にできるため、教科書だけで麻雀を覚えるより敷居を低く感じる人もいたと考えられる。
● AIの不完全ささえ作品世界へ取り込んでいる
現在の高度な麻雀AIと比較すれば、本作のCPU判断には当然古さがある。
しかし原作には完璧な雀士だけが登場するわけではない。無謀な人物、下手な人物、独自の信念だけで打つ人物が存在するため、CPUの非効率な行動がそのまま人物表現になる場合がある。
「AIとして間違っているがキャラクターとして正しい」という現象が成立することが、本作の独特な魅力である。
● 現在ではキャラクターAIの歴史を感じられる作品としても興味深い
現代ではCPUごとに攻撃型、守備型、速攻型などを設定することは珍しくない。しかし1980年代の麻雀ゲームで、対戦相手ごとに性格を強く感じさせる設計はまだ新鮮だった。
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は「CPUを強くする」だけではなく「CPUを人物にする」ことを目指した作品として、ゲームデザイン史の観点から見ても興味深い。
● 現在遊ぶ場合は操作性やテンポなど時代相応の古さもある
一方、現在遊べば不便に感じるところもある。
キーボード中心の操作、実機環境の準備、フロッピーディスクの扱い、CPU思考や画面切り替えのテンポなどは、現代の麻雀ゲームとは大きく異なる。
ツキによる牌への介入も、完全な公平性を前提とするオンライン麻雀へ慣れた人には違和感を与えるだろう。
しかし1987年当時の技術的制約と作品の方向性を理解して遊べば、その古さもレトロゲームとしての魅力へ変わる。
● 「何点で勝ったか」より「誰に何をされたか」が記憶へ残る
本作の口コミや思い出を象徴するのは、勝敗そのものより対局中の事件が語られやすいことである。
「あのキャラクターに異常なツモをされた」「タコ宮内の変な打ち方へ負けた」「突然大物手を和了された」といった出来事が長く記憶へ残る。
これはCPUが単なる計算装置ではなく、腹が立つ相手、笑える相手、怖い相手として認識されていたことを示している。
● 総合的な評判は「遊べる麻雀漫画」と考えると理解しやすい
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は、完璧な競技麻雀シミュレーターを目指した作品ではない。
麻雀を土台にしながら、漫画の人物、ギャグ、ツキ、無茶苦茶な勝負展開をコンピューターへ移した作品である。
強い人物は理不尽なほど強く、下手な人物は本当に妙な麻雀をする。プレイヤー自身もツキへ振り回され、大勝ちすることもあれば、納得できないほど簡単に負けることもある。
それでも「もう一度このメンバーで打ちたい」と感じさせることが、本作最大の評価点と言える。
■■■■ 当時の宣伝・現在の中古市場など
● 1987年の国産パソコン市場で展開されたゲームアーツ初期の代表的タイトル
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』が登場した1987年前後は、PC-8801、PC-9801、X1、FM系、MSXなど複数の国産パソコン規格が並存していた時代である。
現在のように一つのソフトが同時に多数の環境へ配信されるのではなく、まず特定機種で発売し、その後反響に応じて別機種へ移植する展開が一般的だった。
本作もPC-8801mkII SRを皮切りに、X1/turbo、MSX、PC-9801、FM系へ数年間かけて広がった。
最初の一機種だけで終わらず、主要パソコンへ順次展開された事実からも、単発の小規模な版権作品ではなく、長期展開が期待されたタイトルだったことが分かる。
● パソコン専門誌・ゲーム雑誌・販促チラシが重要だった時代
1980年代のパソコンゲームでは、現在のSNSや動画配信サービスのような宣伝手段は存在しなかった。そのため、新作を知る主要な入口はパソコン専門誌、ゲーム雑誌、ショップ店頭、メーカー広告、販促チラシなどだった。
新作紹介の記事で画面写真を見たり、広告から発売予定を知ったり、攻略記事やレビューを読んで購入を決めたりするのが一般的である。
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』も、原作漫画の知名度とゲームアーツというメーカー名を活用しながら、専門誌や店頭を中心に認知を広げていったと考えられる。
本作は発売まで比較的長い開発期間を経た作品でもあり、発売前から告知されていたことも、当時のパソコンゲームファンの期待を高める要素となった。
● 宣伝材料は「12人全員が違う麻雀を打つ」というゲーム内容そのもの
本作の広告上の強みは、原作漫画をゲーム化したという事実だけではない。
12人の雀士がそれぞれ異なる打ち筋を持ち、ツキの概念をゲームへ導入し、指導、タコ度判定、オート対局、音声演出などを備えていたことが大きなアピールポイントとなる。
普通の麻雀ソフトなら「四人打ち対応」「ルール設定」「CPUの強さ」といった点が中心になるが、本作では「誰と打つかによって展開が変わる」という非常に説明しやすい特徴があった。
漫画ファンにも麻雀ファンにも訴求できる商品だったのである。
● 原作ファンとパソコンゲームファンの両方を狙える立ち位置
片山まさゆきの原作を知る読者にとっては、「漫画の登場人物と実際に自分が麻雀を打てる」ことが大きな魅力になる。
一方、原作を知らないパソコンユーザーにとっても、個性的なCPUを相手にする変則麻雀として楽しめる。
さらにゲームアーツは『テグザー』や『シルフィード』などで技術力を印象付けていたメーカーであり、そのメーカーが麻雀ゲームをどのように作るのかという興味もあった。
原作人気、麻雀、メーカーへの注目という複数の入口を持っていた点は販売上の強みだった。
● パッケージ、説明書、ディスクやROMを含めて一つの商品だった
発売当時はダウンロード販売ではなく、箱にフロッピーディスクやROMカートリッジ、マニュアルなどを収めたパッケージソフトを店頭で購入するのが基本だった。
このため箱絵、裏面のゲーム紹介、マニュアルの文章、キャラクター紹介なども作品の一部である。
特にMSX版のようにマニュアルへ麻雀入門や人物紹介を多く掲載した商品は、ゲームを起動する前から原作世界へ入り込めるよう作られていた。
現在中古市場で箱・説明書付きが高く評価されるのも、当時のパッケージ全体が文化資料として価値を持つためである。
● 正確な累計販売本数より、短期間の続編化と多機種展開が成功を示している
初代作品について、現在信頼できる公式資料から具体的な累計販売本数を断定することは難しい。
そのため「○万本売れた」と推測で数字を作るより、シリーズ展開そのものを見るべきである。
PC-8801版が1987年4月に発売された後、同じ年のうちに続編が登場し、その後もPC向け作品が複数制作された。さらに家庭用ゲーム機にも関連作品が広がった。
一つの麻雀ゲームがこれだけ長期間展開されたこと自体、市場で十分な支持を得た証拠と考えられる。
● 現在の中古市場では「超高額ソフト」というより状態差が価格差へ直結
2026年現在、初代『ぎゅわんぶらあ自己中心派』のパソコン版は中古ショップやインターネットオークションへ時折出品されている。
ただし、すべてが数万円から数十万円になるような超高額プレミア作品という状態ではない。
MSX版のROMカートリッジ単品、PC-9801版、X1版などが数千円前後で取引される例があり、状態や付属品によって価格が大きく変化する。
重要なのは、同じタイトル名でも対応機種、箱の有無、説明書の有無、媒体の状態、動作確認などが異なるため、単純に一つの相場へまとめられないことである。
● MSX版はカートリッジ単品と箱説付きで価格差が生まれやすい
MSX版はROMカートリッジ媒体であるため、フロッピーディスク版より現在でも扱いやすく、中古市場でも比較的見つけやすい。
カートリッジ単品なら千円台から数千円程度で出品されることがあり、箱や説明書が揃った個体になると価格が高くなる傾向が見られる。
遊ぶだけなら裸カートリッジでもよいが、コレクション目的なら当時の箱や説明書まで揃っているかどうかが重要になる。
● PC-8801・PC-9801・X1・FM系は媒体状態まで重要
フロッピーディスクを使用するパソコン版では、ソフトそのものの経年劣化が問題になる。
発売から約40年が経過しているため、ディスクが見た目では綺麗でも正常に読み込めるとは限らない。さらに実機側のディスクドライブも正常でなければ遊べない。
中古購入時には、動作確認済みか、ディスク面に傷やカビがないか、必要な付属品が残っているかを確認したい。
特にPC-9801ではディスク規格の違いもあるため、所有する実機と媒体が合っているかまで見る必要がある。
● 「史上最高価格」を簡単に断定できない
レトロゲーム市場の記事では最高落札額を紹介したくなるが、本作について歴代最高額を正確に断定することは難しい。
オークションサイトで一般公開されている履歴は期間が限定され、すべての過去取引を網羅しているわけではない。
またタイトル検索にはシリーズ作品、攻略本、まとめ売りなどが混ざる場合もある。
そのため一時的な最高落札額を「歴代最高」と表現せず、「確認できる検索期間ではこの程度」と条件を付けて考える必要がある。
● 価格高騰より「欲しい版がいつ出品されるか分からない」ことが問題
本作の中古価格が長期的に必ず上昇していると断定できる十分な資料はない。
むしろコレクターにとって重要なのは、特定の機種版や良好な完品が常時市場へ出ているわけではないことである。
40年近く前のPCソフトは、所有者が手放さなければ市場へ出てこない。さらに箱説付き、動作確認済みとなるほど条件は厳しくなる。
投資的に価格上昇を期待するより、「良い状態の欲しい版を見つけたときに入手できるか」という希少性を重視したほうが実情に近い。
● 箱・マニュアル・広告類は1980年代ゲーム文化を伝える資料でもある
現在のレトロゲーム収集では、実際にゲームを遊べるかどうかだけでなく、当時どのように販売されていたかを残す資料価値も大きい。
箱には宣伝文句や画面写真があり、説明書にはゲームルール、人物紹介、メーカー独自の文章が残されている。
販促チラシや雑誌広告まで集めれば、1987年前後にどのような言葉でユーザーへ作品を売ろうとしていたのかまで確認できる。
このため完品は単なる中古ゲーム以上の価値を持つ。
● 後年の家庭用機展開によってパソコン版へ興味を持つ世代も生まれた
シリーズは後に家庭用ゲーム機でも展開され、パソコン版をリアルタイムで知らない人にも『ぎゅわんぶらあ自己中心派』という名前が広がった。
家庭用機の作品からシリーズへ入り、「最初のPC版はどのようなゲームだったのか」と興味を持つレトロゲームファンもいる。
この意味でも初代PC版は、シリーズの原点としてコレクション価値を持ち続けている。
● 現在の価値は金額だけではなく、ゲームアーツ史とキャラクター麻雀史を残すこと
現在の初代『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は、高額プレミアソフトかどうかだけで評価する作品ではない。
ゲームアーツ初期の作品史、1980年代の国産パソコン市場、漫画原作ゲーム、キャラクターAI、ツキを利用した麻雀ゲームという複数の要素が一つになった資料でもある。
現在中古市場でオリジナル版を手にすることは、単に古い麻雀ゲームを購入するというだけではなく、その後のキャラクター麻雀へつながっていく一時代のゲーム文化を所有する意味も持っているのである。
■■■■ 総合的なまとめ
● 麻雀ゲームに「対戦相手の人格」を持ち込んだ重要な一作
1987年にPC-8801mkII SR向けとして登場し、その後X1、MSX、PC-9801、FM系などへ展開された『ぎゅわんぶらあ自己中心派』を総合的に見ると、最大の功績は「誰と麻雀をするのか」という面白さをゲームシステムの中心へ置いたことである。
麻雀ゲームとして最低限必要なのは、牌山、手牌、役判定、点数計算、CPUによる打牌処理である。しかし本作はそこからさらに踏み込み、CPU雀士一人一人へ異なる性格を与えた。
強い人物はその人物らしい方法で強く、下手な人物は下手なりの行動をする。プレイヤーはCPU三人を一括して「コンピューター」と見るのではなく、特定のキャラクターとして意識するようになる。
現在では当たり前に見える設計だが、1980年代のパソコン麻雀としては大きな意味を持っていた。
● 原作の絵ではなく「麻雀の異常さ」まで再現した完成度
本作の原作再現で優れているのは、キャラクターの顔を似せることだけを目的にしなかった点である。
原作の面白さは、極端な性格を持つ人物が普通ではない麻雀をするところにある。そのためゲームでも、鳴き、リーチ、狙う役、守備意識、ツキなどへ個性を反映した。
もし全員が同じ優秀なAIで麻雀を打っていたなら、原作の名前を使っていても『ぎゅわんぶらあ自己中心派』らしさは大きく薄れていたはずである。
ゲームアーツは「漫画の人物なら何をするのか」をゲームルールへ翻訳することによって、原作付きゲームを単なるキャラクター商品以上のものへ仕上げた。
● 「ツキ」を堂々とゲーム化したことが最も大胆な特徴
ツキによる牌の偏りは、本作を好きになるか苦手になるかを決めるほど強烈な要素である。
完全な公平性を重視するなら必要のない仕組みだが、漫画的な強運を再現するためには非常に効果的だった。
強運キャラクターが普通では考えにくい牌を引き、自分自身も好調なら次々と有効牌を引く。そこでプレイヤーは確率だけではなく、「今は流れがこちらにある」と感じながら打つことになる。
麻雀で昔から語られてきた曖昧な「流れ」という概念を、明確なゲーム体験へ変えたところが本作の独自性である。
● 強さだけでなく弱さまで個性として成立
ゴッドハンドのような強烈な雀士だけでなく、タコ宮内のような下手な雀士まで面白いことは、本作の完成度を示している。
普通のゲームでは、CPUが変な行動をすると欠点になる。しかし原作上そういう人物なら、変な行動をしないほうが不自然なのである。
この発想によって、CPUの弱ささえキャラクター性へ変換された。
プレイヤーは最強の相手だけではなく、「この人物と打つと何が起きるか分からない」という理由でも対戦相手を選ぶ。
● 指導、タコ度、オート対局など麻雀周辺の仕掛けまで作品世界へ統一
指導者システムでは先生役までキャラクター性を持ち、対局後にはタコ度判定が行われる。
さらにCPU同士の個性が強いため、自分が参加せず観戦するだけでも楽しめる。
タイトル画面から対局終了後まで、すべてが原作の言葉遣いや人物像へ結び付いている。
こうした細部の積み重ねによって、単に麻雀が遊べるソフトではなく、一つのキャラクターエンターテインメントとして成立した。
● PC-8801版はシリーズすべての原点
歴史的には1987年4月16日に発売されたPC-8801mkII SR版が最も重要である。
キャラクター別思考、ツキ、フリー対局、勝ち抜き、指導など、その後のシリーズへ受け継がれる基本思想がここで形になった。
後発版のほうが遊びやすい部分はあっても、「キャラクター麻雀」という実験を最初に成立させた価値はPC-8801版にある。
● X1版は異なるパソコンユーザーへ作品を広げた移植
X1/turbo版は、シャープ系パソコンを使っていたユーザーが同じ作品を楽しめるようにした移植である。
現在のような統一されたパソコン環境ではなかったため、人気作が自分の所有機種へ移植されること自体が大きなニュースだった。
ゲーム内容の中心を維持しながら、それぞれのハード環境へ作品を届けたことに意味がある。
● MSX版はMSXとMSX2双方への対応やROM媒体が魅力
MSX版は一つのROMでMSXとMSX2の双方へ対応する工夫を持ち、各ハードに応じた表示を行うという特徴があった。
さらに対応音源を利用した音声やBGM、独自のオープニング、充実した説明書など、移植版ならではの付加価値も目立つ。
ROMカートリッジのため現在でも比較的扱いやすく、初代パソコン版を収集したい人にとって魅力的な候補となっている。
● PC-9801版は巨大化していく国産PC市場へ作品を残した
PC-9801シリーズは後に国内パソコン市場で大きな存在となる。
そこへ『ぎゅわんぶらあ自己中心派』が移植されたことで、PC-8801やMSXとは異なる層にもシリーズが広がった。
媒体規格の違いなど現代では扱いが難しい部分もあるが、当時のPC-98ゲーム文化の一つとして価値を持つ。
● FM-7・FM77・FM77AVまで展開されたことが作品寿命の長さを示す
初代PC-8801版から時間が経過した後もFM系への移植が続いたことは、本作が短期間で忘れられたタイトルではなかったことを示す。
主要な国産パソコン環境へ横断的に展開されたことで、『ぎゅわんぶらあ自己中心派』というタイトルは一つの機種に依存せず、多くのユーザーへ知られるようになった。
● 機種差は「どれが完全版か」ではなく移植文化そのものを楽しむべき
PC-8801、X1、MSX、PC-9801、FM系では、CPU、音源、グラフィック、記録媒体などが大きく異なっていた。
そのため各版を比較する際、現在のゲームのように単純な解像度や処理速度だけで優劣を決めることは難しい。
PC-8801版には原点としての価値があり、MSX版には独自仕様があり、それぞれの機種版には当時のパソコン文化が反映されている。
現在レトロゲームとして遊ぶなら、この違いそのものが楽しみになる。
● 家庭用ゲーム機への発展によってシリーズの考え方がさらに広まった
パソコンから始まったシリーズは、後に家庭用ゲーム機へも展開された。
家庭用ではコントローラー中心の操作によって遊びやすくなり、演出や登場人物、モードなども発展していく。
純粋な便利さや豪華さでは後発作品が上回る部分もあるが、「キャラクターごとに違う麻雀を打たせる」「ツキをシステムとして楽しむ」という基本思想は初代ですでに完成していた。
● 後発作品の洗練とは違う、初代ならではの実験的な荒々しさ
シリーズ後期になるほど操作性やグラフィックは洗練される。しかし初代には、まだキャラクター麻雀という形式が確立されていなかった時代だからこその大胆さがある。
ツキを露骨に導入する、下手な人物を本当に下手に打たせる、指導者の助言まで癖を付けるといった発想は、効率だけを重視していれば生まれにくい。
「こんな麻雀ゲームがあってもいい」という実験精神が直接見えることが、初代ならではの味である。
● 現代のオンライン麻雀とは目指している方向がまったく異なる
現在のオンライン麻雀では、人間同士が公平な牌山で競い、牌譜や段位、成績を分析することができる。
そうした作品と本作を同じ基準で比べれば、当然古さや不公平さが目立つ。
しかし『ぎゅわんぶらあ自己中心派』が目指しているのは、完全な競技環境ではない。
原作の奇妙な雀士たちと卓を囲み、普通では起こらない事件を楽しむ作品である。
現代のオンライン麻雀が競技場だとすれば、本作は漫画的な麻雀を体験する遊園地のような存在である。
● 「CPUと戦う理由」を作ったことは現在でも評価できる
人間同士のオンライン対戦が一般的になった現在でも、CPUキャラクターとの対戦には別の価値がある。
本作のCPUは人間プレイヤーの代用品ではない。ゴッドハンドは人間には再現できないようなツモを見せ、タコ宮内は人物設定に基づいた不可解な打ち方をする。
つまり「このゲームでなければ戦えない相手」になっている。
CPUへ人格を与え、その人物と戦うこと自体を目的へした点は、現在のキャラクターゲームにも通じる考え方である。
● 欠点はAIの古さとツキ依存だが、作品の個性と表裏一体
純粋な麻雀AIとして見れば、現在の高度なシステムと比較できるものではない。
一部キャラクターの強さがツキに大きく依存することもあり、ツキを弱めると印象が変わることがある。
操作性や対局テンポにも1980年代らしい古さがある。
しかし、これらをすべて現代風に修正すると、同時に本作らしい異常さも失われてしまう。
合理的なAIだけにし、すべてを公平にすれば、本格的な麻雀シミュレーターには近づく。しかし『ぎゅわんぶらあ自己中心派』ではなくなってしまうのである。
● 販売本数以上に長期シリーズ化された事実が作品の成功を物語る
初代の具体的な累計販売本数を断定できなくても、その後の展開から作品が支持されたことは読み取れる。
PC-8801からX1、MSX、PC-9801、FM系へ広がり、続編が制作され、家庭用ゲーム機へも展開された。
長期間シリーズが維持されたことこそ、初代の成功を最も分かりやすく示している。
● 現在の中古市場では価格より完品・正常動作品を探す難しさが重要
中古価格そのものは必ずしも極端な高額ではないが、約40年前のパソコンソフトである以上、良好な状態の完品を探す難易度は年々高くなる。
箱、説明書、媒体が揃っているか、フロッピーディスクが正常に読めるか、対応実機を用意できるかなど、実際に遊ぶまでの条件は多い。
そのため現在では、単なる遊ぶためのソフト以上にコレクション資料としての意味が強くなっている。
● 初心者には麻雀への入口、経験者には変則麻雀として機能した
麻雀初心者は指導機能やマニュアルを通じてルールを覚え、好きなキャラクターと対戦することを目標にできる。
経験者は通常の麻雀理論だけでは処理できないツキや特殊なCPUを相手に、別の攻略を楽しめる。
同じ作品が初心者には学習の入口となり、経験者には変則麻雀として機能する懐の深さも魅力である。
● 好きなキャラクターができることで麻雀ゲームからキャラクターゲームへ変わる
最強だから好きになる人物もいれば、弱いけれど面白いから好きになる人物もいる。
対戦すると腹が立つのに、いなくなると物足りない相手もいる。
プレイヤーが「CPU3人」ではなくキャラクター名で相手を覚えるようになった時点で、本作のキャラクターゲームとしての狙いは成功している。
● 1987年当時は新鮮、現在はゲームデザイン史として興味深い
発売当時は、キャラクターごとに打ち方が違い、ツキによる派手な展開があり、顔、セリフ、音声まで用意された賑やかな麻雀ゲームとして新鮮だった。
現在では技術的にもっと高度な作品が多数存在する。しかし「限られたハード性能の中で、どこまで人物らしいCPUを作ろうとしたのか」という観点で見ると、非常に興味深い。
性能不足を単なる欠点にせず、限られた容量をキャラクター性へ注ぎ込んだことが作品の強さにつながった。
● 総合評価――麻雀の「正しさ」より「面白さ」を優先したことで完成した個性派の名作
最終的に『ぎゅわんぶらあ自己中心派』を評価するなら、「どこまで正確な麻雀シミュレーターなのか」という一点だけではなく、「麻雀というゲームからどこまで面白い体験を作り出したか」という視点が必要である。
公平な麻雀だけを求めるなら、ツキを操作する必要はない。CPUを単純に強くしたいなら、全員へ優秀な同じ思考ルーチンを持たせればよい。初心者を助けたいだけなら、常に最適な打牌だけを提示すればよい。
しかしゲームアーツはそれとは違う方向を選んだ。
ツキを意図的に作り、強い人物には漫画的な強さを与え、下手な人物には本当に妙な麻雀を打たせ、指導者まで性格を持つ存在にした。そして対局終了後にはプレイヤーのタコ度まで判定した。
一見すると無駄や不公平にも見える仕掛けの積み重ねが、結果として他の麻雀ゲームでは得られない体験を作った。
PC-8801、X1、MSX、PC-9801、FM系の各版にはハード事情に応じた違いがあり、後年の家庭用作品ではさらに遊びやすく豪華になった。しかしシリーズの核心である「雀士一人一人に人格を持たせる」「その人物らしい理不尽さまでゲーム化する」という考え方は、1987年の初代ですでに明確である。
現在では画面、音声、操作性、CPU思考に時代を感じる。しかしゴッドハンドの猛烈なツモに驚き、タコ宮内の不可解な一打へ笑い、自分自身が突然強烈なツキへ乗る感覚は、本作だからこそ味わえる。
プレイヤーへ完全に公平な勝負だけを提供するのではなく、ときには腹が立ち、ときには笑い、ときには信じられない逆転が起こる「記憶へ残る麻雀」を作る。その娯楽性こそ、本作が目指したものだったと考えられる。
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は、単なる1987年製の古い麻雀ゲームではない。漫画原作ゲーム、キャラクターゲーム、麻雀AI、能力系麻雀という複数の方向性が交差した、国産パソコンゲーム史の中でも非常に個性的な一作である。
後発作品がどれほど洗練されても、「漫画の登場人物らしい麻雀そのものをコンピューターへ打たせる」という挑戦を初めて形にした初代の価値は失われない。麻雀の技術だけでは説明できないツキや人物の癖をゲームシステムへ取り込み、それを攻略と笑いの両方へ変えたことこそ、『ぎゅわんぶらあ自己中心派』が長く記憶される最大の理由なのである。
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